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2013年7月16日火曜日

男と女のワイセツ行為

男のズボンの中を盗撮する女性がほとんどいないように、男が排泄するシーンに興奮を覚える女性がほとんどいないように、哲学する女性はほとんどいない。逆に言えば、女性たちはこういうワイセツ行為に欲求を覚えないように、哲学に欲求を覚えないのだ。》(中島義道『生きにくい…』

この見解の正否を云々するまえに、まずここはカント学者であり最近ではニーチェへの言及も多い中島義道氏に敬意を表して、カントとニーチェを引用しよう。

今日では、形而上学にあらゆる軽蔑をあらかさまに示すことが、時代の好尚となってしまった。(……しかし)実際、人間の自然的本性にとって無関心でいられないような対象に関する研究に、どれほど無関心を装ったろころで無益である。自分は形而上学に対して無関心であると称する人達が、いくら学問的な用語を通俗的な調子に改めて、自分の正体をくらまそうとしたところで、とにかく何ごとかを考えるかぎり、彼等がいたく軽蔑しているところの形而上学的見解に、どうしても立ち戻らざるをえないのである。(カント『純粋理性批判』)
女は真理を欲しない。女にとって真理など何であろう。真理ほど女にとって疎遠で、厭わしく、憎らしいものは何もない。──女の最大の技巧は虚言であり、女の最高の関心事は外見と美しさである。われわれは、われわれ男たちは告白しよう。われわれは女がもつほかならぬこの技術のこの本能をこそ尊重し愛するのだ。われわれ、そのわれわれは重苦しいから、女という生き物と附き合うことで心を軽くしたいのである。女たちの手、眼差し、優しい愚かさに接するとき、われわれの真剣さ、われわれの重苦しさや深刻さが殆ど馬鹿々々しいものに見えてくるのだ。(ニーチェ『善悪の彼岸』 木場深定訳)

あるいは、《男の幸福は、「われは欲する」である。女の幸福は、「かれは欲する」ということである。》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳)



「実際、人間の自然的本性にとって無関心でいられないような対象に関する研究に、どれほど無関心を装ったろころで無益である」であるならば、「男と女」についてもしかり。《どうしてもそこに立ち戻らざるをえないのである》。陰陽、明暗、天地…、それらは古来、すべて男と女の話ではないか。
谷間の神霊は永遠不滅。そを玄妙不可思議なメスと謂う。
玄妙不可思議なメスの陰門(ほと)は、これぞ天地を産み出す生命の根源。綿(なが)く綿く太古より存(ながら)えしか、疲れを知らぬその不死身さよ(老子「玄牝の門」)
二一世紀の現在、女や、売春、娼婦の話を抜かして、どうして哲学(知を愛すること)であることができよう。
アフロディテ・ミュリッタ崇拝においては、乙女たちの神聖なる売春を含む淫らで頽廃的な祭礼が行われた。この祭礼は……女神を演じる聖なる娼婦が、その相手役の神ベロス=ヘラクレスの役を演じる奴隷と共に民衆の前に登場し、神聖なる売春の交接儀礼が行われる際に、最大の山場を迎えることになった。この男神を演じる奴隷は、ヘラクレスと同じように、祭りの最後には火刑に処された。(クロソウスキー『古代ローマの女たち』ーーバッハオーフェンの「母権制」と、ニーチェ、あるいはドゥルーズ=マゾッホ

もっとも「女」も「娼婦」も神秘だ。ジ・アザー・セックス、ジェンダーは謎のままにして置きたい》(中井久夫)
ーーだが、それにもかかわらず、男たちは「女」の謎にどうしても立ち戻らざるをえない。

女は常に神秘であった、とフロイトは書く、そして、《私は、女性は男性と同じ超自我を持っていない、そして彼女達は男よりもこの点ずっと自由で、男の行動、活動に見られるような限界が無い、という印象を持っている。》

中井久夫は精神科医像のひとつとして「傭兵」のようなものと書いたあと、次のように書き綴る。
もうひとつの、私にしっくりする精神科医像は、売春婦と重なる。

そもそも一日のうちにヘヴィな対人関係を十いくつも結ぶ職業は、売春婦のほかには精神科医以外にざらにあろうとは思われない。

患者にとって精神科医はただひとりのひと(少なくとも一時点においては)unique oneである。

精神科医にとっては実はそうではない。次のひとを呼び込んだ瞬間に、精神科医は、またそのひとに「ただひとりのひと」として対する。そして、それなりにブロフェッショナルとしてのつとめを果たそうとする。

実は客も患者もうすうすはそのことを知っている。知っていて知らないようにふるまうことに、実は、客も患者も、協力している、一種の共謀者である。つくり出されるものは限りなく真物でもあり、フィクションでもある。

職業的な自己激励によってつとめを果たしつつも、彼あるいは彼女たち自身は、快楽に身をゆだねてはならない。この禁欲なくば、ただのpromiscuousなひとにすぎない。(アマチュアのカウンセラーに、時に、その対応物をみることがある。)

しかし、いっぽうで売春婦にきずつけられて、一生を過まる客もないわけではない。そして売春婦は社会が否認したい存在、しかしなくてはかなわぬ存在である。さらに、母親なり未見の恋びとなりの代用物にすぎない。精神科医の場合もそれほど遠くあるまい。ただ、これを「転移」と呼ぶことがあるだけのちがいである。

以上、陰惨なたとえであると思われるかもしれないが、精神科医の自己陶酔ははっきり有害であり、また、精神科医を高しとする患者は医者ばなれできず、結局、かけがえのない生涯を医者の顔を見て送るという不幸から逃れることができない、と私は思う。(『治療文化論』P197-198)

ーーこう引用したからといって、女の本質は娼婦であるとか、「聖なる娼婦」などというクリシェをここで想い起こすつもりはない。ただ、Come on! とだけ呟いておくことにする。
……in the famous anecdote about George Bernard Shaw—at a dinner party, he asked the upper‐class beauty at his side if she would spend a night with him for 10 million pounds; when she laughingly said yes, he went on and asked if she would do it for 10 pounds; when the lady exploded in rage at being treated like a cheap whore, he calmly replied: “Come on, we have already established that your sexual favors can be bought—now we are only haggling over the price …”(zizek"LESS THAN NOTHING")
ここで「女と本はベッドに連れこむことができる」という古い俚諺から「知」の探索そのものが女体の秘部をまさぐるようでもあったとか、パリを「遊歩」することそのものが娼婦の股ぐらの慰安を求めるようであったとかするベンヤミンをもなぜか附記しておく。《内蔵の中にいると私たちがどれほど安堵するものかということを知りたければ、眩惑されるままに、暗いところが娼婦の股ぐらにひどく似ている街路から街路へ入り込んでいかねばならない。》(ベンヤミン断章)ーー女性の場合、知=股ぐらの探求は、自らに「弦牝の門」がすでに備わっているのだから、おろそかになりがちなのはやむえない。おそらく哲学する女性はほとんどいないことの機微のひとつであろう。


ところで中井久夫の別の書には、次のような発言がある。
中井)……あの、診察している時、自分の男性性というのは消えますね。上手にいっているときは。ほんものの女性性が出るかどうかはわかりませんけど、やや自分の中の女性性寄りです。少なくとも統合失調症といわれている患者さんを診るときはそうですね。

(鷲田)自分からそれは脱落していくのですか。

(中井)いや、機能しない。まあ統合失調症の人を診た直後に非行少年かなんかを診たらもう全然だめなんです。カモられてしまう。(「身体の多重性」をめぐる対談 中井久夫/鷲田清一 『徴候・記憶・外傷』所収より)
こうやって、いまだ限られた男たちであるにしろ、「女になる」こと、「娼婦になる」ことの偉大さが気づかれつつある、《……女性は、おそらく男性の知覚よりも深いそれをもつものです。たぶんそれは次のことのよるのでしょうーーでも私の言っているのは愚かなことですーー、つまり彼女は、自分のうちに男性を迎え入れるように物事を受けとることに慣れていて、彼女の快楽はまさにそれを受け入れることにある、ということです。彼女は現実を受け入れるつもりでいる、あえて言うなら、完全に女性的な同じ姿勢のうちに。彼女は、男性以上、場合に応じて、ぴったり合った解答を見つける可能性をもっているのです》(ミケランジェロ・アントニオーニ

ただ残念なことに、<わたくし>の如き愚かな《大多数の男は男であるからこそ生きるのがキツイのに、その「男」を捨てることができないという宿命にあります。ここには深くかつ単純な理由が潜んでいて、男は「ただ男であるがゆえに女よりすぐれている」という神話(迷信)から解放されていないからなのです。》(中島義道『ぐれる!』)ーーまあでもこれは旧世代の大多数であり、「父なき世代」においては、男たちは、「女性なるものに不可避的に惹きつけられる」、――それは、《父性隠喩の不成立によって「母のファルスになる」という欲望を「ファルスをもつ」に変換できなかった主体が、「母に欠けたファルスになることができないならば、彼には、男性たちに欠如している女性になるという解が残されている」(lacan E566)ことに気づくからである》(「ラカンの愛の定義」より)


さて、女がのぞき趣味がないのかどうかは、男のわたくしには窺いしれない。だが、のぞかれる趣味はどうなのか。おおくのミニスカ、ローライズ(Lowrise)、スリットやら胸元の開きなどをめぐる論があるだろう(当地はローライズと腰脇のスリット、シースルーの天国なり)。もっともあれらを女のワイセツ行為などと命名したら、フェミニストたちだけでなく、女性全般から袋叩きにあうのは承知しており、あるいは女性鑑賞を楽しみにしている男たちにも迷惑がかかるわけで、わたくしは、そんなことは決して書かない(逆言法とは、言わずにすますつもりだと言うこと、つまり黙っているはずのことを言ってしまう修辞法の文彩のことであり、たとえば、《私は次のことは語らないつもりだ》と言っておいて、その後えんえんと語るやり方だ……)。







身体の中で最もエロティックなのは衣服が口を開けている所ではないだろうか。倒錯(それがテクストの快楽のあり方である)においては、《性感帯》(ずい分耳ざわりな表現だ)はない。精神分析がいっているように、エロティックなのは間歇である。二つの衣服(パンタロンとセーター)、二つの縁(半ば開いた肌着、手袋と袖)の間にちららと見える肌の間歇。誘惑的なのはこのちらちら見えることそれ自体である。更にいいかえれば、出現ー消滅の演出である。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)

ーー過度に開いていると(出現ー消滅の演出がないと)、エロティックではなくなるぜ、最近はそれを狙っているのであれば、女はかぎりなく戦略的であり、ある種の男の欲望を萎えさせることに貢献している。《痴漢たちは、発見され処罰されることをきわめて深く懼れているものの、同時に、その危険の感覚なしには、かれの快楽は薄められあいまいになり衰弱し、結局なにものでもなくなる。禁忌が綱渡り師にその冒険の快楽を保証する。》(大江健三郎『性的人間』)

大江のような旧世代の男ではなく、ここではラカン派フェミニストの見解のほうがいい。

コプチェクによれば、恥じらわねばならない場面に直面させぬよう、覆い隠し、保護することは一見よいことに思えるが、不安にさせる「余剰」全てを露呈し、不安を取り除こうとする現代において、隠しておくべき秘密として秘匿しておくこと自体が、暴こうとする不当な行為に弁解を与え続けることになりかねないと警告する。(2006/10/8 Joan Copjec (コプチェク)講演会

ラカン派のフェミニストに耳を傾けなくても、男に飽きたかしこい女性たちは、覆い隠さないように、という警告を本能的に守っている。逆にいまだ男に飽きていないらしい女たちは、男を魅了し誘惑するためには、ほどよく隠す術を本能的に知っている。

もっとも男たちにもいろんな種類があって、たんにセックスを見たいという中学生や高校生的な夢を持ち合わせている連中がいるから厄介だが、こちらの方は陰湿さがないから御し易い。いやいやローライズでおしりの割れ目までみえてしまったら、今度は陰門や陰毛の出現ー消滅のエロティシズムというものもあって、ある種の男たちを魅了させるから気をつけろ! ようするになにをしたって、相手しだいでヤバイのが人の世であるぜ


 ところで上野千鶴子女史は最近かくのごとくノタマっている。

性欲にはけ口が必要であるならば、ムラムラは自分で解消すればいい。相手のあるセックスをしたければ、相手の同意が必要なのは当たり前だろう。セックスは人間関係なのだから、関係をつくる努力をすればよい。(……)

カネまで払って男性がやりたい理由は、私には永遠の謎だ。男たちが変わるのに何世紀かかるかわからないが、この男の不気味さは男に解いてもらいたい。(上野千鶴子氏 売春は強姦商品化でキャバはセクハラ商品化

逆に、あれらミニスカやローライズの氾濫する女の衣裳の不気味さを解いてもらいたい。流行だとか便宜性やらきれいにみえるなどといって誤魔化さずに。いや、わかっている、そんな愚かなまねはしないのは。「男たちってスケベで単純で、まったくどうしようもないわ、カワイイところはあるには違いないけど」、などとして、ボディブローで徐々にへこませるのがよいのをよくしっている。《女は男よりはるかに邪悪である、またはるかに利口だ。女に善意が認められるなら、それはすでに、女としての退化の現われの一つである ……》(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳)

そもそも「真理」を哲学的に追究するなんて、そんなことしてなにになるのよ、バカねえ、男たちって

《婦人たちのあいだで。--「真理? まあ、あなたは真理をごぞんじではないのね! それは私たちのすべての羞恥心の暗殺計画ではないでしょうかしら?」--》(ニーチェ『偶像の黄昏』16番)

《すべての立派な女性にとって、学問は羞恥に逆らう。彼女らにはその際、自分たちの皮膚の下を、──さらに厭なことには! 着物と化粧の下を覗かれるような気がするのだ。》(『善悪の彼岸』)

わたくしは上野千鶴子を貶すつもりは毛ほどもないのだ。かつて名著『スカートの下の劇場』でお世話になった覚えがある(いまではあまり覚えていないが)。いまウェブ上から拾ってみると、かつては下記のように指摘してくれた人が、男にかんしてはいまだ「カネまで払って男性がやりたい理由は、私には永遠の謎だ」などと語ってしまうのが不満でないでもないが。

女性がパンティを選ぶ理由はおよそ二つに大別されるそうです。
一つは男性を意識した、言わずもがなのセックスアピール。
二つめは、自意識を満足させるためのナルシズムです。


次に、なぜ女性はパンティをはくのでしょう。
まず、恥ずかしいというのがありますよね?
だけど、どうしてあそこを見られたら恥ずかしいのでしょう?
でも、恥ずかしいという気持ちが性的快感に変化するのは否めない事実で、子孫繁栄のためにはなくてはならないものなのでしょうね。

そのほかに、パンティで性器を隠すことによって、性器の価値を高めるという意味もあるそうです。
見ちゃダメ!と隠せば隠すほど見たくなるのは、よくあることで、だからこそ女性はパンティで性器を隠し、とっても大切なものなのだと暗に示しているという論理です。(読書「スカートの下の劇場」

上野千鶴子は、この時期、「男」として振舞ったのではないか。いまでは齢を重ねて「女」に戻っているので、男のことなどなんにもわかんねえ、と言い放っているのではないか。愛でたし芽出度し、慶賀なり。
実のところ、ニーチェが大いに嘲笑を浴びせているフェミニストの女たちは男性なのだ。フェミニズムとは、女が男に、独断的な哲学者に似ようとする操作であり、それによって、女は真理を、科学を、客観性を要求する、即ち、男性的幻想のすべてをこめて、そこに結びつく去勢の効力を要求するのである。(デリダ『尖筆とエクリチュール』)


男サイドの言い訳はいくらでもある。

「男どもはな、別にどうにもこうにもたまらんようになって浮気しはるんとちゃうんや。みんな女房をもっとる、そやけど女房では果たしえん夢、せつない願いを胸に秘めて、もっとちがう女、これが女やという女を求めはんのや。実際にはそんな女、この世にいてへん。いてえへんが、いてるような錯覚を与えたるのがわいらの義務ちゅうもんや。この誇りを忘れたらあかん、金ももうけさせてもらうが、えげつない真似もするけんど。目的は男の救済にあるねん、これがエロ事師の道、エロ道とでもいうかなあ。」(野坂昭如『エロ事師たち』)


あるいはラカン派の男女の不思議を解く試みなら、かくの如し。

・男の欲望は、おのれの幻想の枠にフィットするような女を直接欲望すること。
・女の欲望は、男の幻想の枠にフィットするように、男に欲望される対象となること。

…… it is wrong to contrast man and woman in an immediate way, as if man directly desires an object, while woman's desire is a “desire to desire,” the desire for the Other's desire. We are dealing here with sexual difference as real, which means that the opposite also holds, albeit in a slightly displaced way. True, a man directly desires a woman who fits the frame of his fantasy, while a woman alienates her desire much more thoroughly in a man—her desire is to be the object desired by man, to fit the frame of his fantasy, which is why she endeavors to look at herself through the other's eyes and is permanently bothered by the question “What do others see in her/me?” However,a woman is simultaneously much less dependent on her partner, since her ultimate partner is not the other human being, her object of desire (the man), but the gap itself, that distance from her partner in which the jouissance féminine is located. Vulgari eloquentia, in order to cheat on a woman, a man needs a (real or imagined) partner, while a woman can cheat on a man even when she is alone, since her ultimate partner is solitude itself as the locus of jouissance féminine beyond the phallus. ZizekLess Than Nothing2012

レヴィ=ストロースは、ユダヤ人狩りのためマルセイユからアメリカに亡命する船旅のことを書いている(『悲しき熱帯』)。小さな蒸気船、――二つの船室と簡易ベッドが合計して七つしかないーー、そこにおよそ三百五十人もの人間が詰め込まれる。彼自身はひとつの船室を四人の男性で分け合う幸運に恵まれる。だが他の乗客は、男も女も子どもも、通風も悪く明りもない船倉に詰め込まれ、そこには大工が俄造りで組み立てた、藁布団付きの、何段にも重なった寝台があった。《その「賤民ども」ーー憲兵はそう呼んでいたがーーの中には、アンドレ・ブルトン(……)も含まれていた。この徒刑囚の船をひどく居心地悪く感じていたアンドレ・ブルトンは、甲板に空いている極めて僅かの部分を縦横に歩き回っていた。毛羽立ったビロードの服を着た彼は、一頭の青い熊のように見えた。》便所はとてつもない臭気、風呂の水もろくに出ない。寄港地で、レヴィ=ストロースと、チェニジア人は、二人の若いドイツ婦人を励ましに行く。《この二人の婦人は、体を洗えるようになりさえしたらすぐ、彼女らの夫を欺きたいと思っていることを、航海のあいだ、私たちに印象づけた》から。

つまりは、ここにも《女の欲望は、男の幻想の枠にフィットするように、男に欲望される対象となること》があり、そのためには汗と垢まみれになった軀を清めることがなによりも肝要なのだ。男たちはおのれの不潔さには女たちほど頓着しない。



「カネ払ってまでやりたい」理由の一端は、すこし長い説明がいるが、簡略化すれば下記の通り。

われわれは生まれたときの最初の他者は、母親あるいは乳を与える養育者である。この他者をめぐって、ラカン派の向井雅明は次のように書いている。
子供は母親から生まれ、まず母親と二人だけの関係にある。この時点ではよく母親と子どもの間には融合的関係があり、子供はまだ外世界に興味を持っていないと言われるが、ラカンはそれをはっきりと批判し、子どもは殆ど生まれてからすぐに外世界、他者(A)(大文字の他者:引用者注)にたいして開かれていると主張する。そしてこの時点からすでに母親の欲望というものを想定する。母親の欲望とは子どもが母親にたいして持つ欲望という客体的意味もあるが、それよりもまして母親の持っている欲望という主体的な意味が決定的である。母親はまず欲望を持っている者とされるのだ。そして人間の欲望は他者の欲望であるという定式から、子供にとって他者はまず母親であるから、子供の欲望は母親の欲望、つまり母親を満足させようという欲望となる。母親の前で子供は母親を満足させる対象の場にみずからを置き母親を満足させようとする。つまり母親のファルスとなる。(向井雅明『精神分析と心理学』)


男女児かかわりなく、幼児の欲望はまずは<他者>の欲望を満足させることである(想像的ファルス化)。だがこの後、正常な発達であれば、男児は父への同一化、女児は母への同一化へ向かう(参照:「ファルス」と「享楽」をめぐって)。この過程で、男女児ともそれぞれの失望がある。


たとえば女児の場合、「父が自分に子を与えてくれる」願望(ラカン)をもつが、それは実現されない(それ以前に、フロイトの『女性の性愛について』によれば、女児は、母が自分にペニスを与えてくれなかった批難をする)。

男児の場合、母を対象とし続けるが、母に欠如を発見する(母の去勢)。その反動として「おとしめ」があり、「他の女(娼婦)」を欲望する。


この男性の場合、ラカン派の説明では、次のようなことが起こる。
Uber die allgemeinstre Erniedrigung des Liebeslebens(1912), GW VIII pp.78-91, SE XI pp.177-190、「「愛情生活の心理学」への諸寄与」,高橋義孝訳,著作集10, pp.176-194、このフロイトの論文によると、「おとしめ」とは、母親を娼婦とみなすという空想のこと。この空想は、愛情生活のなかの割れ目を少なくとも空想の中では埋めようとする努力であるとされる。具体的には、少年がエディプスコンプレックスのなかで、性交という恩恵を自分にではなく父に与えた母を恨みに思い、その一方で、そういう母親の態度を、母親の不誠実だと思う。そして、この不誠実は空想のなかに生き延びていき、母親や愛情の対象の娼婦性という空想が生まれるとされる。これは、母という<他者>の望むものが私ではなく、他のもの、つまりファルス(父)であると想像され、<他者>の無矛盾性が否定され、<他者>にはひとつの亀裂があることを知る。(ラカン『ファルスの意味作用』註)

男の不思議はこのように説明されているわけで、しかしながら「結局、小児性を克服できずに育った男たちってわけじゃないの?」(「幼少の砌の髑髏」)などと脊髄反射的な反応が予想されはするが、もし女に「哲学的に」でも「精神分析的に」でも、追求する気があるならば、そうそう簡単にうっちゃっていい議論でもあるまい(繰り返すがそんな気がないのを知っている)。

いまさらフロイトやラカンでもないでしょ、ドゥルーズ=ガタリにしっかり批判されてとっくの昔に決着ついたんじゃないのかしら? などと嘲弄しておくのがいい。

ジジェクが、《ドゥ ルーズとガタリが見落としているのは、最も強力なアンチ・オイディプスはオイディプスそのものだということである。オイディプス的父親は父-の-名とし て、すなわち象徴的法の審級として君臨しているが、この父親は、享楽-の-父という超自我像に依拠することによってのみ、必然的にそれ自身強化され、その 権威を振るうことができるのだ》などと反駁したって、いまさらジジェクのような小者になんたら言われてもね、ジジェクさんかわいいとこあるけど、とあっさりかわしてしまうのが、女たちの「偉大さ」だ。


さて、小説には、「覗き」場面がいくらでもある。著名な「権威」ある作家たち、たとえば三島由紀夫の『午後の曳航』やら晩年の『豊饒の海』など、あるいは大江健三郎にも頻出する。
ナオミさんが先頭で乗り込む。鉄パイプのタラップを二段ずつあがるナオミさんの、膝からぐっと太くなる腿の奥に、半透明な布をまといつかせ性器のぼってりした肉ひだが睾丸のようにつき出しているのが見えた。地面からの照りかえしも強い、熱帯の晴れわたった高い空のもと、僕の頭はクラクラした。(大江健三郎「グルート島のレントゲン画法」『いかに木を殺すか』所収)

女流作家でも、山田詠美ならこのように書いてくれる。

私は、あなた以外の何ものをも求めない。目の前の男のためだけに口紅を塗り、香水を噴き付ける。だから、部屋には、いつも、良い匂いが漂っ ている。愛する人を持った女は、朝のシャワーの 後に、香水瓶の蓋をあける。(山田詠美『チューイングガム』)


いずれにせよ、同じ小説でも、男と女では読み方が違うのだろう、たとえば次の文ならば、おおむね、男はのぞく主体に同一化し、女は覗かれる客体に同一化するのだろう。

女はついにあらわな姿を見せた。

靴をぬぐために、非常に高く脚をくみ、肉体の深淵をぼくの眼にさらした。
きらきら光る編上靴にとじこめられていた上品な足や、にぶい色の絹の靴下につつまれていた、ほっそりした膝頭や、華奢な足首のうえに、優美な壺のようにゆたかに開いたふくらはぎなどを見せた。ひかがみのうえ、ちょうど靴下が白くぼやけたくぼみのなかに終っているあたりには、おそらく素肌がのぞいているのだろう。ぼくには、やっきになって邪魔をする闇や、女におそいよる薪のちらつく輝きとで、下着と肌の見分けがつかない。あれは下着のやわらかい布なのだろうか、それとも素肌なのだろうか。無なのだろうか、すべてなのだろうか。ぼくの視線はその裸身を得ようとして、闇や炎と争った。額を壁に、胸を壁にぴたりと寄せ、壁を打ちたおし、突きぬこうとするほどに、拳で必死に押しながら、こうしたとりとめのない不確かさに眼がいたくなるほど、なんとかして、腕ずくでも、もっとよく見よう、もっと多く見ようと、あせりにあせった。(アンリ・バルビュス『地獄』田辺貞之助訳)

あるいは、こんな描写ならどうか。

暖炉の火が穏やかな気配の弱さになっている。それを立て直そうとして、《火箸で突つき、黒く炭化したところに新たな薪をもたせかけて吹く》。ーー男は火箸で突っついて吹きたいのであり、女は…、女のことは知るところではない…

大江健三郎の中篇『人生の親戚』の「僕」は、《炎の起ったところでふりかえると、スカートをたくしあげている紡錘形の太腿のくびれにピッチリはまっているまり恵さんのパンティーが、いかにも清潔なものに見えた》。それは米人のセックスフレンドとの切磋琢磨する性交をつうじて、生臭い肉体に属するものは、どこかに移行して、《精神の属性のみが残った》ような清潔さだ……、と。

――「僕」はこんな夢を見たとの記述が小説の前半にはある。

彼女はうすものを羽織っているのみで、(……)下半身は裸、合成樹脂の黒いパイプ椅子に足を高く組んで掛けている。こちらはその前に立っているのだが、足場が一段低いので、頭はまり恵さんの膝の高さにある。p80

かつて「僕」が、まり恵さんと一緒に、プールで泳いだとき、《彼女の大きく交差して勢いよく水を打つ腿のつけねに、はみ出た陰毛が黒く水に動き、あるいは内腿の皮膚にはりつくのを見た》、その「出来事」が夢の表象として現われる。

まり恵さんの、腿に載せたもう片方の腿があまりに引きつけられているので、性器の下部が覗きそうだが、そこに悪魔の尻尾がさかさまに守っている。つまりはしっとりした黒い陰毛が、クルリと巻きこむように性器を覆っている。p80



もっともフロイトによれば、覗姦・露出のメカニズムは、原初的には、「性器が自分自身によって覗かれる」のが出発点のひとつであって、単純に覗く/覗かれるの二項対立があるというわけではない。


フロイトの『本能とその運命』(フロイト著作集 6 人文書院)では、サディズムとマゾヒズムの分析のあと、次のように覗見と、露出(誇示)をめぐって書かれている。

※「本能Trieb」は最近の訳では「欲動」と訳されるが、ここでは旧訳のままとする。……
もう一つの対立的組合せ、すなわち覗くことと、露出することをそれぞれ目標とする本能を研究してみると、少し違った、さらに単純な結果が出てくる(性的倒錯の用語では覗見症者Voyeur と露出症者Exhibitionist)。そしてここでも前の場合と同じような段階に分けることができるのである。すなわち、

(a)覗きが能動性として、他者である対象にたいして向けられる。

(b)対象を廃棄し、覗見本能が自分自身の身体の一部へと向け換えられ、それとともに受身性へと転じて、覗かれるという新しい目標が設定される。

(c)新しい主体が出現し、それに覗かれようとして自己を露出する。

能動的な目標が受身的な目標よりも早く登場し、覗くことが覗かれることに先行するのも、ほとんど疑いのない事実である。しかしサディズムの場合との重要な差異は次のような点である。つまり覗見本能においては、(a)の段階よりも、もう一つ前の段階が認められるのである。覗見本能は、すなわち、その活動の端緒において自体愛的であり、たしかに対象を持ちはするものの、それを自分自身の身体に見出すわけである。覗見本能が(自己と他者とを比較するという過程をたどった上で)、その対象を他者の身体の類似の対象と交換するにいたるのは、そののちのことなのである(段階a)。ところで、このような前段階は次のような理由から興味深いものになる。つまりこの前段階から、交換がどちらの立場で行なわれるかに応じて、その結果として成立する覗見症と露出症という対立的組合せの両極面が現われてくる。すなわち、覗見本能の図式は次のように書き表わすことができよう。







 このどこかでの段階で、ラカン理論ではさらに「想像的ファルスの欠如」(母の去勢)が係ってくるはずだが、いまはそれには触れない(参照:心的装置の成立過程における二つの翻訳)。

そもそもラカン派の「去勢」とは、まずは母におちんちんがないことなのだ、--想像的ファルスの欠如-φは、「去勢」とも読まれる。それは主体の去勢ではなく(少なくとも”だけ”ではなく)、「去勢の意味作用は,(子供の去勢ではなく)母の去勢によっておこる」(ラカンE687)



 最後に、デリダのインタヴュー記事を附記しておこう(女性と哲学「デリダ・インタビュー(4)LAWEEKLY, 2002118/14日」)。


【問】なぜ女性の哲学者はいないのでしょう。

【答】哲学のディスクールというものが、女性、子供、動物、奴隷をマージナル
なものとして抑圧し、沈黙させるように組み立てられているからです。これは哲
学の構造であり、これを否定するのはばかげたことでしょう。そのために偉大な
女性の哲学者が現われないのです。もちろん偉大な女性の思想家はいますよ。で
も哲学というのは、思想のうちでもごく特殊な思想、特別な考え方なのです。た
だ現代では、こうしたことは変わりつつあります。

【問】あなたはご自分をフェミニストと考えられますか、

【答】大きな問題ですが、ある意味ではそう考えています。わたしの仕事の多く
は、ファロス中心主義の破壊にかかわるものでしたし、自分で言うのも変ですが、
哲学のディスクールの中心でこの問題を提起した最初の人の一人でしょう。もち
ろんわたしは女性の抑圧がなくなることを望んでいます。哲学におけるファロス
中心主義的な土台のもとで、女性の抑圧が続いていることを考えると、とくにこ
れは重要な問題です。ですからこれに関してはわたしはフェミニズム文化に連帯
しています。

でもフェミニスムの特定の表現には、留保を抱かざるをえません。たんに男女の
ヒエラルキーを逆転させることや、伝統的に男性的な行動とみなされている好ま
しくない側面を女性が採用することは、誰の役にもたたないのです。