Here we must remember the clinical pair that was mentioned, and that dominates in the theory of the phallus: I am referring to phobia and fetishism. This pair that Lacan tackled in his Seminar IV, La relation d’objet, continues to be present in Écrits and will reappear recurrently over the years. On the last page, the warning that the phallus in play is that of the mother accompanies the mention of phobia and of fetishism. So the Lacanian phallus is born on the side of the woman, between fetishism and phobia. The Phallus and Perversion
倒錯については、ジジェクは次のように言っている。
そこから引き出すべき教訓は、超自我の圧迫を軽くすることは、その「不合理」で「逆効果的」で「硬直」しているように思われる圧迫を、合理的に受け入れられた放棄・法・規則に置き換えることによっては、達成できないということである。むしろ、享楽の一部は最初から失われており、内在的に不可能なのであり、「どこか別の場所」、すなわち語りかけてくる禁止の審級が位置している場所に集中しているわけではない、ということを認めなければならないのである。
同時にこのことから、ラカンの「オイディプス主義」にたいするドゥルーズの反論の弱点を指摘することができる。ドゥ ルーズとガタリが見落としているのは、最も強力なアンチ・オイディプスはオイディプスそのものだということである。オイディプス的父親は父―のー名とし て、すなわち象徴的法の審級として君臨しているが、この父親は、享楽―のー父という超自我像に依拠することによってのみ、必然的にそれ自身強化され、その 権威を振るうことができるのだ。
まさしく、オイディプス的父親、すなわち秩序と和解を保証する象徴的法の審級が、享楽―のー父と いう倒錯的な姿に依拠しているからこそ、ラカンはperversionと書く代わりにpere-version(父―親―版)と書いたのである。前オイ ディプス的な「多形倒錯」を抑え込んでそれを性器の法に従わせ、たんなる象徴的審級として機能するだけではなく、父の「版」、父の方へ向かうことは、あら ゆる倒錯のなかでもっとも根本的な倒錯なのである。ドゥルーズのラカン「オイディプス化」反論の弱さ (ジジェク)
※佐々木中『ラカン、フーコー、ルジャンドルにおける宗教と主体の形成をめぐる探究』
まず、出発点として想像界と象徴界の理論を取り扱う。想像界から象徴界へ。彼の理論のこの道筋を精密に追うことによって、初期の鏡像段階論がそれだけで 「精神分析の密室」をはみ出すものを含んでいることを示し、かつ象徴界が「パロールの象徴界」(協定の象徴界)と「ランガージュの象徴界」(機械の象徴 界)に区分されることを示す。さらには、実は想像界と象徴界がまったく同一の構造を持ち、重複するものであることを(想像的同一化と象徴的同一化、自己イ メージとトレ・ユネール、嫉妬の弁証法と欲望の弁証法、小他者の「死の筆触」と大他者の「死の姿」等々)、また象徴界の構成要素であるシニフィアンも想像 界の構成要素であるイメージも、決定的な不均質性を持っている概念であることを立証する。
そこから想像的でも象徴的でもある〈鏡〉の概念が導出される。つまり、〈鏡〉とは超越論的な機能を持つ「装置」であり、シニフィアンとイメージと相互浸透 から組み立てられた「モンタージュ」である。このような〈鏡〉は単なる道具ではなく、「詩的な閃光」「隠喩」としての「主体」を産出する。
次に彼の「現実界」と、「現実界」概念と切り離すことのできない「享楽」について論じた。ラカンの「享楽の分類学」とも呼びうる論旨を精密に跡づけること によって、「絶対的享楽」(殺人と近親姦の享楽)と区別されるべき「ファルスの享楽」と「対象aの剰余享楽」を導き出した。また前者が二つに分離さるべき ものであることを論証した。つまり、「器官」としての「象徴的ファルス」の享楽と、「権力の屹立する象徴」としての「象徴的・想像的ファルス」の享楽であ る。二種類のファルスと対象a、それは享楽のレギュレータであり、享楽を馴化する役目を果たしている。
最後に、ラカン自身が打ち立てた「享楽の分類学」の一分類でもあるが、ファルスの享楽および対象aの剰余享楽を「超過する」特性を持つ「女性の享楽=大他 者の享楽」を論じた。ラカンのセミネールの出席者たるミシェル・ド・セルトーの理論を援用し、元々「偶然性」の相のもとにあるとされている現実界に属する 「女性の享楽=大他者の享楽」が、根本的な「社会を定礎する享楽、〈テクスト〉を創出する享楽」であることを示した。また、女性の享楽の概念化におけるラ カン自身の「婚姻神秘主義」への言及が、実は彼の理路全体を、とりわけその形式主義的な言語論を揺るがすものであること、彼自身の精神分析の数学化を転覆 するものであること、そしてそれ以上に「精神分析の歴史的臨界」を露呈させるものであることを指摘した。ラカンは、もっとも自身が重視した論点において、 自ら自身の理路を破綻させたのである。そして、ここにこそラカンの真の可能性があると筆者は考える。
以下は、東京精神分析サークルの試訳「ミレールのセミネール」(「フロイトの<欲動>と精神分析家の欲望について」についての読解)の冒頭。会員専用の試訳のため、リンク不可。佐々木氏の論旨との齟齬ある部分は、後ほど了解を得てから、引用可か?
ラカンのテクスト「フロイトの<欲動>と精神分析家の欲望について」は、欲動と欲望のあいだの区別を強調することを目的としています。ラカンは始めにフロイトの欲動と精神分析家の欲望について語っていますから、このことは分かりにくくなっています。それでもなお、このテクストは欲動と欲望との区別に充てられています。このテクストはそれら二つを混同してはいけないということを強調しています。ラカン自身、「ファルスの意味作用」(Ecrits)においてこの二つを混同していたのです。以前に私がコメントした文章を、このテクストに見つけることが出来ます――「欲望は<他者>からやってくる、そして享楽は<もの>の側にある」*2 ラカンがここで強調していることは、シニフィアンの秩序――<他者>であるその場所――と享楽のあいだの区別です。享楽は、セミネールVII『精神分析の倫理』で練り上げられたフロイトの概念である<もの>[das Ding]を経由して、この論文で取り上げられています。このテクストは「ファルスの意味作用」に逆らっています。なぜなら、「ファルスの意味作用」は欲動と欲望の混同に基づいているからです。ラカンは冒頭から、フロイトの著作では欲動はいかなる種類の性的本能とも区別されると宣言しています*3。なによりもまずそれは量化できるエネルギーであるからであり、そしてそのセクシュアリテは「空虚の色[couleur de vide]」*4だからです。このイメージによって指摘されていることは、フロイトの欲動は両性間の関係に自然に記入されてはいないという趣旨です。欲動のそれ自身の満足への関係が<他者>の性に関与していないことは明らかです。
ラカンは、欲動は「裂け目の光の中に保留されている」*5と言いますが、これがその理由です。このイメージによってラカンが言おうとしているのは、欲動と-φと書かれる裂け目との関係です。「欲望は〔快〕原理によって負わされた限界において〔この裂け目に〕出会う」*6とラカンは言っています。これは、欲望は快原理の諸限界の範囲内に刻まれている、ということを意味しています。言い換えれば、欲望は快原理にとらわれたままなのです――これは私が指摘した快楽と享楽の対立にすでに示されています。欲望はとらわれたままであり、その彼岸には享楽の価値[la valeur de la jouissance]があります。「欲望の難所は本質的に不可能性である」*7とラカンが言うときに強調しているのはこのことです。これは何を意味しているのでしょうか?