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2013年7月24日水曜日

中井久夫の恋文

――人々をたがいに近づけるものは、意見の共通性ではなく精神の血縁である。(プルースト 「花咲く乙女たちのかげに Ⅰ」井上究一郎訳)

人間は自分の精神が属する階級の人たちの言葉遣をするのであって、自分の出生の身分〔カスト〕に属する人たちの言葉遣をするのではない、という法則……(プルースト「ゲルマントのほう Ⅰ」同上訳) 


すこし前、中井久夫の須賀敦子をめぐる文を引用したが、中井久夫が何人かの女性について書くとき、それはまるで「恋文のようにして」書かれていると感じることがある。須賀敦子さんは、1929年1月19日生まれ、中井久夫は、1934年1月16日であり、ほぼ同世代、ともに阪神間に育った人ということもあるのだろうが、「精神の血縁」というべきものも間違いなくある。

須賀敦子さんの文章を読んでいると、「心理学」、――なにも役立たない!、という声が聞こえてくるような錯覚にときに閉じこめられる。かつて「社会学」、――何もできない! と言い放ったように。とくに晩年になって「たましい」という言葉が呟かれるとき。それは大江健三郎にもある。

「鶯 (一老人の詩)」  伊東静雄

(私の魂)といふことは言へない
その證據を私は君に語らう
(……)
しかも(私の魂)は記憶する
そうして私さへ信じない一篇の詩が
私の唇にのぼつて来る
私はそれを君の老年のために
書きとめた

大江健三郎はこの詩が少年時から好きたまらず、文字使いのいちいちまで諳んじていた、という。(詩全文はここにある → 伊東静雄 )

《まだ少年の僕が読んで、それまで印刷されたものをつうじて経験をしたことのない激しさの感情をあじわったのである。身体の芯に火の玉があり、その熱でシュッシュッと湯気がたつような涙が噴出するのに茫然としながら……》(大江健三郎『火をめぐらす鳥』)

人々をたがいに近づけるものは意見の共通性ではない、と冒頭のプルーストを繰り返しておこう。
池内紀)去年だったかな。『朝日新聞』の書評委員会で、書名をずっと読み上げるでしょう。それで『社会学は何ができるか』という書名が読み上げられたとき、須賀さんがはっきり通る声で、すぐに合いの手を入れた。「何もできない」って(笑)。ぼくもずっとそう思っていたんだけれども勇気がなかったからいえなかった。前に社会学の先生が二人おられたし……(笑)(「記憶が言葉を見つけた時」池内紀・松山巌対談) 

大江健三郎は、千樫(妻がモデル)に、吾良(伊丹十三がモデル)をめぐって、次のように語らせている。

一時期、吾良がフロイドやラカンの専門家たちと知り合って、脇で見ていて不思議なほど素直に影響を受けたことがあったでしょう? その経過のなかで、吾良はやはり子供じみて聞えるほど素直に、いかに自分が母親から自由になったか、を書きました。けれども私は、こんなに容易にお母様から離れられるはずはない、と思っていた。私は無知な人間ですけど、そして幼稚な疑いだともわかっていますけど、心理学が大のオトナにそんなに有効でしょうか? 吾良だってすでに、海千山千のインテリだったじゃないですか?

私は吾良がいつかは心理学に逆襲される、と思っていました。あのような死に方をしたことの原因のすべてを、心理学の逆襲だというつもりはないんです。しかし、吾良の心理状態のヤヤコシイもつれについてだったら、幾分かでも、あの心理学者たちに責任をとってもらいたいと考えることがあるわ。(大江健三郎『取り替え子』)

ところで、「あなた」には恋文の宛先があるか? どうもわたくしの場合、女性の書き手への恋文の宛先は、それほど強くは浮かんでこないという不幸がある。

私は、まだ撮ったことのない映画を撮るようにして、作家と向かい合っていたのではないかと思います。要するに、徹底した観客無視です。見る者を代表するかたちで、一般観客向けに、この作品はこう理解すべきだといったことはいっさい口にしてない。おそらく、そんな批評は、これまであまりなかったのかも知れません。自分ではそうは思わないのですが、初期の私の映画批評がしばしば難解だといわれたのは、おそらくそのことと関係しています。澤井さんもいわれるように、私の批評は、見る人のことなどまったく考えず、もっぱら撮る人のことばかり考えて書かれたむなしい「恋文」のようなものだったのかも知れません。日本語を読むことのない外国の監督たちに触れている場合もそうした姿勢を貫いてきたので、翻訳で私の書いたものを読んで、それを介して親しくなる監督の数も増えてきました。考えて見ると、私は、外国の映画研究者よりも、外国の映画作家たちとずっと話が合うのです。

そうしたことが、教師としての私の姿勢にも現れていたのでしょう。この作品はこう読めといったことはいっさい無視し、勝手に映画作家たちへの「恋文」めいたことをまくしたてていた私の授業を聞いておられた若い人たちを、映画を語る方向ではなく、多少なりとも映画を撮る方向に向かわせることができたのは、そうしたことと無縁ではないのでしょう。(蓮實重彦インタビュー「作り手たちへの恋文」

 もっとも須賀敦子さんが恋文のように書いた晩年の『ユルスナールの靴』には次のような文がある。
もしかしたら、じぶんの周囲にいる人たちはしょせん、じぶんに仕える人なのだという女王の意識のようなもの、あるいは自明の理屈、そして肉体の感覚みたいなものが、マルグリットのあたまから足の先までしみわたっていて、グレースがそれを根本のところで受けいれていたのでなければ、ふたりはいっしょに生きられなかったのではないか。

これは、ユルスナールの生涯の伴侶であったグレースのようには、わたし(須賀敦子)はなりきれそうもないな、との述懐としてわたくしは読む。そもそも誰にとっても恋文の宛先は、じつは「自分自身」であるのかもしれない。

ハドリアヌスは、現在の私より若い、六十二歳で他界している。死期の近いのを悟った皇帝の述懐のかたちでこの作品をまとめたユルスナール自身は、八十四歳まで生きた。じぶんに残された時間はいったいどれほどなのだろうか。(『ユルスナールの靴』1996)

《一九九六年の暮れ、数人で忘年会をしたとき、「年がかわったら入院するの」と、その病名も聞かされ、驚いた》、と森まゆみは須賀敦子追悼文で書いている。

…………
さて以下に、中井久夫の須賀敦子さんの宛先以外に「恋文のようにして」書かれた文をいくらか抜き出そう。

《「生きがい感」をつかまえようとして、またはこれをたしかめようとして、あまりやっきとなると、かえって生きがいは指の間をすべりぬけて行ってしまうものではないだろうか。むしろ生きがい感とは、人生の途上で、時たま期せずして与えられる恩恵のようなものではなかろうか。》(神谷美恵子『人間をみつめて』)

精神医学界の習慣からすれば「神谷美恵子先生」と書くべきである。しかし違和感がそれを妨げる。おそらくその感覚の強さの分だけこの方はふつうの精神科医ではないのだろう。さりとて「小林秀雄」「加藤周一」というようにはーーこれは「呼び捨て」ではなく「言い切り」という形の敬称であるがーー「神谷美恵子」でもない。私の中では「神谷(美恵子)さん」がもっともおさまりがよい。

ついに未見の方であり、数えてみれば二十年近い先輩である方をこう呼ぶのははなはだ礼を失しているだろう。

しかし、言い切りにできないのは、未見の方でありながら、どこかに近しさの感覚を起させるものがあるからだと思う。「先生」という言い方をわざとらしくよそよそしく思わせるのも、このぬくもりのようなもののためだろう。そして、精神医学界の先輩という目でみられないのも、結局、その教養と見識によって広い意味での同時代人と感じさせるものがあるからだろう。それらはふつうの精神科医のものではない。(中井久夫「精神科医としての神谷美恵子さんについてーー「病人の呼び声」から「一人称病跡学」までーー」『記憶の肖像』所収)

《……神谷さんを一般の精神科医と区別するものは単にものものしさがないとか教養と見識の卓越とかだけではない。二十五歳の日に「病人が呼んでいる!」と友人に語って医学校に入る決心をされたと記されている。このただごとでない召命感というべきものをバネとして医者になった人は、他にいるとしても例外中の例外である。》

《ある精神科医は彼女をまばゆい人であるという。彼女の品性と才能をみればたしかにそうであろう。別の精神科医によればたまらなくさびしそうに見えた人だというが、これもほんとうである。》

いかに献身的な医師も、どこか「いつわりのへりくだり」がある。ある高みから患者のところまでおりて行って“やっている”という感覚である。シュヴァイツァーでさえもおそらくそれをまぬかれていない。むしろ、神谷さんに近いのはらい者をみとろうとして人々、すなわち西欧の中世において看護というものを創始した女性たちである。その中には端的に「病人が呼んでいる」声を聞いた人がいるかも知れない。神谷さんもハンセン氏病を選んだ。神谷さんの医師になる動機はむしろ看護に近いと思う。この方の存在が広く人の心を打つ鍵の一つはそこにある。医学は特殊技能であるが、看護、看病、「みとり」は人間の普遍的体験に属する。一般に弱い者、悩める者を介護し相談し支持する体験は人間の非常に深いところに根ざしている。誤って井戸に落ちる小児をみればわれわれの心の中に咄嗟に動くものがある。孟子はこれを惻隠の情と呼んで非常に根源的なものとしているが、「病者の呼び声」とは、おそらくこれにつながるものだ。しかし多くの者にあっては、この咄嗟に動くものは、一瞬のひるみの下に萎える。明確に持続的にこれを聞くものは例外者である。医師がそうであっていけない理由はないが、しかし多くの医師はそうではない。(中井久夫「精神科医としての神谷美恵子さんについて」『記憶の肖像』所収)

 …………

次に村瀬 嘉代子(1935 - )さん宛(中井久夫は1934年生まれ)。わたくしの五十歳で亡くなった母が1932年生まれであり、この世代の人の書く文章に、ーーわたくしは、よわい。

《朝礼で整列している時に、隣りにいるまぶしいばかりの少女に少年が覚えるような羞恥と憧憬と、近しさと距離との同時感覚》というすばらしい表現がある。これには、何人かの少女の面影を想い起こさずにはいられない。

中井久夫による書評 「村瀬嘉代子『子どもと大人の心の架け橋――心理療法の原則と過程』」の全文であるが、《私は三ヶ月、道を歩く時も書評のための言葉を求めて頭の中をさまよっていた》ともある。なぐり書きのような文章が巷間に溢れるなかで、この1800字の文章は三ヶ月のあいだ温められて書かれたもの、ということになる。中井久夫のそれまで書かれたいくつかのエッセイのエッセンスのような文でもある。


私たちは子どもをどれだけ知っているか? 子どもと目の高さが違うことはいちおう誰でも知っている。大人になってから訪れた小学校の運動場がいかに狭いか。しかし、もっと重大なことは時間感覚の相違である。時間を時間で微分できはしないが、年齢による、時間の経過感覚の圧倒的な差は断固ある。ミルトン・エリクソンは、安易に次回の面接を一週間先延ばしした弟子を叱って「子どもには一週間は永遠に等しい」と語っている。幼かった私の子に聞くと「あったりまえよ」という返事が返ってきた。

この時間感覚の差は一九九五年一月の阪神・淡路大震災の体験からの子どもの回復を大人が理解する際にも、いじめの問題を理解する際にも、どこか靴を隔ててかゆみを搔く思いをさせる理由の一つである。大人でさえバスを待つ時間は長い。いじめられる子どもは強烈な理不尽感のもと、永遠の劫苦に疲れるのだ。三年のいじめられ期間は永遠の永遠の永遠である。大人の、やみやみと経つ三年間ではない。

また思春期。すべてが流砂の中にあるような身体の変化。それは時間感覚の長短ではない。それは、奇妙な言い方だが「永遠を越える」変化である。質の変化は量の変化を越えるからだ。私は長い間、少女たちがいつも同じ、眼の思い切り大きくつぶらな、中原淳一ふうの少女の顔を描き続けるのをいぶかってきた。おそらく、少年よりも短期間に大幅に眼に見えて変わる少女の身体像に対して対抗するには思い切りステロタイプな少女像しかないのだ。まさに「乙女の姿しばしとどめん」である。そういえば多くの少女像が斜め左を、つまり多少過去をみつめて、一雫の涙が今にもこぼれんばかりである。

しかし、少年の思春期は身体表現を持たないことによる独特の辛さがある。少年期の訪れとともに泣けなくなるのはなぜだろう。一部の少年に、急速に伸びゆく体験と知性との二つの間の独特な比によって数学と詩とに向って不思議な開けが起こるのも、泣けなくなるからではないだろうか。自殺する中学生たちは果たして泣けていたのだろうか。いっしょに泣いてくれる親友がいたら彼らは死ぬだろうか。親友がありえないように孤立させられていたら、せめてそのそばで泣けるような大人がいてくれればーー。

こういうことをすべて忘れて、人は大人になる。なりふりかまわずといってもよいほどだ。ただ、少数の人間だけが幼い時の夕焼けの長さを、少年少女の、毎日が新しい断面を見せて訪れた息つく暇のない日々を記憶に留めたまま大人になる。村瀬嘉代子さんは間違いなくそういう人であって、そういう人として「子どもと大人の架け橋」を心がけておられるのだ。より正確には、運命的に「架け橋」そのものたらざるを得ない刻印を帯びた人である。

あるいは村瀬さんは私にも同じ刻印を認めておられるのかもしれない。その当否はともかく、何年に一度かお会いするだけであるのに、私も村瀬さんに独特の近しさを感じている。それは、精神療法の道における同行の士であると同時に、朝礼で整列している時に、隣りにいるまぶしいばかりの少女に少年が覚えるような羞恥と憧憬と、近しさと距離との同時感覚である。この本の中に村瀬さんの症例への私のコメントが一つ掲載されているが、それを書いた時の感覚がそのようなものであったことを昨日のように思い出す。

そのような文ならば書けるだろう。しかし、書評とは。私は三ヶ月、道を歩く時も書評のための言葉を求めて頭の中をさまよっていた。私の考えはいつもこのような文に戻って行った。一言のキャッチフレーズによって知られ、或いはそれによって要約される人もあるが、村瀬さんはそういう人ではない。村瀬さんの心理療法にはそういう一語はない。学寮の若き日々を共にしたモートン・ブラウンが神谷美恵子さんの追悼に捧げた言葉を借りれば、村瀬さんは「行為」である。そして行為の軌跡として村瀬さんの著書はある。それは一つの「山脈」であって、年齢とともに山容は深みを帯びるのであるが、妻となり母となった経験を重ねつつも、その中で「むいたばかりの果物のような少女」も決して磨耗していない。村瀬さんが患者を前にして覚えるおそれとつつしみとはその証しであり、それを伝えることがこの本に著者が託した大切なメッセージではなかろうかと私は思う。(中井久夫「こころと科学」第六六号、1996初出『精神科医がものを書くとき Ⅱ』広栄社 所収)