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2013年7月25日木曜日

ああ、海がみたい

まずは前投稿で中井久夫の恋文のひとつとした文から再度抜き出す。

……こういうことをすべて忘れて、人は大人になる。なりふりかまわずといってもよいほどだ。ただ、少数の人間だけが幼い時の夕焼けの長さを、少年少女の、毎日が新しい断面を見せて訪れた息つく暇のない日々を記憶に留めたまま大人になる。(中井久夫「村瀬嘉代子『子どもと大人の心の架け橋――心理療法の原則と過程』)

わたくしも凡人のひとりとして、なりふりかまわず、少年時代のことを忘れて大人になってきたにもかかわらず、この何年か、ふとしたきっかけで過去を想いおこすことが多くなってきた。

安永ファントム空間理論によれば、ひとは老年になって「自極」に戻っていく。

安永と、生涯を通じてのファントム空間の「発達」を語り合ったことがある。簡単にいえば、自極と対象極を両端とするファントム空間軸は、次第に分化して、成年に達してもっとも離れ、老年になってまた接近するということになる。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収)
※安永ファントム空間については、次を参照→..ウォーコップの次世代への寄与


過去の想起は、わたくしの場合、五十歳で死んだ母の年齢を超えてからが顕著だ。

おかあさん
ぼく 七十歳になりました
十六年前 七十八歳で亡くなった
あなたは いまも七十八歳
ぼくと たったの八歳ちがい
おかあさん というより
ねえさん と呼ぶほうが
しっくり来ます
来年は 七歳
再来年は 六歳
八年後には 同いどし
九年後には ぼくの方が年上に
その後は あなたはどんどん若く
ねえさんではなく
そのうち 娘になってしまう
年齢って つくづく奇妙ですね
ーー「奇妙な日」(高橋睦郎)


ある言葉に一連の記憶が池の藻のようにからまりついていて、ながい時間が過ぎたあと、まったく関係のない書物を読んでいたり、映画を見ていたり、ただ単純に人と話していたりして、その言葉が目にとまったり耳にふれたりした瞬間に、遠い日に会った人たちや、そのころ考えたことなどがどっと心に戻ってくることがある。(須賀敦子『遠い朝の本たち』)

――そう、こんな具合に言葉だけでなく風景や映像、あるいはふとした旋律で、過去の「開け」が唐突にあることが多くなった。

今、「旋律」と書けば、ほかの文を憶い出す、それは老年にならずとも誰にでもあるだろう。

連中は何もいうことがないので、名前だけでものをいうのです。テレビは、対話というか、そうした話題をめぐって話をする能力を確かに高めはしました。だが、見る能力、聴く能力の進歩に関しては何ももたらしていない。私が『リア王』にクレジット・タイトルをつけなかったのはそのこととも関係を持っています。

ふと、知らないメロディを聞いて、ああ、これは何だろうと惹きつけられることがあるでしょう。それと同じように、美しい映像に惹きつけられて、ああ、これは何だろうと人びとに思ってもらえるような映画を作ってみたいのです。しかし、名前がわからないということは人を不安におとしいれます。新聞やテレビも、一年間ぐらい絶対に固有名を使わず、たんに、彼、彼女、彼らという主語で事件を語ってみるといい。人びとは名前を発音できないために不安にもなるでしょうが、題名も作曲者もわからないメロディにふと惹きつけられるように、事件に対して別の接し方ができるかもしれません。

いま、人びとは驚くほど馬鹿になっています。彼らにわからないことを説明するにはものすごく時間がかかる。だから、生活のリズムもきわめてゆっくりしたものになってゆきます。……
(ゴダール「憎しみの時代は終り、愛の時代が始まったと確信したい」(1987年8月15日、於スイス・ロール村――『光をめぐって』蓮實重彦インタヴュー集 所収)

そもそもそんなふうに思い出さない読書は、読んだうちに入らない。

何もいうことがない連中は、名前だけでものをいう。あるいは、《われわれは、決して同じイメージを共有することなく、「海」la merだの「田舎」la campagne だのの語彙を口にしあっている》。

名前だけでものをいうとどんな具合になるか。

実際、誰もがフローベールを知っている。そして、知ってるという事実をたがいに確認しあうために、人は、フローベールをめぐって誰もが知っている物語を語りあう。

(……)誰にでも妥当性を持つことで、誰もがそれを口にするのが自然だと思われる物語。それが、知の広汎な共有を保証し、その保証が同じ物語を反復させる。かくして知は、説話論的な装置の内部に閉じこもる。まるで物語の外には知など存在しないかのように、装置は、知を潤滑油として無限に機能しつづける。するとどういうことになるか。

結果は目にみえている。人は、知っていることについてしか語らなくなくだろう。たまたま未知のものが主題になっているかにみえる物語においてさえ、人は、それを物語ることで、既知であるかの錯覚と戯れる。あるいは逆に、既知であるはずのものを、あたかも未知であるかのようにあつかうふりを演ずる。そして、その錯覚と演技とが、知と物語との相互保証をますます完璧なものにする。だから、物語は永遠に不滅なのだ。(蓮實重彦『物語批判序説』)

つまり、ゴダールのいう通り、 人びとは驚くほど馬鹿になるのだ。


アンの文章はあのとき私の肉体の一部になった。いや、そういうことにならない読書は、やっぱり根本的に不毛だといっていいのかも知れない。(須賀敦子『遠い朝の本たち』)

アンとは、アン・リンドバーグのこと。リンドバーグ夫妻の、千島列島での不時着事件をめぐる文への衝撃、《いまでも、目をつぶると、アンが夫とふたりで、おそらくは自然の中で人間はどれほど無力かという苦い自覚につつまれて、息をひそめるようにして葦の中で救出を待った時間が私の中をしずかに通りすぎる、その耳に聞こえない音が伝わってくるようだ。そして、闇のうこうから近づいてくる人たちの声が。それはなつかしい人間の声だった、というふうにアンは書いていた》にかかわるのだが、今はそれにはこれ以上は触れない。あわせて『遠い朝の本たち』に引用されている吉田健一訳の『海からの贈物』の一節を抜き出しておくだけにする。

我々が一人でいる時というのは、我々が一生のうちで極めて重要な役割を果たすものなのである。或る種の力は、我々が一人でいる時だけにしか湧いてこないものであって、芸術家は創造するために、文筆家は考えを練るために、音楽家は作曲するために、そして聖者は祈るために一人にならなければならない。しかし女にとっては、自分というものの本質を再び見いだすために一人になる必要があるので、その時に見いだした自分というものが、女のいろいろな複雑な人間的な関係の、なくてはならない中心になるのである。女はチャールズ・モーガンが言う、『回転している車の軸が不動であるのと同様に、精神と肉体の活動のうちに不動である魂の静寂』を得なければならない。(アン・モロウ・リンドバーグ『海からの贈物』)

さて、前回、中井久夫による書評「村瀬嘉代子『子どもと大人の心の架け橋――心理療法の原則と過程』」を全文引用したが、ここではもうひとつ、「村瀬嘉代子さんの統合的アプローチに思う」2006初出『日時計の影』所収)の冒頭を抜き出してみよう。

村瀬さんは能登半島の旧家のお生まれである。それは、日本海に臨み、杉林でおおわれた谷あいを流れ下る清水を引いて棚田を作り、それが山頂近くから海に落ち込むような急角度で浜辺まで続くところにある。澄んだ青色が水平線まで続く日本海も、「耕して天に至る」厳しい日々の営みがようやく稔りをもたらす棚田も、共に村瀬さんの原世界を作ったであろうと私は思う。棚田は日々の営みによって初めて維持されるものであり、海は太古から永遠に変わらない色を湛えている。その二つは村瀬さんの二つの面を思わせる。

しかも、海は、チリからこの浜べまでずっと海だというのがいかにもと思われる怒涛の洗う太平洋でもなく、島々の間を見え隠れしつつ水路が縫う瀬戸内海でもない。日本海は夏はあさみどりに静かであり、冬は天暗く波逆巻くというように相貌を異にするとしても、古くから航路が開けた海である。ことに、能登半島の外海側は対馬海峡を通ってくる暖流が洗い、クスノキ、タブなど南方系の樹が繁る。単純な北の海ではないのである。

さらに能登の人は棚田を守るだけでなく、江戸に出て、殊にその浴場を支配してきた。戸籍上農家と分類されている家が北前貿易に深く関与していたことも分ってきたそうである。農家という公式の分類では済まない、非常に広い世界に深く関与しているところも村瀬さんを思わせるであろうか。

幼い時、たいへんなお転婆であったと仰る。たまたま、自伝的エッセイの挿絵を描くまわりあわせになった。写真があればお持ち下さいとお願いしたのだが、手ぶらで神戸においでになった。やむなく、お話をうかがいながら「こうですか、それともここはこうでしょうか」といくつかの絵を描いたものである。村瀬さんは一党を引きつれてトロッコに載せ、危うげなレールの上を走らせ、「そーれっ」と坂を下ることを繰り返してたそがれに及んだという。本の帯に使われたその絵でトロッコの最後尾に立ってブレーキを握っているのが村瀬さんである。長じても、乗馬、大排気量のバイク・ライダーと、このスリルへの傾きは変わらなかったらしい。微妙できわどい操作を自力だけでやりおおせる人である。もっとも、そこで重要なのはブレーキ操作であることは言っておかなければならない。一党を統率する時にはいちばん危険なところにわが身を置くことも、また。

それを動とすれば静の世界にも窓が開いている。蒸気機関車の時代、列車の最後尾の赤いランプが遠ざかってついに消えるのを見つめている少女であった。家にいた韓国人の好青年も消える。彼女は多くの別れを経てきている。彼女には努力と機転と共に祈りと無常感とがある。

そういう少女がある時より広い世界に出ようとする。

彼女は奈良女子大時代のことを多くは語っていない。奈良は古い都の跡はあるが、近世にマニュファクチュアが最初に開け、菜種油から漢方薬までの換金作物が堺、大阪に運ばれたところであって武士の支配を受けない時代を室町末期に経験している。加賀も一世紀間武士の支配を受けていないことを思い合わせてもよいかもしれない。しかし、奈良は学生の町とはいえない。女子大はお茶の水と並ぶ名門であるが、奈良で学生時代を送った人はしばしば孤立感を語る。

大阪府に対する奈良県の関係は今の東京都に対する埼玉県の関係である。秩父と吉野という奥の院があることさえ対応している。……(中井久夫「村瀬嘉代子さんの統合的アプローチに思う」)

ああ、ここにも「無常感」という言葉がある。

人との出会い、そして年をへだてての再会、あるいは消息を聞く彼女の筆づかいには、まぎれもなく「無常」の感覚がある。彼女のエッセイが私たちの心を打つのはこの清冽な無常感あってのことと私は思う。(……)彼女の本のどれを読み終えても、いちばん長く残る余韻はこの無常感である。中井久夫「阪神間の文化と須賀敦子」(『時のしずく』所収)ーー「風がちがうのよ」より)



さて、以下は、中井久夫の村瀬嘉代子オマージュの前半に書かれている凝縮された「海」をめぐっての叙述からのみの想起された文のなかのいくつかの引用である。

オスタンドに着いたのは、午後の時間で、日があるうちにと、私たちは教会も美術館も見ないで、まっすぐに海岸をめざした。なにをその海に期待していたのか、いまもはっきりとはわからないのだが、海岸の防波堤に立ったとき、私は、海が、それまでじぶんの中にあったどの海のイメージとも異なっているのに気づいた。

灰色の雲にとざされた風景の中を、雨が横なぐりに吹きつけて、波がしらの白さが、牙をむいて飛びかかってくる獰猛な野獣に見えた。( ……)

子供のころ、岩場をつたって、日がないちにち、歓声をあげて遊びほうけた白い砂の浜辺が、小さい足をサイダーみたいにやさしく洗ってくれた波が、ふとなつかしかった。(須賀敦子『ユルスナールの靴』「フランドルの海」の章)

そう、フランドルの海と日本の海は、ぜんぜん違うらしい。似ているようにみえるわたくしの住んでいる土地の海だって、日本の海ではない。そして日本の海だって、地方ごとに違う。



さう! 大海の素性は狂気。
豹の毛皮、また陽の千の肖姿に
孔穿たれた古代ギリシャの軍用マント、
絶対の水蛇のおのが青い身体に酔ひ、
燦めく尾を噛み続けてゐる、
沈黙に似たざわめきで、

(ヴァレリー『海辺の墓地 』第23節 中井久夫訳)


ミシュレの『海』は、次のような文で始まる。
《「海からうける第一印象というのは、恐れだな。」――生涯を海ですごし、冷静沈着な観察者となった一人の勇敢なオランダ人船乗りは、正直にそう言った。》

私もまた、恨みをだきながら、飽くことなくこの海をながめていた。実際の危険にさらされてはいないので、私はせいぜい、海に対して不安と悲しみとをおぼえた程度であるが、海は醜く、おぞましい形相をしており、詩人たちの絵空事のような情景描写をしのばせるものはなにもなかった。ただただ奇妙なコントラストがあって、私には、自分の実在感が薄れればうすれるほど、海のほうが生き生きと感じられていた。そのものすごい動きで帯電した波の一つ一つが、生気をえて、奇怪な魂をもったかのようであった。総体としての激しさのなかには、個々の波の激しさがあり、全体的な均一性(たとえ矛盾した物言いと思われようとも、これは真実である)のなかに、悪魔的なひしめきが秘められていた。それは私の目の迷いであったのか、それとも、疲れた頭の迷いであったのか。はたまた、実際にそうであったのか。波は私には、忌まわしい下賤の者たちのうごめき、いや、人間というよりも吠えたてる犬どものうごめき、たけりたった、あるいはむしろ、発狂してしまった何千何万の番犬どもの恐ろしいうごめきのように思われた……。だが、どう表現すればいいのだろう。犬? 番犬? いや、それでもまた言いたりない。おぞましく名づけようもない幽霊、目も耳もなく泡をふく口だけをもった獣とでもいうべきか。

怪物どもよ、おまえたちは何がのぞみなのだ。私が四方から得た海難の知らせに、おまえたちはまだ飽きたらぬのか。いったい何が欲しいのだ。――「おまえの死、大地の崩壊、そしてカオスへの回帰なのさ。」(ミシュレ『海』藤原書店 加賀野秀一訳 P68)

ああ、海がみたい。幼き日であれば浜名湖の遠浅の海であり、廊下に松の老樹が天井を突き抜けていたあの古い旅館の和座敷の前の松林のなかに拡がる砂の感触であり、あるいは蒲郡の海、鯔や蝦蛄手づかみしたり、浜辺で殻ごと火にかけた蛤やら浅蜊を立ち食いしたあの泥臭い海、さらに後年は、伊古部と赤羽海岸の荒い海、臆病な少年には到底泳げない波の高い潮風の強烈な海、海辺でテントを張って合宿し焚火を囲んで少女たちと輪になって踊り胸を高鳴らせた少年の股間のテントの海、あるいはもう少し足を伸ばせば伊良湖岬の崖の上から遠眺する神々の海、岬の高台では伯父たちが友人やらその女ともだち、ときには水商売の女の着物姿もまじえて正月三が日を過ぎたあと何部屋か借り切って麻雀三昧する習慣のあったあの眺望豊かなホテルから眺める海であり、母の一番下の弟である叔父が、若い女と腕をからみあわせたまま立ち上がりそのまま別室へとゆっくり横切っていって小一時間して戻ってきたってなんのことか分らずにひたすら宵闇のなか灯台の光が瞬きだすのやらはるか遠くに船が行き交うのを眺めていたあの海。夏休みだったら、伊良湖内湾の簀の子小屋の諒闇のなかでサイダーをラッパ飲みしつつ傍らの女子着替え部屋のかすかな気配に動揺した少年の、あの波の静かな穏やかな海、さらに友とひそかに漁船で行き着いた漁村の軒下につるされた干物の魚と漁師の娘たちの海、三島由紀夫の神島の海。

漁師たちの下卑た歓声だって聞こえてくる「神島」。情熱の笏をむぎゅっと摑まれる感触だって残っているあの神島の海。
……喫茶店を抜け出して海岸へ行き、人気のない小さな砂原を見つけ、洞穴のような形をした赤茶けた岩が菫色の影をおとすなかで、私は、つかのまの貪婪な愛撫をはじめた。誰かがおき忘れたサングラスだけが、それを目撃していた。私が腹ん這いになって、愛する彼女をまさに自分のものにしようとした瞬間、髭をはやした二人の男、土地の老漁夫とその弟とは、海からあがってきて、下卑た歓声をあげて私たちをけしかけた。

(……)私が薄くひらかれた彼女の唇の端と熱い耳たぶに接吻したとき、彼女の体はふるえ、ひきつった。頭上の細長い葉の影絵のあいだから、星の群団が青白い光をのぞかせていた。顫動する空は、かるい室内着の下の彼女の肢体と同様、透きとおって見えた。そして、その空のなかに、彼女の顔が、それ自体かすかな光を放つかのように、妙にはっきりと浮かんでいた。彼女の脚、かわいらしいぴちぴちした脚は、あまりかたくはとじられず、私の手が求めていたものをさぐりあてると、よろこびと苦痛の相半ばした、夢みるような、おびえたような表情が、あどけない顔をかすめた。彼女は私よりもやや高い位置に腰をおろし、一方的な恍惚状態におそわれて私に接吻したくなると、彼女の顔は、まるで悲しみに耐えられなくなったように、弱々しく、けだるそうに私にしなだれかかり、あらわな膝は、私の手首をとらえて、しめつけては、またゆるめた。そして、何か神秘的な薬の苦さにゆがんで小刻みにふるえる唇が、かすれた音をたてて息を吸いこみながら、私の顔に近づいた。彼女は最初、愛の苦痛をやわらげようとするかのように、かわいた唇を、あらあらしく私の唇にこすりつけたが、やがて顔をはなし、神経質に髪の毛をうしろへはらってから、またそっと顔をよせて、かるくひらいた唇を私に吸わせた。一方私は、心も首も内臓もすべてを惜しみなく彼女にあたえたい一心から、彼女のぎごちない手に私の情熱の笏〔しゃく〕を握らせた。(ナボコフ『ロリータ』)

いくら当地の中部にある My Khe beach(英名チャイナ・ビーチと称され、世界五指に入る美しい海などとされることもある)の海が誉れ高くても、やっぱりあれらの海ではない。蛤の焼き物のかわりに、山のように茹でた蝦蛄があったり、烏賊釣り漁船からとりたてのいかを炙って食べたり、醤油とワサビ、あるいは生姜が手元にあれば、刺身にして頬張ることができたって、あるいは松林のかわりに椰子林のむこうにひろがる砂浜と海鳴りがあったって、あれらの海ではない。


ああ、海がみたい。




鳩歩む この静かな屋根は
松と墓の間(ま)に脈打って
真昼の海は正に焔。
海、常にあらたまる海!
一筋の思ひの後のこの報ひ、
神々の静けさへの長い眺め(「海辺の墓地」第一節 中井久夫訳)


それは決して男を知った乳房ではなく、まだやっと綻びかけたばかりで、それが一たん花をひらいたらどんなに美しかろうと思われる胸なのである。

薔薇色の蕾をもちあげている小高い一双の丘のあいだには、よく日に灼けた、しかも肌の繊細さと清らかさと一脈の冷たさを失わない、早春の気を漂わせた谷間があった。四肢のととのった発育と歩を合わせて、乳房の育ちも決して遅れをとってはいなかった。が、まだいくばくの固みを帯びたそのふくらみは、今や覚めぎわの眠りにいて、ほんの羽毛の一触、ほんの微風の愛撫で、目をさましそうにも見えるのである。 (三島由紀夫『潮騒』)

朝目覚めて、思いついたようにして行けたあられの海。学校帰りにひょいと自転車で寄り道して悪友とともに行けた海。バスの最後部座席にゆったり座っていくばくかの固みを帯びたふくらみを育てているおきゃんな女友達のこころやすい微笑みとともに行けた海。わざわざ旅していく海じゃない。日常生活のかたわらにあった海たち。ああ、海がみたい。


…………

◆蓮實重彦『反日本語論』「海と国境」の章より。

海の不在 
日本は島国で漁業がさかんだとか、バルチック艦隊を破ったほどの提督を持つ海軍国だったとか、海洋性の気候で夏は湿度が妙に高くなるとか、そんな話は昔から聞かされて知ってはいたけれど、まさか、日本に海がないとは思っていなかった。太平洋も見たし日本海も眺めはしたけれど、あれは海なんてものではないと妻はいう。海ってものは、もっと途方もない何ものかでなければいけない。たとえば、英仏海峡に面したノルマンディーからフランドルにかけての海岸。断崖がそそりたっていてもいいし、砂丘がどこまでも伸びていてもかまわないが、そこでの海は、もっともっと大がかりな表情の変化を持っている。潮の干満によって、いままで砂丘だと思っていたところが、いつの間にか灰色の波に蔽われてしまう。かと思うと、潮が二キロにも三キロにも引いていって、気の遠くなるほどの広さの湿った砂が露呈する。そして何頭もの馬の黒い影が、濡れた砂丘を思いのままに駈けぬける。とり残されたように鈍い空の色を映している水溜りのまわりには、鷗たちが群がっていて、そこに、飼主から遠く離れた犬が走りこんでゆく。そして、カフェで風を避けて熱いチョコレートをすすって浜辺に戻って行ってみると、海はもうついそこのところまで拡がりだしていて、最後の砂のお城を崩しさってゆく。海とは、陸と海とが演じるおそろしく気まぐれな、それでいて調子の狂うことのない戯れの場でなければならない。少なくとも、わたくしの知っている海は、視線の尽きはてるあたりまでが陸になったり水になったりする巨大な周期的な反復の舞台なのだ。ところが、と妻はいう。ところが、日本では、海と砂浜とが、あまりにも几帳面にたがいの領土を尊敬しあっている。ゆっくり時間をかけて、だが着実に満ちてくる潮のあの官能的な運動が日本の海には欠落している。嵐の日の途方もない波のうねりとか、台風の高潮とか、そんな海の粗暴な表情がどうしたというのではない。そうじゃなくて、何といったらいいのか、あの動物たちが群がみせる秩序だった奔放さとでもいうべきものが、ごく日常的なさりげなさで海に生気を吹きこんでゆく。そうした生気が日本の海には感じられない。だから、そんな光景としての海に馴れ親しんできたものにとっては、日本には海がないとしかいいようがない。海のない島国に住むことになろうとは、本当に考えてもみなかった。ああ、久しぶりに、海がみたいと妻は時折り嘆息する。ああ、海がみたい。

いうまでもなく、妻は、朝から晩まで日本の海に難癖をつけているわけではない。伊勢志摩の入江の松林ごしにのぞまれる海や、伊豆半島の突端で耳にする海鳴りの音などは、やはり美しいという。ただ、故国を遠く離れしかもその土地に住居を定めて暮らす者にとって、その郷愁の思いがこうした表現をとることは、いかにも現実感をもって夫の胸をうつ。誰もが、自分の海を持っている。その海が、いま実際に目にしている海と異なることは、発見の喜びの源であると同時に、ある崩壊の意識ともつながっているだろう。もちろん、妻にしたところで、カリフォルニアの海が象牙海岸の海と同じ顔を持っていまいことは充分承知している。プルーストの海がヘミングウェイのそれと違っていることも、知らぬわけではあるまい。それでいながら、日本には海がないと断言することの重さは、軒下につるされた干物の魚とか、漁師たちの網を引くかけ声だとか、夏の浜辺のスノコ小屋とか、松林の赤い幹とか、そんな断片的な記憶を綴りあわせて海をイメージする日本人の夫にとって、痛いまでに感じられる。倖いにして、妻は、あああれが喰べたいこれが飲みたいといって、外国人向けの高級食料品店をはしごしてまわるといった習癖は持ちあわせていない。電車を乗りついで評判のフランス・パンを買いに行くといった日本人の奇行には目をそむけながら、米の水加減に気をつかい、ざるそばの歯切れ具合を云々する。コーヒーよりは遥かに日本茶を愛好し、近所のお茶屋では、いつものところを二百グラム頂戴などと日本語で注文する。行きつけの寿司屋の板前さんと仲よくなって、行くたびにオアイソが安くはならないまでも、物価上昇の割には決して高くならないことをいまでは当然の事と考えている。子供の参観日には、前の晩からコクゴやサンスウのおさらいをして、早朝の混雑電車に揺られてゆく。それでいながら、やはり、時折り、ああ、海がみたい、本当の海がみたいというつぶやきがその口から洩れる。

そんなとき、日本に欠けているのは海ばかりではない。日本には、田舎もないという。田舎とは、妻にとって、見わたす限り拡がった畑のつらなりであり、牛が草をはむなだらかな緑の丘であり、樹々に囲まれた農園の屋根であり、親のあとを追う仔馬の歩む光景にほかならない。だからわれわれは、決して同じイメージを共有することなく、「海」la merだの「田舎」la campagne だのの語彙を口にしあっているわけだ。フランスであれば、パリから二十分も電車に揺られれば、窓の外に田舎が横溢しはじめる。終末を田舎で過ごすといった言葉が想像させる豊かさは、たまたまとび込んだレストランんのもうしれだけで腹がはってしまいそうな前菜とか、何にでもない庭さきで手づかみでほおばるサクランボの甘さとか、とりたてのアスパラガスが山ほど緑色の湯気をたてている粗末な皿とか、そんなものによっていかにも気軽に自分のものとすることができる。だが、日本では、何時間汽車に乗れば、田舎の出逢えるというのか。たしかに、真夏の山形とか秋田とかの米作地帯に行くと、田圃一面に実った稲の穂からタタミの匂いがたちのぼってくる。あれが日本の田舎の豊かさというものかも知れないと妻はいう。だがそれにしても、それは東京から何と遠いことか。おまけに、今夜、不意に思いたって明日の朝汽車に乗るというわけにもいかない。そして、それはやっぱり自分の知っている田舎とは違っている。だから、無いものねだりだとはわかっていても、妻はつい、ああ、本当の田舎が見たいとつぶやいてしまうのだ。馬や牛といった平凡な家畜たちが風景と調和しあっただけの、何の変哲もない田舎に行ってみたい。

日本には海もなければ田舎もないという妻の修辞学的誇張が隠している郷愁を癒すべく、われわれは、ヨーロッパに行くたびに、長い休暇を海と田舎とが共存する地帯で過ごすことになる。……(蓮實重彦『反日本語論』)