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2013年7月22日月曜日

愛らしいリベラル左翼たち

「リベラル左翼の「無責任」とも呼べるようなもの(連帯とか自由などの壮大な事業を唱えながら、具体的でしばしば「過酷な」政治的方策という形で代償を支払わなければならなくなると逃げ出す)」(ジジェク)

リベラル「左翼」のきみたち
それでどうしたいのだ?

資本主義社会では、主観的暴力((犯罪、テロ、市民による暴動、国家観の紛争、など)以外にも、主観的な暴力の零度である「正常」状態を支える「客観的暴力」(システム的暴力)がある。(……)暴力と闘い、寛容をうながすわれわれの努力自体が、暴力によって支えられている。(ジジェク『暴力』)

小粒な反体制戦争ごっこをいまだ続けたいのかい?
いやきっと躁的祝祭の儀式は昨日で終っただろうよ

戦争の論理は単純明快である。人間の奥深い生命感覚に訴える。誇りであり、万能感であり、覚悟である。戦争は躁的祝祭的な高揚観をもたらす。戦時下で人々は(表面的には)道徳的になり、社会は改善されたかにみえる。(……)これに対し、平和とは、自己中心、弛緩、空虚、目的喪失、私利私欲むきだし、犯罪と不道徳の横行する時代である。平和の時代は戦争に比べ大事件に乏しく、人生に個人の生命を超えた(みせかけの)意義づけも、「生き甲斐」も与えない。平和は「退屈」である。(中井久夫「戦争と平和についての考察」『樹をみつめて』所収)

いまだ社会保障費削減や消費税増、両方とも反対したままかい?
「北欧型=高賃金、高福祉、高生産性か
英米型=低賃金、自助努力、労働者の生産性期待せずかとするのか」(岩井克人
どちらかしかないのはわかってるだろ?
北欧型を選ぶなら、消費税30パーセントが必要だぜ
それともアベノミクスの経済成長に期待するだけかい?
それなら「隠れ自民党」ってわけだな

きみたちの束の間の「真剣」な身振り
「イロニーにおいては一切が戯れであるとともに、一切が真剣である」(ハルトマン)
きみたちの「真面目」ぶり
日本の将来を憂うだと?
「イロニーの頂点は真面目であること」(シュレーゲル)
究極のロマン派たちよ
「現実性とは、他でありえたかもしれない可能性の中で、しかも他ならぬものとしてあることだ。ロマン派とは、このような被限定性からの逃亡である」(柄谷行人)

官僚のホンネはひとびとが年金受給年齢になったら死んでくれることだ
健康保険金を食いつぶす病者たちははやくお陀仏してくれることだ
失業保険だと? 税金払わないやつらは野垂れ死んでくれることだ
国の経営者だったらそう願うのは当たり前だ

国家の最高官吏たちのほうが、国家のもろもろの機構や要求の本性に関していっそう深くて包括的な洞察を必然的に具えているとともに、この職務についてのいっそうすぐれた技能と習慣を必然的に具えており、議会があっても絶えず最善のことをなすに違いないけれども、議会なしでも最善のことをなすことができる。(ヘーゲル『法権利の哲学』)

ただし優秀な官僚たちは「企業」や「政治家」たちとの姻戚関係(その娘や孫娘を娶る)や天下り先などで「えげつない」資本主義に絡め取られているには相違ないがね

どの国でも、官僚たちは議会を公然とあるいは暗黙に敵視している。彼らにとっては、自分たちが私的利害をこえて考えたと信ずる最善の策を議会によってねじ曲げられることは耐え難いからである。官僚が望むのは、彼らの案を実行してくれる強力且つ長期的な指導者である。また、政治家のみならず官僚をも批判するオピニオン・リーダーたちは、自分たちのいうことが真理であるのに、いつも官僚や議会といった「衆愚」によって邪魔されていると考えている。だが、「真理」は得体の知れない均衡によって実現されるというのが自由主義なのだ。(柄谷行人『終焉をめぐって』)

おめでとう、自民党長期政権の復活!
きみたちロマン派左翼の貢献大なり

「国家」とは税金の収奪装置だ
持続的に強奪するためには、相手を別の敵から保護したり、産業を育成したりする必要がある。それが国家の原型です。国家は、より多く収奪しつづけるために、再分配によって、その土地と労働力の再生産を保証し、灌漑などの公共事業によって農業的生産力を上げようとします。その結果、国家は収奪の機関とは見えないで、むしろ、農民は領主の保護に対するお返しとして年貢を払うかのように考えます。ゆえに国家は一面において、超階級的で、「理性的」であるかのように表象されます、儒教がそうですが、治世者の「徳」が説かれたりもするわけです。だから、収奪と再分配も「交換」というかたちになります。(柄谷行人『NAM生成』)


わかってるだろ、そこの「オピニオン」くん
「戯れの反対は真面目ではない。現実だ」(フロイト)
あいかわらずの偽の左翼たち

「われわれ左翼学者は、体制が与えてくれる特権をすべて享受しながら、外面的には批判的でありたいのだ。そのために、体制に対して不可能な要求をなげつけよう。そうした要求がみたされないことは、みな分っている。つまり、実際には何も変わらず、われわれがこれまで通り特権化されたままでいられることは確かなのだ」(ジジェク)


束の間の「真面目」ぶりを発揮して
体裁を保ったつもりになったら
またいつものように趣味の世界の
戯れに戻るのだろうよ

ウォール街占拠運動は、したがって、(混乱をもたらすことがしばしばある)さまざまなその言明の氾濫の背後に、以下の二つの基本的な洞察を隠し持っている。

第一の洞察は、現代において人びとが抱えている不満はシステムとしての資本主義に向けられている。問題はシステムそのものであり、個別のその腐敗形態ではない。

第二の洞察は、現代で複数政党制度に基づく代議制民主主義がとる形態では、資本主義的過剰に対処することができない。言い換えれば、民主主義は発案しなおさればならないということである。

こうした洞察によってわれわれは、ウォール街での抗議で懸案された問題の核芯に、接近することができる。それは、民主主義を、経済生活の破滅的帰結に直面して為すべきを知らないことが明らかになった現行の政治形態を超えて、どのように拡張するか、という問題である。複数政党政治に基づく代議システムを超えて再発案された民主主義にはどんな名称が相応しいのか? 存在する。

それはプロレタリアートの独裁である。(ジジェク『ポストモダンの共産主義』)

 プロレタリアート独裁だと?
「ひとが本当に恐れているのは、自分の要求が完全に受け入れられることである(……)。そして、今日の「ラディカルな」学者も、これと同じ態度(やるならやってみろという態度)に出られたら、パニックに陥るのではないだろうか。」(ジジェク)

穏健なきみたちは実はこっち系かい?

ドイツの教職員諸君、ドイツ民族共同体の同胞諸君。 ドイツ民族はいま、党首に一票を投じるように呼びかけられている。ただ し党首は民族から何かをもらおうとしているのではない。そうではなくてむしろ、民族の全体がその本来の在りようをしたいと願うか、それともそうしたいと思わないのかという至高の決断をおのがじし下すことのできる直接の機会を、民族に与えてくれているのである。民族が明日選びとろうとしているのは他でもない、自分自身の未来なのである。
 (ハイデガー「アドルフ・ヒットラ~と国家社会主義体制を支持する演説」1933年)