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2013年7月31日水曜日

「二十一世紀は灰色の世界…働かない老人がいっぱいいつまでも生きておって」渡辺美智雄1986

以下は、中井久夫の『時のしずく』(2005)所収の「「祈り」を込めない処方は効かない(?)――アンケートへの答え」というエッセイからだが、当エッセイの末尾に、『新潮45』(一九九九年五月)への寄稿とあり、「死ぬための教養」について、というアンケートだったかと記憶する、とある。

死ぬための教養」がなぜ今問題になるのであろうか。なるほど、江戸期の支配階級である武士には「死ぬための教養」が要請された。私の友人には、祖父から切腹の作法を教わった水戸っぽの教授がいるが、私は切腹を遂行する自信などない。私は私なりに、死の作法を考えないわけではないが、どういう状況で訪れてくるか分らないのが死である。人に話し、まして、雑誌に書いて死に恥をかきたくない。

他方、死は他人事になりつつある。そして金銭の問題に。「国民が年金年齢に達した時に皆死んでくれたら大蔵省は助かる」とある大蔵大臣が言った時、これは「貧乏人は麦を食え」どころではないぞと思ったが、この一派閥の領袖の発言を誰も問題にしなかった。その大蔵大臣は年金年齢に入ってから比較的早く亡くなった。しかし、それは別の問題である。この国が世界一の長寿国であるかどうかとは関係がなく、国民の早世を願う国は卑しい国である。国民を大切にしない国で長く栄えたためしはなく、現に、国民を奴隷に売ったり、国民の大量死を歯牙にもかけなかった国は外国の侮りを受けてきた。国民の命を粗末にした戦争で敗北したのはつい最近である。この発言は亡国の兆しではないか。

以後、私は「死の教養」とか「死と生を考える」とか「死生学」を素直に聞けなくなった。善意が利用されている気がする。……(中井久夫「「祈り」を込めない処方は効かない(?)――アンケートへの答え」)

 ーー《「国民が年金年齢に達した時に皆死んでくれたら大蔵省は助かる」とある大蔵大臣が言った》、とある。これはどこかで読んだはずだ、と探していたものだ。

そう、少し前いささか「偽悪的に」次のように書いたときに、この文の記憶をもとにしている。

官僚のホンネはひとびとが年金受給年齢になったら死んでくれることだ
健康保険金を食いつぶす病者たちははやくお陀仏してくれることだ
生活保護だと? 税金払わないやつらは野垂れ死んでくれることだ
国の経営者だったらそう願うのは当たり前だ



ところで、一派閥の領袖の大蔵大臣とある。中曽根派閥を引き継ぎ、大蔵大臣、通産大臣、外務大臣、副総理などを歴任した「ミッチー」こと渡辺美智雄氏のことだろう(1995915日 満72歳没)。

そこで伺いたいのですが、問題の渡辺という人物は現在通産大臣をしておりますが、この間有名な毛針発言というのをやりました。本会議できょう陳謝が行われるようですから、毛針発言については私は聞きません。しかし、案外世間には知られてないことですが、もう一つ重大な発言をしております。(……)

二十一世紀は灰色の世界、なぜならば、働かない老人がいっぱいいつまでも生きておって、稼ぐことのできない人が、税金を使う話をする資格がないの、最初から」、こう言ったわけであります。渡辺通産大臣は、それ以外にも、八三年の十一月二十四日には、「乳牛は乳が出なくなったら屠殺場へ送る。豚は八カ月たったら殺す。人間も、働けなくなったら死んでいただくと大蔵省は大変助かる。経済的に言えば一番効率がいい」、こう言っておられます。(第104回国会 大蔵委員会 第7号 昭和六十一年三月六日(木曜日) 委員長 小泉純一郎君……

…………


上記の渡辺美智雄氏の発言は、まだ冷戦時のものである。当時の第14回参議院議員通常選は、1986年(昭和61年)7月6日に行われた選挙結果は次の通り。





ーーー野党は、三分の一弱の議席を占めていたとしてよいだろう。



ある意味では冷戦の期間の思考は今に比べて単純であった。強力な磁場の中に置かれた鉄粉のように、すべてとはいわないまでも多くの思考が両極化した。それは人々をも両極化したが、一人の思考をも両極化した。この両極化に逆らって自由検討の立場を辛うじて維持するためにはそうとうのエネルギーを要した。社会主義を全面否定する力はなかったが、その社会の中では私の座はないだろうと私は思った。多くの人間が双方の融和を考えたと思う。いわゆる「人間の顔をした社会主義」であり、資本主義側にもそれに対応する思想があった。しかし、非同盟国を先駆としてゴルバチョフや東欧の新リーダーが唱えた、両者の長を採るという中間の道、第三の道はおそろしく不安定で、永続性に耐えないことがすぐに明らかになった。一九一七年のケレンスキー政権はどのみち短命を約束されていたのだ。

今から振り返ると、両体制が共存した七〇年間は、単なる両極化だけではなかった。資本主義諸国は社会主義に対して人民をひきつけておくために福祉国家や社会保障の概念を創出した。ケインズ主義はすでにソ連に対抗して生まれたものであった。ケインズの「ソ連紀行」は今にみておれ、資本主義だって、という意味の一節で終わる。社会主義という失敗した壮大な実験は資本主義が生き延びるためにみずからのトゲを抜こうとする努力を助けた今、むき出しの市場原理に対するこの「抑止力」はない(しかしまた、強制収容所労働抜きで社会主義経済は成り立ち得るかという疑問に答えはない)。

(……)

冷戦が終わって、冷戦ゆえの地域抗争、代理戦争は終わったけれども、ただちに古い対立が蘇った。地球上の紛争は、一つが終わると次が始まるというように、まるで一定量を必要としているようであるが、これがどういう隠れた法則に従っているのか、偶然なのか、私にはわからない。(中井久夫「私の「今」」1996.8初出『アリアドネからの糸』所収

《歴代の経団連会長は、一応、資本の利害を国益っているオブラートに包んで表現してきた。ところが米倉は資本の利害を剥き出しで突きつけてくる……》

《野田と米倉を並べて見ただけで、民主主義という仮面がいかに薄っぺらいもので、資本主義という素顔がいかにえげつないものかが透けて見えてくる》(浅田彰 『憂国呆談』2012.8)


浅田彰)……東西の冷戦の終結にともなって、南北の緊張が高まり、また冷戦構造によって抑え込まれていた民族紛争や宗教紛争があちこりで火を噴いている。

ジジェク)……ヘーゲルが繰り返し強調しているのは、ある政治システムが完成されて勝利をおさめる瞬間は、それがはらむ分裂が露呈される瞬間でもあるということなのです。

実際、勝ちをおさめたかに見える自由民主主義の「世界新秩序」は、「内部」と「外部」の境界線によってますます暴力的に分断されつつあります。「新秩序」の なかにあって人権や社会保障などを享受している、「先進国」の人々と、そこから排除されて最も基本的な生存権すら認められていない「後進国」の人々を分か つ境界線です。しかも、それはもはや国と国との間にとどまらず、国の中にまで入り込んできています。かつての資本主義圏と社会主義圏の対立に代わり、この「内 部」と「外部」の対立こそが現在の世界情勢を規定していると言っていいでしょう。このように、とことんヘーゲル的に言うなら、自由民主主義は構造的にみて普遍化され得ないのです。

(……)

リオ・デ・ジャネイロのような都市には何千というホームレスの子供がちがいます。私が友人の車で講演会場に向っていたところ、私たちの前の車がそういう子供をはねたのです。私は死んで横たわった子供を見ました。ところが、私の友人はいたって平然としている。同じ人間が死んだと感じているようには見えない。「連中はウサギみたいなもので、このごろはああいうのをひっかけずに運転もできないくらいだよ。それにしても、警察はいつになったら死体を片づけに来るんだ?」と言うのです。左翼を自認している私の友人がですよ。要するに、そこには別々の二つの世界があるのです。海側には豊かな市街地がある。他方、山の手には極貧のスラムが広がっており、警察さえほとんど立ち入ることがなく、恒常的な非常事態のもとにある。そして、市街地の人々は、山の手から貧民が押し寄せてくるのを絶えず恐れているわけです。……

浅田彰)こうしてみてくると、現代世界のもっとも鋭い矛盾は、資本主義システムの「内部」と「外部」の境界線上に見出されると考えられますね。

ジジェク)まさにその通りです。だれが「内部」に入り、だれが「外部」に排除されるかをめぐって熾烈な闘争が展開されているのです。(浅田彰「スラヴォイ・ジジェクとの対話」1993.3『SAPIO』初出『「歴史の終わり」と世紀末の世界』所収)

これがジジェクがしきりに語る、冷戦後、あらゆるところで「新しい形態のアパルトヘイト=新しい〈壁〉とスラム」が生み出されている参照:猟場の閉鎖という現実の一例なのであり、もちろん、日本にも「内部」と「外部」、たとえば、労働組合が、経営者と結託して非正規労働者を差別している、とはしばしば語られてきた。つまりはそこでは、「左翼」はみずからの既得権を守るための加害者であるのだ。

「小泉時代が終わって安部が首相になったね。何がどう変るのかな」
「首相が若くて貴公子然としていて未知数で名門の出で、父親が有名な政治家でありながら志を得ないで早世している点では近衛文麿を思わせるかな。しかし、近衛のように、性格は弱いのにタカ派を気取り、大言壮語して日本を深みに引きずり込むようなことはないと信じたい。総じて新任の首相に対する批判をしばらく控えるのは礼儀である」
「しかし、首相はともかく、今の日本はいやに傲慢になったね。対外的にも対内的にもだ
「たとえば格差是認か。大企業の前会長や首相までが、それを言っているのは可愛くない。“ごくろうさま”ぐらい言え。派遣社員もだけど、正社員も過密労働と低収入で大変だ。……」(中井久夫「安部政権発足に思う」2006『日時計の影』所収ーー「無能な主人」より)





中井久夫と破門

私がヴァレリーを開くのは、決って危機の時であった。

私が自由検討を維持するためにはかなりの努力を要する状況があった。ヴァレリーは、頭をまったく自由な状態に保つために役にたってくれた。主に彼の散文である。ヴァレリーは危機感受性とでもいうべきものがある。個人的危機の解決が政治的危機への対応を呼び醒ますのである。私の場合がそうであるかどうか、おのれでは定めがたいが、私には二十歳代は個人的にも家庭的にも職場的にも危機が重なってきた。私はそれらを正面から解決していったが、ついに、医学部の構造を批判的に書いた匿名の一文が露頭して私は“謝罪”を拒み、破門されて微生物の研究から精神科に移った。移った後はヴァレリー先生を呼び出す必要は地震まで生じていない。(中井久夫「ヴァレリーと私」2008.9.25(書き下ろし)『日時計の影』所収)

数度は読み返しているはずなのに、記憶からすっぽり抜け落ちていた。本来なら、「中井久夫と楡林達夫」をめぐってのメモをしたときに付け加えるべき文章だろう。


ーーと、ここまでメモして放ってあった。「破門」をめぐる文章がほかにはなかったか、とはことさら捜すつもりではなかったが、ベットサイドのテーブルには、中井久夫のエッセイ集が何冊か置いてある。翻訳ものやら英文やらを読んでいる合い間に、一息いれるつもりでパラパラめくって小さなエッセイをいくつか読むことがある。それはやわらかい日本語が懐かしくなるときだったりもするが、そもそもわたくしには中井久夫の文章の調子がひどくあう。

そうして昨晩また「破門」にめぐりあった。このエッセイだって、《眼を挙げて私は凍りついた。ややあって私はかすかにうなずいた。しかし、私の身体はそれ以上は動かなかった。》の箇所前後がとても気に入っていて、何度も読んでいるはずなのに、「破門」の言葉の存在は忘却していた。

「韓国人のよりも非妥協的な」ともあり、わたくしも三十歳前後、ひとに非妥協的な性格、--お前には、日本は向かないよ、などと呆れ返られた身でもあり、印象深いエッセイだったのだが。

Y夫人は「わが民族の欠点は妥協を知らないことだ」と何度も言われたそうだ。「韓国のゲーリー・クーパー」といわれたハンサムな新聞社長が訪問してきたり、夫人の大正時代からの親友、野党の総裁、故P女史が、国際電話で長話をしたり、あるいは娘さんはMIT卒の同国人の電子工学者と結婚して米国東部に住まっているなどともある。

「妥協の天才、日本人」と「非妥協的な韓国人」をめぐっては、次の文を引用しておこう。

私から見ると、韓国にあるような大胆な活動性が望ましいが、キム教授から見ると、むしろそのことが墓穴を掘る結果に終わることが多かった。韓国では激しい行動をしない者が非難されるが、それはなぜか、という新聞記者の問いに対して、教授は、つぎのように応えている。《知行合一という考え方が伝統的に強調されてきたからだと思う。知っているなら即刻行動に移さなければならないとされていた。行動が人生の全てを決定するわけではない。文明社会では行動とは別に、思考の伝統も必要だ》。日本と対照的に、韓国ではむしろ、もっと慎重に「空気」を読みながら行動すべきだということになるのかもしれない。(柄谷行人「キム・ウチャン(金禹昌)教授との対話に向けて」



…………

さて、「破門」をめぐる箇所をすこし長く引用しよう。

『家族の肖像』のなかに、《昭和三十八年の秋から四十一年の同じく秋まで、私はある韓国のおばあさんの家に下宿していた》と始まる「Y夫人のこと」というエッセイがある。昭和九年生まれの中井久夫であるから、二十九歳から三十二歳までのこと。

夫人には話さずじまいだったが、当時の私は最悪の状態にあった。事実上母校を去って東京で流動研究員となっていて、身を寄せた先の研究所で自己批判を迫られていた。フッサールという哲学者の本を読んでいるところを見つかったのである。研究室主宰者は、「『プラウダ』がついに核酸の重要性を認めたよ」と喜びの涙を流しておられた、誠実で不遇のマルクス主義者だった。傘下の者が「ブルジョア哲学」にうつつを抜かすのを許せなかったのであろう。筆名で書いたものもバレて、そのこともお気に召さなかった。

しかし、私にはやはり理不尽に思えた。「かつて政党に加入したこともない者が政治的な場でもないここでなぜ自己批判か」と返して、押し問答になった。結局、私は「自己批判」を拒否した。(……)

破門は私が現状打開を図る機の熟さないうちに起こった。時あたかも、長男の義務を果たすこと乏しくて私の家は傾き、友の足は遠のき、また「知りしひと皆とつぎし」頃であった。

たまたま、指導者の電話を夫人のかたわらで受けた。電話機は、夫人との語らいの場の炬燵の傍にあった。「はい、ナカイさんへのお電話」と夫人が受話器を手渡してくれた。「オイ、あれは何だ、あれとはあれだ……自己批判せい」と聞き馴れた声色であった。夫人の傍でなければ、私は挫けていたかもしれない。兜を脱げば許してあげようという示唆があった。しかし、日本統治を拒否して上海に亡命した夫人、北占領下のソウルの地下室に一年潜伏した彼女が聞いているところで、どうして些細な理不尽に屈せられよう。

夫人の背の床の間には三・一事件の烈士の独立宣言の軸が掛けられていた。私はそれを見つめながら応酬を続け、ついに受話器をつと置いた。一時間にも、それ以上にも長く感じたが、実際はどうだったのであろう。いずれにせよ、ウイルス学との縁の終わりである。初冬の寒い夜であった。私を支えた背後の力を、今は亡き電話線の向こうのお方はつゆご存じなかったに違いない。

(……)

二十年後、かつて自己批判を迫ったその人と出会った。球団に名を残すある会社の会長の葬儀である。故人は草分け時代の日本ウイルス学の隠れた援助者であった。

初夏の京の真っ白な驟雨はしばしば、お宅のすぐ裏の天智天皇の陵墓を隠した。別のテントに氏の姿がみえた。氏も私を認めた。私はある大学の精神科の講座を担当しはじめたところであった。

どちらが動くかという、無言の勝負であった。人々がふたりがどう出るかを意識しているのが私にはわかった。かちかちと時計の音が聞こえてくるような時間が流れた。

ついにたまりかねてであろう、かつてその社から大学へと派遣されて研究員だった方が、雨脚のはねしぶく砂利道を走ってこられた。当時まずしい私に晩ご飯を何度もおこってくれた青年社員である。他にも私たちへのかずかずの侠気があって、それはこの人が後に重役にならずに社を去る遠因の一つとなったらしい。「……さんもこのごろ孤独でね、もういいではありませんか……」。「……さん」は旧帝大の教授を経て今その社の「かかりうど」であった。

旧師の孤独の個人的理由を私は実は知っていた。「私の中の精神科医」が咽喉をつまらせた。しかし「破門」された側が動くわけには行くまい。

ついに、氏は雨を冒してこられた。氏から私のテントに来られたのである。いつも昂然としておられた氏の背は曲がっていた。「きみのその後はよく聞いている。ウイルス学からの転向者ではいちばんの成功者だと誇りに思っているよ」――そう氏はいわれて、手を差し出された。

眼を挙げて私は凍りついた。ややあって私はかすかにうなずいた。しかし、私の身体はそれ以上は動かなかった。

ついに戻ってゆかれる氏の後ろ姿をみつつ、私は「韓国人よりも非妥協的な」わが身を呪った。夫人のいわれた非妥協性のことである。

実際は「成功者」という言葉が私を阻んだのであった。しかし、先生はひょっとすると「世俗の成功」などを指しておられなかったかもしれず、世俗的な意味にとったのは私の卑しさであったかもしれなかった。

いずれにせよ、火花の時は過ぎた。程なく氏の他界を新聞紙上に見た。

今の私には、そのころ貴重品だった、おべんとうのタラコをわけてくださった笑顔の氏が眼にみえる。氏は学会の“孤児”たちをよく丹念に拾って研究室につれてこられた。……(中井久夫「Y夫人のこと」『家族の深淵』所収)


これだけではない、かつての「楡林達夫」には、その痛烈な医学界批判の余燼のような次のような文章もある。

一般に、医学系出版社は、ボスだけを握っていれば、そちらからの原稿依頼で、皆かしこまって書くと思っているふしがある。ある編集会議に出た時のことを思い出す。編集委員が集まったところで、編集者が挨拶をして、では夕食を用意させたありますから召し上がって後はよろしきと言って退席し、編集者抜きで会議が始まった。私は失礼なと思ったが、これは編集者は口を挟みませんという、医学界ではしかあるべき態度と受け取られていた。こういうふうであるから、医学書は悪文に満ち、金ぴかの俗悪な装丁の本が多いのであろう。

ほんとうかどうか、医学界のボスには、誤字訂正をしても激怒するのがあるそうで、こういう手合いを相手にしていると、編集者もたまらないであろう。私も面白くないので、医学系出版界とは積極的に関係を持たない方針である。幸い精神医学だけの出版社が別個にある。これには、精神医学の本は専門家以外にも販路があるという事情もあるだろうが、著者-編集者関係の違いも大いに手伝ってのことだろう。(中井久夫「執筆過程の生理学」『家族の深淵』1995)


※附記:

《医師団という意味での医局の運営は、私の若い日の医学界批判に背かないように心掛けた。私は、それによって「破門」されて、精神医学に転じたのである。私のやり方で得るところのあった人も、そうでない人もあったかと思う。私の中には、人に強制するのを最小限にしたい強い意向があって、それは戦時下の国民学校生の窒息的な体験からであった。》(中井久夫「一精神科医の回顧」『時のしずく』2005 所収)

《一九六六年は、翌年が学園紛争の精神科版が始まる年である。私は当時、東大分院にいた。私は、東大精神科の闘争組から自主選出助手候補に選ばれたと知らされた。私は、東大本院の病棟に行って、あるリーダーと会った。私は「お手並み拝見」と言い、彼は私のペンネームを口にして、「それを越えてみせる」と言った。


私は精神科に来る前に、所属していた研究所の改革に参加しており、また、匿名で、当時の日本の医療批判の本を書いていた。彼はそれを知っていたわけである。もっとも、研究所の改革は、劇的な成功の後、まだ科学者として一人前とはいえない若手が、所長をはじめとする人事などを動かすようになっていた。私は、それに絶望し、また自己嫌悪を催して、東大の今は医科学研究所である当時の伝染病研究所に、学術振興会流動研究員として去ったわけである。》(同「一精神科医の回顧」)


追記:この「破門」の出来事からしばらく経っての、中井久夫の写真(三十六歳前後)がある。そこには後年のやわらかく穏やかさの印象を与えてくれる氏の顔貌とは異なり、慎ましくも信念に熱くもえる硬派の青年の姿がある。





勤務していた青木病院(東京都調布市)の慰安旅行の記念撮影で(左端)=1970年


…………

――匿名の出版はその頃ですか

 63年、楡林達夫というペンネームで社会学者と「日本の医者」という本を書きました。教授が人事を支配し、博士論文指導の謝礼を受け取る医学部の内情を批判したものです。うわさになり、兼務していた東大の研究所で上司から問いただされましたが、謝罪を拒み、破門されました。逃げ隠れするぐらいなら本は書きません。6年間在籍したウイルス研から、精神科の臨床医に転じました。






2013年7月30日火曜日

アベノミクスの博打

いままで言ってきたように、アベノミクスってのがそもそも危険きわまりないギャンブルなんだけど、それがうまくいってるように見える今のうちに、参議院選挙に勝って両院のねじれを解消し、憲法改正をはじめ、いわゆる「戦後レジームからの脱却」を強引に進めようってのが、安倍政権の狙いだね。でも、国際的には「戦後レジーム」ってのは第二次世界大戦の戦勝国である米英仏ロ中が国連の安全保障理事会の常任理事国を構成する体制なんで、それを否定するのかってことになると、中国はむろん、アメリカその他だって黙っちゃいない。本来、北朝鮮に圧力をかけるため米中その他の諸国と協力すべき時だし、中国の覇権主義に対して日米同盟で対抗するってのが安倍政権の外交の基軸なんだから、他方でそれを揺るがし、アメリカにさえ警戒感をもたせるような言動をとるってのは、愚かとしか言いようがない。(田中康夫と浅田彰の憂国呆談2 TALK 63

ここではアベノミクスのギャンブル、その異次元緩和のみをめぐれば、そのギャンブル性への危惧は、インフレが加速しないための制御が果たして可能なのか、という不安なのだろう。

──異次元緩和後の金利動向をどうみているか。

「金利に対しては2つの違う働きの効果が働いている。国債を大量に買い入れたため、名目金利やリスクプレミアムは下がる。一方、予想インフレ率が上がることで名目金利が上昇する要素もある。金融政策の結果、予想インフレ率が上昇し、実質金利が下がっているかどうかが一番大事だ。そうでなければ株や為替、実体経済に対する影響が出てこない。(現在の実質金利は)BEIでみるとマイナスだ」(岩田日銀副総裁インタビューの一問一答

そして日本を代表するケインジアンのひとり、岩井克人は次のように語ることになる(「アベノミクスと日本経済の形を決めるビジョン」より)。

……デフレはすべて悪であるが、インフレはすべて善ではない。それは、さらなるインフレを予想させてインフレをさらに強めるという悪循環に転化する可能性を常に秘めている。その行き着く先であるハイパーインフレこそ、貨幣の存立構造それ自体を崩壊させる最悪の事態である。 
 好況は多数の人が永続することを願っている。その多数の声に逆らって、善きインフレが最悪のハイパーインフレに転化するのを未然に防ぐ政策を実行すること、それが中央銀行の独立性の真の理由である。しかし、その心配をするのはまだ早い。いまはインフレ基調の確立により総需要が刺激され、日本経済が長期にわたる停滞から解放されることを切に望むだけである。「日本経済新聞201331428ページ 経済教室 岩井克人」


デフレが悪なのは、ほとんどの経済学者は意見の一致をみているのだろう。それが分っていても、いい出せない、あるいは施策が打てなかったのは、ひょっとして優れて(かつ老いた)経済学者たちは、自分の世代は、なんとか逃げ切りたいとひそかに思っているせいだった、――などと勘ぐるのはよして、池尾和人氏のリフレ談義にぎやかなころ冗談めかした口から漏らした本音らしき言葉を引用しておこう。

むしろデフレ期待が支配的だからこそ、GDPの2倍もの政府債務を抱えていてもいまは「平穏無事」なのです。冗談でも、リフレ派のような主張はしない方が安全です。われわれの世代は、もしかすると「逃げ切れる」かもしれないのだから...(これは、本気か冗談か!?)(ある財政破綻のシナリオ--池尾和人2009.10

まあいずれにせよ、インフレというのは、年金受給者にとっては、まずは年金の貨幣価値の減価(あるいは銀行預金の目減り)なのだから、その年齢に間近いひとたちが、そんなことを本心では願うはずもない(よっぽどの資産家か、あるいは海外資産の準備をしていなければ)。

…………

ケインズがいくつか貢献したことのうちのひとつは、通貨の問題の中に欲望を再び導入したことであった。こうしたことこそ、マルクス主義的分析の必要条件にあげられるべきことなのである。だから、不幸なことは、マルクス主義の経済学者たちが大抵の場合多くは、生産様式の考察や『資本論』の最初の部分にみられる一般的等価物としての通貨の理論の考察にとどまって、銀行業務や金融操作や信用通貨の特殊な循環に十分に重要性を認めていないということである。(こういった点にこそ、マルクスに回帰する(つまり、マルクスの通貨理論に回帰する)意味があるのである)。(ドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス』)

こうして、最晩年のドゥルーズは次のように語ることになる。
マルクスは間違っていたなどという主張を耳にする時、私には人が何を言いたいのか理解できません。マルクスは終わったなどと聞く時はなおさらです。現在急を要する仕事は、世界市場とは何なのか、その変化は何なのかを分析することです。そのためにはマルクスにもう一度立ち返らなければなりません。(……)
次の著作は『マルクスの偉大さ』というタイトルになるでしょう。それが最後の本です。(……)私はもう文章を書きたくありません。マルクスに関する本を終えたら、筆を置くつもりでいます。そうして後は、絵を書くでしょう。)ドゥルーズの最晩年のインタヴュー「思い出すこと」ーー「柄谷行人の「構造と反復」をめぐって」より)

ドゥルーズ&ガタリの云うケインズの「欲望」をめぐっては、ケインズの「美人コンテスト」についての話が有名だ。それは、新聞紙上に掲載された100人の女性の顔写真の中から読者が投票で六人の美人を選ぶというものであり、読者からの得票がもっとも多く集まった六名の美人に投票をした読者に多額の賞金をあたえるという仕組み。

それぞれの投票者は、自分が美人だとおもう顔ではなく、自分とまったく同じ立場に立ってだれに投票しようかと考えている自分以外の投票者の好みに一番合うとおもわれる顔に票をいれなければならない。それは、自分が一番美人であると判断した顔を選ぶというのではなく、平均的な意見が本当に一番美人だと考えている顔を選ぶというのですらないのである。さらに第三段階にいたると、ひとは平均的意見が平均的意見をどのように予想するかを予想するために全知全能を投入することになる。そして、第四段階、第五段階、さらにはヨリ高次の段階の予想をおこなっているひとまでいるにちがいない。(ケインズ『雇用・利子および貨幣の一般理論』第十二章)


こうやって、資本主義市場の価格は、究極的には、たんにすべての投機家がそれを市場価格として予想しているからそのが市場価格として成立してしまう、つまりは美人コンテストのような「予想の無限の連鎖」のみによって支えられているとされることになる(とくに株式市場や債券市場)。そのとき、市場価格は実体的な錨を失い、ささいなニュースやあやふやな噂などをきっかけに、突然乱高下をはじめてしまう可能性をつねにもってしまうのだ。(ミルトン・フリードマンなどによる反論はあるがここでは触れない)。

参照:


あるいは、 信任論/岩井克人(2)より

ケインズの貨幣理論では、手段と目的の逆転が起きることになります。

貨幣とは、本来金属のかけらであったり、四角い紙切れであったり、電磁的な記号であったりと、それ自体は欲望の対象とはならないものです。

本来的にはそれらがすべてのモノを手に入れる可能性を与えてくれる手段となるから、可能性というものをあたかも実体的なモノであるかのように欲望してしまうということになる。

可能性という幻想を生み出したのが「否定と抑圧」ということであり、これがフロイトとそれを発展させたラカンの理論ではないでしょうか。

つまり、可能性は時間の別名であり、欲望の別名であるということ。

貨幣とモノの関係は、言語とモノの関係より単純なので議論が迷いにくいと思われます。

貨幣は、本来モノを手に入れる手段に過ぎなかった。

貨幣を持つことは、今モノを直接食べないという意味では、欲望の否定に過ぎません。

しかしながら、それがすべてのモノを手に入れる可能性を与えてくれることから、モノを欲望するより、モノを手に入れる可能性を欲望するようになったということです。

つまり、ほんらい実体のない、単なる媒体、単なる記号である貨幣を、あたかもそれ自体がモノであるかのように欲望するようになったということです。

モノへの欲望の否定から、いわば否定そのもの、「無」そのもの(*未来性、可能性)への積極的な欲望という転換があったといえるのではないでしょうか。

これが人間の欲望の根源的な構造であると思われます。

そして、この貨幣そのものに対する欲望の存在が、資本主義経済に恐慌やハイパーインフレーションを惹き起こすことになります。

つまり、モノに対する欲望よりも貨幣そのものに対する欲望が強くなると、結果的にモノが売れなくなって恐慌になります。

逆に、人々が貨幣の存立根拠そのものに不安を抱き始め、貨幣よりもやはりモノの方を欲望し始めると、貨幣からの逃避が始まり、ハイパーインフレーションが起きることになります。


柄谷行人やジジェク文脈では、ここでの「欲望」は「欲動」と言い換えられる。
マルクスが資本の考察を守銭奴から始めたことに注意すべきである。守銭奴がもつのは、物(使用価値)への欲望ではなくて、等価形態に在る物への欲動――私はそれを欲望と区別するためにフロイトにならってそう呼ぶことにしたいーーなのだ。別の言い方をすれば、守銭奴の欲動は、物への欲望ではなくて、それを犠牲にしても、等価形態という「場」(ポジション)に立とうとする欲動である、この欲動はマルクスがいったように、神学的・形而上的なものをはらんでいる。守銭奴はいわば「天国に宝を積む」のだから。(柄谷行人『トランスクリティーク』――「「金儲け」の論理、あるいは守銭奴(ヴァレリー、マルクス)」より)

ジジェクの『LESS THAN NOTHINGにおいてもドゥルーズガタリの「欲望機械」ラカンの「欲動」とすべきとする箇所がある(CHAPTER 9 Suture and Pure Difference )(「戦略的なマゾヒストたれ!」より)。

The starting point for a Lacanian reading of Deleuze should be a brutal and direct substitution: whenever Deleuze and Guattari talk about desiring machines (machines désirantes), we should replace this term with drive. The Lacanian drive—this anonymous/acephalous immortal insistencetorepeat of an organ without a body which precedes the Oedipal triangulation and its dialectic of the prohibitory Law and its transgressionfits perfectly what Deleuze tries to circumscribe as the preOedipal nomadic machines of desire: in the chapter dedicated to the drive in his Seminar XI, Lacan himself emphasizes the machinal character of a drive, its anti organic nature of an artificial composite or montage of heterogeneous parts.


さて、ここでもうひとつ、岩井克人のハイパー・インフレーションをめぐる叙述を『二一世紀の資本主義論』から抜き出しておこう。

ハイパー・インフレーションとは、ひとびとが貨幣を貨幣として受け入れることを拒否し、先を争って貨幣から遁走している状態である。それは、恐慌とは逆に、何らかの理由で、世の多くのひとびとが貨幣よりも商品を欲してしまうことによってひきおこされる。ひとびとがそれまで保蔵していた貨幣を使って商品を買いはじめ、経済全体の商品にたいする総需要が総供給を上回ると、物価も賃金も累積的に上昇しはじめることになる。もちろん、このようなインフレーションが一時的でしかないという予想が支配しているかぎり、実際にインフレーションは一時的でしかない。だが、もしどこかの時点で、インフレーションが将来さらに加速するという予測が強まると、事態は不可逆的になる。インフレーションとは貨幣の貨幣としての価値が持続的に減少していくことである。ひとびとは減価していくだけの貨幣をなるべく早く手放そうとして、商品にたいする需要をさらに増やすことになる。それによってインフレーションが実際に加速してしまうと、インフレーションがハイパー・インフレーションに転化するのである。もはやほかのひとびとが将来貨幣を貨幣として受け入れることを拒否してしまうのではないかという恐れが拡がり、その恐れによって、実際にひとびとは貨幣を貨幣として受け入れることを拒否してしまうのである。恐れが自己実現し、ひとびとは先を争って貨幣から遁走しはじめる。貨幣が貨幣として支えていたあの「予想の無限の連鎖」が崩壊し、それまで貨幣であったものがたんなる金属片や紙切れや電磁波にすぎなくなってしまうのである。

そして、そのとき、貨幣の媒介によって可能となっていた商品と商品との交換も不可能となってしまう。市場で交換されることによってはじめて価値をもつ商品それ自体もたんなるモノになり下がり、ひとびとは物々交換をはじめるよりほかなくなってしまうのである。ハイパー・インフレーションの行き着く先は、市場経済そのものの解体にほかならないのである。(岩井克人『二一世紀の資本主義論』ちくま学芸文庫P57-58)


アルゼンチンのハイパーインフレを想い起こしたいなら、ここにいくらかそのまとめがある、→「日本がアルゼンチンのようになる日 アベノミクスがインフレを引き起こすタイミングはいつか?


以下は、いささか際物のシュミレーションかもしれないが、ハイパーインフレーションをイメージするにはとても役に立つ経済小説家の橘玲氏のよる「20XX年ニッポンの国債暴落」

…………

ZAITEN20112月号の特集「20XX年ニッポンの国債暴落」に掲載された「シミュレーション20XX年ニッポン「財政破綻」」を、出版社の許可を得てアップします。これはもともと、編集部の要望で、同特集の巻頭のために匿名で執筆したものです。

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金利上昇、デフレ脱却が住宅ローン破産を呼ぶ

20XX110日(金)。午前6時に人形町のワンルームマンションを出て、徒歩で丸の内に向かう。出社前に近くのスターバックスに寄り、3800円のカフェモカを飲むのが私のささやかな贅沢だ。紙の新聞はずいぶん前になくなってしまったので、iPad5を開いてニュースをチェックする。

一面トップはあいかわらず「年金全共闘」で、新宿西口に3万人を超える団塊の世代の高齢者が集まり、「生きさせろ」と叫びながら警官隊と衝突した。大阪では公務員の大規模ストでゴミが回収できないため、道頓堀を巨大なドブネズミが走り回っている。スポーツニュースでは、中国の財閥が買収したFC銀座が、バルセロナを戦力外通告されたメッシに移籍のオファーを出したことが大きく報じられていた。

3年ほど前、さしたるきっかけもなく、国債価格が下落し、金利が上がりはじめた。最初はなにが起きているのか、誰にもわからなかった。経済学者のなかには、ようやく長いデフレから脱却できると、この現象を楽観的にとらえる者もいた。

それから、物価が上がりはじめた。最初はガソリンと野菜で、国際的な石油価格の高騰と冷夏が原因だとされた。だがそれが局所的なものでないことは、すぐに明らかになった。食料品や石油製品だけでなく、ありとあらゆるものの値段が一斉に高くなったからだ。

それでもまだひとびとは、比較的落ち着いていた。物価の上昇が急激でなかったため、経済評論家たちはニュース番組で、日本経済復活に必要なマイルドなインフレが起きているのだと解説した。

実際、この異変は当初、歓迎されていた。預金金利が5%に上がって、「利子で生活が楽になった」と喜ぶ高齢者がワイドショーで紹介された。円が120円まで下落したことで、トヨタやソニーなどの輸出産業が軒並み最高益を計上するようになった。

そして、住宅ローン破産が始まった。

超低金利に慣れ親しんだひとたちは、ほとんどが変動金利の長期ローンでマイホームを購入していた。それがいまや、ローン金利は10%台まで上がり、毎月の返済額は2倍になった。ローンを払えない契約者が続出すると、銀行は抵当物件を片っ端から競売で売却した。金利の上昇で大打撃を被った不動産市場に大量の競売物件が流れ込んだために、都市部を中心に地価は急落した。

政府は当初、住宅ローン破産を防ぐための特別措置を講じようと試みた。

だが金融当局は、銀行の財務内容を見たとたんに、ローンの繰延べや競売の猶予が不可能なことを思い知った。日本の銀行は大量の国債を保有しており、国債価格の下落で莫大な含み損を抱え込んでいた。そのうえ担保にしていた不動産価格まで暴落し、いまや数行を除いてほとんどが実質債務超過の状況にあった。不良債権問題を先送りする余裕などなく、返済が滞れば即座に処理する以外に選択肢はなかったのだ。

日本政府は銀行の連鎖倒産を防ぐために、超党派で金融危機特別法を可決させ、時価会計を一時的に停止し、簿価会計に戻すことにした。だがこれは、政府が公式に経済破綻を認めたと受け取られ、海外投資家が日本株と円を投げ売りし、日経平均は6000円まで暴落、円は1ドル=200円の大台を超えた。翌日物のコールレートは一時20%という消費者金融並みの水準まで上がり、各地で取り付け騒ぎが起こった。銀行救済のために政府は大規模な資本注入を余儀なくされ、大半の銀行が実質国有化される異常事態になった。

それと同時に、食料品や生活必需品を中心に物価が急速に上がりはじめた。スーパーの値札はたちまち倍になり、現金を握りしめたひとびとが買い物に殺到し、店頭からモノがなくなった。日本社会は、パニックに陥った。


ハイパーインフレが富裕層の顔ぶれを一転させた

コーヒーを飲み終えると、東京駅前のハイアールビルにある会社に向かう。金融危機前は丸ビルの愛称で知られていたが、いまや覚えているひとはほとんどいない。それ以外にも、サムソンプラザやタタ・ヴィレッジなど、東京都心の不動産はほとんどが外国企業に買収されてしまった。

私は三十代半ばまで、大手電機メーカーの技術者だった。海外企業との価格競争に巻き込まれてボーナスは年々減らされたが、会社にしがみついていれば定年まで食いつなぐことはできるだろうと、漠然と信じていた。

だがハイパーインフレが、すべてを変えてしまった。

最初に、年金生活の高齢者が家を失って路上生活を始めた。日比谷公園ではホームレスのための炊き出しが13回行なわれていて、1万人ちかくが公園内で暮らしている。同様に上野公園や新宿中央公園、荒川の河川敷もダンボールハウスで埋め尽くされた。

次いで、公務員のストライキが頻発するようになった。失業率は30%に達し、街には浮浪者が溢れていた。政治家は公務員の給与を引き上げることに二の足を踏み、実質給与はいまやかつての半額以下になった。週刊誌には、事務次官の妻がコンビニでレジ打ちをしたり、財務官僚の娘がキャバクラで学費を稼ぐ様が面白おかしく取り上げられた。

その大混乱を見て、生来臆病な私も、このまま座して死を待つわけにはいかないと腹をくくった。わずかな退職金で会社を辞め、まったく縁のない不動産営業の世界に飛び込んだのだ。

生き延びるために不動産業を選んだのには、理由がある。

半年ごとに政権と首相が変わったあげく、日本がIMF管理になるとの憶測が流れて、ようやく超党派の救国内閣が成立した。新政権の喫緊の課題は財政の健全化で、消費税率は25%になり、年金の受給年齢は70歳に引き上げられた。医療・介護サービスは保険料が大幅に上がり、自己負担は5割で、歯科治療が健康保険から外された。

財政再建の道筋が見えると、東京の中心部から不動産価格が上昇しはじめた。円安と地価の暴落によって、外国人投資家にとっては、銀座の一等地がかつての5分の1の価格で買えるようになったのだ。

私の唯一の取り得は、ビジネス英語が話せることだった。辞書を引きながら徹夜で契約書を翻訳し、欧米はもちろん中国やインド、東南アジアの投資家に東京の不動産を営業して回った。

私が契約営業マンになったのは財閥系の大手不動産会社の子会社だったが、いまでは親会社もろとも中国の投資会社に買収され、社員の半分が中国人、香港人、シンガポール人、中国系アメリカ人になった。外国人投資家は彼らが直接営業するから、私は日本人顧客の担当に変わった。

日本経済が大混乱に陥ったとき、バーゲンハンターとして登場したのは海外投資家だけではなかった。ほとんど知られていなかったが、金融危機以前に巨額の外貨資産を保有していた多数の日本人投資家がいたのだ。

ビデオ会議で上海の本社に営業報告をしてから、表参道に向かう。最初の顧客は、三十代前半の若者だった。

大学を中退してFXとパチスロで生活していた彼は、1ドル=100円から300円に通貨が下落する過程で、レバレッジをかけた巨額の外貨ポジションをつくり、30億円を超える利益を得た。その資金を元手に不動産投資を始め、いまでは渋谷や青山に数棟のビルを保有している。金融危機から3年で、日本の富裕層はほぼ全面的に入れ替わってしまった。

東京の夜を彩る中国語やハングル文字のネオンサイン

外苑前で2万円のビジネスランチを食べ、麻布十番の顧客を訪問する。50歳でリタイアし、マレーシアで海外移住生活を送っていたのだが、円安と地価の下落を見て、外貨資産を円に戻して日本に帰ってきた「海外Uターン族」だ。

彼ら新富裕層のおかげで、私は会社でトップ5に入る営業成績を維持できている。目標に到達できなければ問答無用で解雇されるが、成績次第で青天井の報酬が支払われる。私が以前勤めていた電機メーカーはインドの会社に買収され、「同一労働同一賃金」の原則のもと、いまでは日本人社員もインド人と同じ給料で働いている。

今日は早めに仕事を切り上げて、6時の特急電車で南アルプスの家に帰る。

金融危機とそれにつづくハイパーインフレで、私の実家も妻の実家も、祖父母が年金だけは生活できなくなった。そのうえ父と義理の父がリストラされ、路頭に迷ってしまった。それで田舎に3軒の家と農地を格安で購入し、一族が肩を寄せ合って暮らすようにしたのだ。同じようなケースはほかにも多く、日本は大家族制に戻りつつあった。

東京駅前には、赤ん坊を抱いた物乞いの女たちが集まっていた。その枯れ枝のような細い腕を掻き分けて改札を通り抜けると、5000円のビールとつまみを買ってあずさのグリーン席に乗り込む。平日は都心のワンルームマンションで単身赴任し、週末に家族の待つ田舎に戻る生活を始めて1年になる。

プルトップを引いて、冷たいビールを喉に流し込む。この週末は、失業した妻の弟が、いっしょに暮らせないかと相談に来ることになっている。娘の進学問題も頭が痛い。将来に不安がないわけではないが、泣き言はいえない。いまや一族の全員がわたしを頼っているのだ。



中国語やハングルやアラビア文字のネオンサインが、新宿の夜空をあやしく染めていた。青白い月を眺めながら、いつしか浅い眠りに落ちていた。



2013年7月29日月曜日

猟場の閉鎖

建築成った伽藍内の堂守や貸椅子係の職に就こうと考えるような人間は、すでにその瞬間から敗北者であると。それに反して、何人にあれ、その胸中に建造すべき伽藍を抱いている者は、すでに勝利者なのである。勝利は愛情の結実だ。……知能は愛情に奉仕する場合にだけ役立つのである。(サン=テグジュペリ『戦う操縦士』堀口大学訳

須賀敦子さんはこの文を引用して、次のように書いている、《自分が、いまも大聖堂を建てつづけているか、それとも中にちゃっかり坐りこんでいるか、いや、もっとひどいかも知れない。座ることに気をとられるあまり、席が空かないかきょろきょろしているのではないか。》と。(『遠い朝の本たち』)

おそらく多くの人はこのようなのだろうし、それは生活していく上では(食べていく上では)ある程度は止む得ないともいえる。

かつて仏国では、法科と医科の学生は、ここでいう「敗北者」たちであったと読める文をレヴィ=ストロースは書いているが、現在の日本ではどうだろう(もっとも晩年のレヴィ=ストロースが、体制のなかにちゃっかり座りこんでいなかったか、といえばそれも疑わしいーー参照「共感の共同体」)。

文科と自然科学の学生? 教員たち? 子供っぽい世界に留まりたいと願う連中、とレヴィ=ストロースは書いているが、これも現在どんな具合なのか知るところではない。彼らのなかに有能な専門家もいるには違いない。そして、《プロフェッショナルは絶対に必要だし、誰にでもなれるというほど簡単なものでもない。しかし、こうしたプロフェッショナルは、それが有効に機能した場合、共同体を安定させ変容の可能性を抑圧するという限界を持っている。》(蓮實重彦『闘争のエチカ』)であるだろう。

しかしながら、彼らのすべてが共同体の「体制主義者」であったり、隠れ体制派ばかりでもあるまい。
大学が近代において身分社会を補完し解毒する役割を果たしてきたことは事実である。しかし、学歴社会と大学の存在価値とは本来は別個である。大学とは変人、奇人をも含めて知識人を保護し、時にそこから人類更新の契機を生み出させる点で欠かせない場ではなかろうか。学歴社会が必ずしも大学を必要としないのは前近代中国を見ればよい。そして、まさかと思いたいのだが、学歴社会は生き残って、「知識人」は消滅に近づいたのではなかろうか。知識人のほうが弱い生き物で再生しにくいからである。(中井久夫「学園紛争とは何であったのか」『家族の深淵』1995所収)

…………
一九二八年頃には、様々な学科の一年目の学生は、二つの種類というより、ほとんど別個の二つの人種と言ってよいようなものに分けられた。一つは法科と医科の学生で、もう一つは文学と自然科学の学生である。

外向的と内向的という言葉は、およそ陳腐ではあるが、恐らく、この対照を表現するには最も適当であろう。一方には、「若者」(民俗学が伝統的に、この言葉を年齢階級の一つを指すのに用いているような意味での)、騒々しく無遠慮で、およそ最低と思われる俗悪さと手を握ってでも世の中を安全に渡ろうと心を砕き、政治的には極右(その時代の)を指向している「若者」。そしてもう一方には、今からもう老け込んでしまった青年たち、慎重で、引っ込み思案で、一般に「左傾」しており、彼らが成ろうと努めているあの大人たちの仲間に今から数えられるべく、苦行している青年たちがあった。

この差異を説明するのは、それほどむずかしいことではない。第一の、一定の職務を遂行する準備をしている青年たちは、学校というものもこれで終りであり、すでに社会の機能の体系の中で占めるべき地位を確保されていることに、彼らの言動によって凱歌をあげているのである。リセの生徒という未分化の状態と、彼らがそれに就くことを予定されている専門化した活動との中間の状況に置かれて、彼らは自分たちを欄外余白のようなものとして感じており、一方の条件にも他方の条件にも適合する、矛盾した特権を要求するのである。

文学や自然科学の学生にとってお極まりの捌け口、教職、研究、または何かはっきりしない職業などは、また別の性質のものである。これらの学科を選ぶ学生は、まだ子供っぽい世界に別れを告げていない。彼らはむしろ、そこに留まりたいと願っているのだ。教職は、大人になっても学校にいるための唯一の手段ではないか。文学や自然科学の学生は、彼らが集団の要求に対して向ける一種の拒絶によって特徴づけられる。ほとんど修道僧のような素振りで、彼らはしばらくのあいだ、あるいはもっと持続的に、学問という、移り過ぎて行く時からは独立した財産の保存と伝達に没頭するのである。(……)彼らに向かって、君たちもまた社会に参加しているのだと言ってきかせるくらい偽りなことはない。(……)彼らの参加とは、結局は、自分が責任を免除されたままで居続けるための特別の在り方の一つに過ぎない。この意味で、教育や研究は、何かの職業のための見習修業と混同されてはならない。隠遁であるか使命であるということは、教育や研究の栄光であり悲惨である。(レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』Ⅰ 川田順造訳 p77-79)


この二つのカテゴリーのひとたちが、たとえば「危機」の際、役立たずであったにしても、在野の「知識人」やら「芸術家」がいるではないか。

あたかもそれが内的な感受性の繊細さを証拠だてるものであるかのように、彼は外的な葛藤を内的な不幸としてしか体験していない。(……)芸術家を自称するもののほとんどは、痛みを内面化することこそが自分の役割だと思い込んでいる。その思い込みは、当然のことながら表層的な鈍感さで芸術家を保護することにもなるだろう。だから、芸術家とは、その内的な感性の鋭さ故に政治に背を向けるのではない。内的な繊細さが要求されてもいないときに外的な鈍感さを装う、きわめて政治的な存在なのである。それはほかでもない、制度的に深く政治に加担する存在だということだ。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)
顔をしかめて距離をとろうとする一群の人びとを排除するのではなく、彼らの否定的な反応をいわば必須の条件として成立する秩序(……)。知識人や芸術家たちの反応は決して思いもかけぬものではなく、そのとき口にされる言葉のおさまる文脈そのものが、きまって予測可能なものだからである。そして、その文脈の予測さるべき一貫性が、いわゆる大衆化現象と呼ぶべきものなのだ。

……それにきまって顔をしかめてみせる一部の知的=感性的な特権者たちの拒絶反応とによって支えられた政治的な秩序(……)。距離をとろうとする意識が口にさせる「紋切型」に無自覚な者たちをこれまで凡庸の一語で呼んできたが、○○は、まさしくそうした凡庸さをきわだたせる現象にほかならない。いささかの軽蔑をこめて顔をそむける知識人や芸術家の居心地の悪そうな表情そのものが、○○にはなくてはならぬ情景ですらあるわけだ。それが、あたりを埋めてくれる無表情な群衆とともに、この国家的な行事を活気づけてさえいるのである。(同上)


《……職業として芸術家になって行って、芸術家にも職人にもなるのでなくて芸能人になる。部分的にか全面的にか、とにかく人間にたいして人間的に責任を取るものとしてのコースを進んで、しかし部分的にも全面的にも責任をおわぬものとなって行く。ここの、今の、芸術家に取っても職人にとっても共通の、しかし芸術家に取って特に大きい共通の危険がある、この危険ななかで、芸術家が職人とともに彼自身を見失う。》(中野重治「芸術家の立場」)

ーーこう引用して、柄谷行人は次のようにかつて書いた。

こうした「芸能人」のなかに、中野はむろん学者や知識人をいれている。中野がこの「芸能人」という言葉が「何かの程度で何かをいいあてている」と書いたとき、彼はたしかに何かをいいあてていたといってよい。というのは、まさにこの時期「大衆社会」という言葉があらわれ、且つその言葉が「いいあてている」ような現象が出現していたからだ。

中野がこれを書いた1960年以降、芸術家あるいは知識人は失墜した。かといって、職人あるいは大衆が自立したわけではない。そのかわり知識人でも大衆でもないような大衆があらわれた。それは中野がいう「芸能人」に対応しているといってよい。べつの言葉でいえば、ハイ・カルチャアでもなくロー・カルチャアでもない、サブ・カルチュアが中心になって行った。むろん、それがもっと顕著になるのは八〇年代である。この時期、中野のいう「芸能人」にあたるものは、ニューアカデミズムと呼ばれている。学者であり且つタレントである、というより、正確にいえば、学者でもタレントでもない「きわめて厄介な」ヌエのような存在。しかし、これまでの「知」あるいは「知識人」の形態を打ち破るものであるかに見える、このニュー・アカデミズムはべつに「あたらしい」ものではない。それは近代の知を越える「暗黙知」や「身体技法」や「共通感覚」や「ニュー・サイエンス」を唱えるが、これらは旧来の反知性主義に新たな知的彩りを与えたものにすぎない。そして、彼らは新哲学者と同様に、典型的な知識人なのである。(……)

しかし、中野のいう「芸能人」は、べつに1950年代後半以降の新しい現象ではない。むしろ、芸術家や知識人は、それがあらわれたときすでに中野のいう「芸能人」のような存在だったというべきなのである。べつに芸術を実現しているわけでもないのに、「芸術家」と名乗る人たち。「知識」を追求しているわけでもなく、そのことを指摘されれば、実践が大切であり大衆に向わねばならないという人たち。そして、大衆から孤立しているが、その理由が大衆の支持を最も必要とするからにすぎないような人たち。こういう種族がもともと知識人や芸術家なのである。(柄谷行人「死語をめぐって」)

もちろん、そんな連中ばかりではない、という錯覚にわれわれは閉じこもる必要がある。それでなければ、危機の際、下り坂を転げ落ちるしかない。

現代には、ある種の諸力がみなぎっていることは確かである。それも莫大な量の力であるが、しかしそうした諸力は、野放しの衝動的な力であり、まったく荒々しい直情径行的な力なのである。人々は、まるで地獄の厨の釜をのぞき込むときのような怯えた目つきで、不安そうにそれらの力の動静をうかがっている。いつなんどき沸騰して、爆発し、恐るべき災厄を予告するかわからないからである。(……)

諸個人は、あたかも自分がそんな不安や懸念などまったく知らぬかのようにふるまっているけれども、そういう事実のせいでわれわれの眼がくらませられることはありえない。彼らの不安そうな落ち着きのなさを見ると、どれほど彼らもそのような懸念に影響されているかがよくわかる。彼らはこれまでいかなる時代にも見られなかったほどの性急さと、一種の排他主義で、私利私欲のことばかり気にしており、たとえば建築したり、作づけしたりする場合でも、それはもっぱら自分のためであって、また将来のことを念頭においてはおらず、目先のためでしかないのである。幸福という獲物を求める狩は、その獲物を今日か明日のうちに捕らえねばならぬとしたら、そういう場合ほど性急でせわしない狩となることはないだろう。というのも明後日に、猟場が閉鎖されてしまうと予告されているのだから。われわれが生きているのは原子の時代、原子のひしめく混沌の時代なのである。(『反時代的考察』――ドゥルーズ『ニーチェ』より 湯浅博雄訳)

ーーさて、いささか「偽善的」な引用から、以下は、「偽悪的」な語りに移調することにする。



あれら巷間に渦巻く「芸能人」的お喋りは、明日の猟場の閉鎖を観念しているせいじゃあるまいな?

「芸能人」とは、徹底した観客重視の態度を恥じない人物たちのことだぜ

受けねらいも生活するには大事だろうよ、人文学の危機の時代らしいからな

それとも単なる自己顕示欲の変形であり、虚しい社交的慰戯の一様態かい?


日本の情報ってのは、最近はツイッターぐらいでしか見ないのだけれど、人間観察にはいいねえ

新種の「人間園」って感じだな

一九世紀の動物園設立に先立って精神病院の見物が一八世紀都市住民の日曜日の楽しみであった(“人間園”)としても、これにも一つだけよい点、すなわち精神医療を公衆の目にさらすところがあり、精神病院をめぐる忌まわしい事件、とくに遺産横領のために相続人を病院に入れる事件は、むしろ一九世紀の特徴である。(中井久夫『分裂病と人類』)

最近の若い研究者が、いまだ大好きらしい、ドゥルーズやらデリダ、最近ではポール・ド・マンも復活らしいが、残念だな、同時代的な思想家がいなくて。


かつて三十代の浅田彰が同時代の思想家たちと軒並対談したわけだがーージジェク、サイード、ボードリヤール、バラード、ヴィリリオ、リオタール、フクヤマなど(対談集「歴史の終わり」と世紀末の世界』)、そんな試みは今はないのかね。相手がいないってわけかい? それとも目立たないだけで、だれかがどっかでやってるのかね

もっともこの対談は、「冷戦終結」という議題があった時期で、出版社による企画だったのかもしれないけれど。いまでも、議題がないわけでもないだろう、たとえばジジェクは四つ挙げている。

歴史的現実のなかに、この[コミュニズムの大文字の]〈概念〉を実践に写すよう強く働きかける敵対性の存在を位置づけなければならない。……

そのような敵性は四つある。①迫りくる環境破壊の狂気。②いわゆる「知的所有権」に関連した知的財産についての不適切な考え。③とりわけ遺伝子工学などの 新しい科学テクノロジーの発展にまつわる社会・倫理的な意味。……④新しい形態のアパルトヘイト=新しい〈壁〉とスラム。

最 後の特徴――〈包摂される者〉から〈排除される者〉を分けているギャップ――は、前の三つと質的に異なる。前の三つはハートとネグリが「コモンズ」と呼ぶ もの、社会的存在であるわれわれが共有すべき実体の別の側面を表したものだ。これを私有化することは暴力行為に等しく、いざとなればやはり暴力をもってし てでも抵抗しなければならない。(スラヴォイ・ジジェク 『ポストモダンの共産主義』

このなかでの、とくに「新しい形態のアパルトヘイト=新しい〈壁〉とスラム」ってのは、いやでも目に付くわけでね。


ーー浅田彰はそれぞれの専門分野の人たちから微細な批判はあるにしろ、やっぱり特別な才能だった(過去形でいうのはマズイのかもね)ということで諦めているわけでもあるまい?

対談でも言ったことだが、わたしの眼に浅田 彰氏は、「知のフットボール」の世界選手権に参加して戦う日本チームの布陣において、さしずめ攻撃的ミッドフィールダーすなわち司令塔と映っている。相手方のパスを遮断して自分のものにしたボールを、すばやくジグザグにドリブルし、一人、二人、三人と抜き去って、いきなり鋭く長いパスを出す。このパスがなかなか一筋縄で行くような代物ではない。俊足をもって鳴るフォワードの面々も、まずたいていのところは追いつけず、シュートの機会を空しく逃してしまう。浅田氏は無表情のまままた新たにボールを追いはじめるが、なぜあれに追いつけないのか、あれに追いつけないかぎりシュートの機会など永遠にめぐってくるまいと、内心ではチッと舌打ちしているに違いない。一方、フォワードはフォワードで、いきなりあんなところに蹴り出されても困る、そもそも俺たちを非難する前に、やれるものなら自分でシュートを決めてみたらどうなんだという憤懣を抱く者もいないではない。

ここ二十年来の日本の知的空間には、自分ならばもっと巧くゲームを組み立てられると慢心した小ミッドフィールダーたちが数多く輩出したが、刻々移り変わる知の現況を浅田氏ほど的確に把握し、ボールと複数の身体の絡み合いを彼ほど華麗に演出しうる者は結局出ていないように思う。もしシュートが決まるとすればそれはこのパスを誰かが拾ってくれることによって以外にないといった、ぎりぎりの地点にボールを出しつづける彼のわざを継承する人材はわれらのチームに育っていないのだ。それにしても浅田氏も五十歳に近づいていることを考えれば、これは由々しい問題ではないか。練習の積み重ねでシュートの精度は高まるだろうし、ドリブルの小技も上達するだろう。だが、絶えず動きつづけるゲームの全体を把握する動体視力だの、ここぞという一瞬を狙い澄まして賭けに出る大胆さだのは、糞真面目に自己鍛錬してどうにかなるようなものではない。

四方田犬彦や伊藤俊治と雑誌『GS』を始めたとき、浅田氏はまだ二十七歳くらいだったはずである。「ニューアカ」などと蔑称される二十年前の知的風土は、なるほど軽薄と言えば軽薄、卑俗と言えば卑俗であったが、しかしそこには少なくとも、大学をもジャーナリズムをも巻き込んで制度に幾つもの風穴を開け、そこから新鮮な風を呼び入れようという勢いだけはあった。手堅い研究発表で業績を稼ぎいい子、いい子と褒められたいなどとは彼らの誰も思っておらず、ただ華麗なゲームを組み立てて満場の観客を唸らせたいという野心にのみ突き動かされ、ときにいかがわしい香具師や曲芸師を演じることも恐れずに、とにかくフィールドの端から端まで度胸よく、全力疾走しつづけていたのである。

浅田 彰の衣鉢を継ぐ攻撃的ミッドフィールダーが若い世代から出てくるべきだと思う。むろん、往時と今では様々な条件が異なっていることはわかっている。これまでにないような陰鬱な閉塞状況があたりを覆い尽くしているのに、それを閉塞とも逼塞とも感じさせない巧緻な力学が働いて、若い世代を萎縮させている。社会は大学に目先の有用性のみ求め、人文科学は徹底的に馬鹿にされている。浅田氏自身誰も拾ってくれないパスを出しつづけることにいささか倦んで、後退戦に入りかけているようにも見える。だが、だからこそ、である。こんな時代だからこそ、的確な状況認識と気宇壮大なヴィジョンを併せ持った知的リーダーが二十代、三十代の若い知識人の間から出現しなければならない。

対談で浅田氏は、翌日に予定された研究発表パネルの要旨を見るかぎり、既成のパラダイムの中で動いているにすぎないという印象を否めない、という趣旨の発言をされたが、これもまた彼の出した攻撃的なパスの一つなのではあろう(「攻撃的」というのは敵に対してのみならず、味方に対してもということだ)。ただ、このボールを受けてくれる味方のプレーヤーは誰もいまい、いるはずがあるまいという諦念とともに蹴り出された、やや自棄的なパスのようにわたしには感じられた。

現在の若手研究者の思考を拘束するほどの強力なパラダイムが、今日あるのかどうかは甚だ疑問である。かつては駒場の「映画論」の授業でレポートを書かせると、蓮實重彦氏の文章の拙劣な模倣が続出して辟易したものだが、今では「映画の表層と戯れる」といった類の論文はすっかり払底してしまい、それが良いことか悪いことかは軽々には断定できない。わたしに迫ってくる印象はむしろ、もはやパラダイムは崩壊したというものだ。かつてのパラダイムが機能不全に陥る一方、新たなパラダイムは誰も提起できずにおり、その結果、とりあえず「良心的」アカデミズムの中で当たり障りなく事態を収拾しようとする微温的な空気が支配的になっているようにも感じられる。それは日本のみならず世界的な現象でもある。この停滞状況にいささかの活力を吹き込むために、「表象文化論学会」にいったい何ができるだろうか。(対談:浅田 彰(京都大学) + 松浦寿輝(東京大学)「人文知の現在」

ーーということで、「何ができるだろうか」と言いっ放しで、諦めたせいでもあるまいが、松浦寿輝は東大早期退職しちゃったけど

ジジェクやバティウは古すぎるのか過激すぎるのか、ひょっとして訓詁学に専念していて同時代的すぎるのか、あるいはコミュニズムを敬遠しているのかはしらないが、ナンシーやらアガンベン、ダマシオ、デュピュイやら(古い名前しかあがってこない「知識」しか持ち合わせていないが)、あるいはメイヤスーやマラブーが何を言っているのか知らないけれど、この比較的新しい名の人物だっていい、彼らと対談してみようとする日本の「優秀な」研究者ってのはいないのかね。

メイヤスーは確かに興味深い哲学者だが、彼自身がまだ1冊しか本を出していない段階で英語のメイヤスー論の単著(Graham Harman,”Quentin Meillassoux: Philosophy in the Making”)まで出るという状況は異常だろう。フーコーやデリダの時代に英米の大学で「フレンチ・セオリー」が流行した、ところが巨匠たちがどんどん去っていくなか、残ったバディウが異常に有名になり(他方、フランスでも遅まきながらスラヴォイ・ジジェクの影響が強まって、その線でバディウが浮上しもした)、その弟子も英米の学者たちが先物買いでもてはやしてるという感じではないか。(浅田彰「メイヤスーによるマラルメ」

訓詁学も専門家のみなさんには必要なのだろう、それに、《彼奴高慢な顔をして、出来も仕無い癖にエラがって居る、一つ苦しめて遣れ》って振舞いは最近は得意らしき研究者もいるし、尊重しなければならないがね

或る一人が他の一人を窘めようと思って、非常に字引を調べて――勿論平常から字引をよく調べる男でしたが、文字の成立まで調べて置いて、そして敵が講じ了るのを待ち兼ねて、難問の箭を放ちました。何様も十分調べて置いてシツッコク文字論をするので講者は大に窘められたのでしたが、余り窘められたのでやがて昂然として難者に対って、「僕は読書ただ其の大略を領すれば足りるので、句読訓詁の事などはどうでもよいと思って居る」など互に鎬を削ったものである。(幸田露伴「学生時代」



ところで、きみたちの「大好きな」ドゥルーズは「議論」と聞けば、逃げ出したらしいぜ

It took me some time to learn this, but I think that I truly became a philosopher when I understood that there is no dialogue in philosophy. Platos dialogues, for example, are clearly fake dialogues in which one guy is talking most of the time and the other guy is mostly saying ‘yes, I see, yes my God it is like you said — Socrates, my God that’s how it is’. I fully sympathise with Deleuze who said somewhere that the moment a true philosopher hears a phrase like ‘let’s discuss this point’, his response is ‘let’s leave as soon as possible; let’s run away!’ Show me one dialogue which really worked. There are none!”
―――Slavoj Žižek in Conversations with Žižek

まあ、なんでもいいが、きみたちの好きな思想家なり文学者なりが、SNSなどで、すこし調べたら済むような紹介やら、内輪で論文の褒め合いやら、夜郎自大の承認欲求の劇を演じるものかどうか、たまには振り返ってみたらどうだい? きみたちの振舞いが彼らにどう映るのか、と。

真に偉大な哲学者を前に問われるべきは、この哲学者が何をまだ教えてくれるのか、彼の哲学にどのような意味があるかではなく、逆に、われわれのいる現状がその哲学者の目にはどう映るか、この時代が彼の思想にはどう見えるか、なのである。(ジジェク『ポストモダンの共産主義  はじめは悲劇として、二度めは笑劇として』)

そうだな、紹介しあうのも、新蛸壺社会が進化しているのだったら、あながち無駄とはいわないけれどね、--《「紹介書評」は初歩的書評のようであるが、人々が日々関心を持つ世界が狭くなり、「新タテ社会」といおうか、多数の書が出版されつづける現在では非常に有用である。》(中井久夫ーー「ただちに理解されれば己の限界を悟って静かに退く」より)

…………

人は何かを変えるために行動するだけでなく、何かが起きるのを阻止するために、つまり何ひとつ変わらないようにするために、行動することもある。現実界的(リアル)なことが起きるのを阻止するために、彼は狂ったように能動的になる。たとえばある集団の内部でなんらかの緊張が爆発しそうなとき、強迫神経症者はひっきりなしにしゃべる。(ジジェク『ラカンはこう読め!』


これを似非能動性とジジェクは呼んでいるのだが、どうせ能動的になるなら、次の「能動性」にしろよな。

能動的に思考すること、それは、「非現働的な仕方で、したがって時代に抗して、またまさにそのことによって時代に対して、来るべき時代(私はそれを願っているが)のために活動することである」。(ドゥルーズ『ニーチェと哲学』江川隆男訳)
知識人の仕事は、ある意味でまさに、現在を、ないこともありえたものとして、あるいは、現にあるとおりではないこともありえたものとして立ち現れさせながら語ることです。それゆえにこそ、現実的なもののこうした指示や記述は、「これがあるのだから、それはあるだろう」という形の教示の価値をけっして持たないのです。また、やはりそれゆえにこそ、歴史への依拠――少なくともここ二十年ほどの間のフランスにおける哲学的思考の重大な事実の一つ――が意味を持つのは、今日そのようにあることがいつもそうだったわけではないことを示すことを歴史が役割としてもつかぎりにおいて、つまり、諸事物が私たちにそれらがもっとも明白なのだという印象を与えるのは、つねに、出会いと偶然との合流点において、脆く不安定な歴史の流れに沿ってなのだということを示すことを歴史が役割として持つ限りにおいてなのです。(「構造主義とポスト構造主義」『ミシェル・フーコー思考集成 Ⅸ 1982-83 自己/統治性/快楽』黒田昭信訳)


強迫神経症者なんて、いまはめったにいないのかね

ラカン派によれば、二十世紀の「神経症」の時代から、二一世紀の「ふつうの精神病」やら「ふうつの倒錯」の時代らしいからな

ひょっとして、きみたちは新種のパラノイアじゃないかい? 

あるいは旧式の執着気質者として復活したのかね、小破局の再建者として。


かりに執着性格者のみからなる社会を想定してみるがよい。その社会が息づまるものであるか否かは受け取る個人次第で差があるだろうが、彼らの大問題の不認識、とくに木村のpost festum(事後=あとの祭)的な構えのゆえに、思わぬ破局に足を踏み入れてなお気づかず、彼らには得意の小破局の再建を「七転び八起き」と反復することはできるとしても、「大破局は目に見えない」という奇妙な盲点を彼らが持ちつづけることに変わりはない。そこで積極的な者ほど、盲目的な勤勉努力の果てに「レミング的悲劇」を起すおそれがあるーーこの小動物は時に、先の者の尾に盲目的に従って大群となって前進し、海に溺れてなお気づかぬという。(中井久夫『分裂病と人類』)

どこの海に溺れたいのかい?

戦争の海だけはやめとけよな

それとも隠れ戦争主義者ってわけかい?

こうやってウェブにお世話になってるわけだからな、きみたちもこのオレも

つまりアメリカの国防総省のエリートたちが軍事費で作り出したインターネットのおかげで

自在な夜郎自大を誇ることができるってわけさ


※追記:中井久夫は「執筆過程の生理学」という小論(『家族の深淵』所収)にて、下記のように書いている。編集者の役割、あるいは能力の衰退がいわれる中で、書き手たちのSNS上でのやり取りが、このような呟き合いであるならば、あながちつねに非難されるものでもないとしておこう(この論で、中井久夫が「自由連想」、「抵抗」あるいは「徹底操作」という語彙を使用しているのは、もちろんフロイトの『想起、反復、徹底操作』からのものである)。

ある程度本格的な企画の場合に、初期高揚だけで完成することは決してと言ってよいほどない。しかし、この時期に「パレット」をできるだけ充実させておくことがずっと後で生きてくる。「パレット」の充実には、聞き手がいるとずっと楽である。独りでは限界がある。ここにも一つ、編集者の「治療」の有用性がある。

これは、「自由連想」をさせて、「抵抗」を破って、「徹底操作」をして「洞察」に到達せしめる精神分析治療に似た過程であると私は思う。「自由連想」とは編集者との駄べりである。

「自由連想」は、主題やキーワードの持つ意外な側面を明らかにし、新しい可能性を開く。著作というものは、発端に立った時に終点まで見通せる直線道路のようなものではない。そういうものであれば、おおよそ詰まらないものだろう、予期外の転回に引かれて読者は読み進むものである。「自由連想」によってこれから書く領域の思わぬ複雑なひだひだが見えてくれば成功である。

「抵抗」にはいろいろある。怖い批評家の言葉の先取りもある。従来の自説が足を引っ張ることもある。ある箇所がとうてい越せない難所に見えることもある。ある部分についての知識が絶望的に欠如していると思うこともある。これらは、みな「抵抗」である。しかし、対話のうちに、難所もさしたるものでないようにみえてくる。ある部分は回避してもよいことがわかる。あるいは違った接近法がよいと知れる。このように「抵抗」を言語化し吟味することが「徹底操作」である。そうすると、この課題でこのようなものなら著者にもできるという、「現実原則」に則った「洞察」が生まれる。この手続きなしで、編集者が「ま、よろしくお願いします」で引き下るとロクなものができない。

編集者は地方にはいないが、その代わり、さいわい、私は大学教師で、周囲に若い人がいる立場にあるので彼らを大いに利用させてもらっている。私のほうが聞き役になることもむろんある。