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2011年1月29日土曜日

現代の「強迫神経症者」たち

ラカンの弟子のひとりであるオクターヴ・マノーニに「よくわかっているが、それでも……」という古典的論文があって、「<現実界>の応答」の論理を分析している。まずその論へのジジェクの解説を引用してみる。

<現実界>への応答のほとんどの人の典型的態度は、たとえば「生態危機」というリアルに対してであれば、《「(事態はきわめて深刻であり、自分たちの生存そのものがかかっているのだということを)よく知っているが、それでも……(心からそれを信じているわけではない。それを私の象徴的宇宙に組み込む心構えはできていない。だから私は、生態危機が私の日常生活に永続的な影響を及ぼさないかのように振る舞いつづけるつもりだ)」という有名な否認そのままである》(ジジェク)。

次に、<生態危機>を<財政破綻>に読み替えて、ジジェクの論を自由間接話法で語ってみよう。
<財政破綻>を本当に深刻に受け止めている人たちの典型的な反応は―――リピドー経済の次元では―――強迫的なのである。強迫神経症者のリピドー経済の核はどこにあるのか。強迫神経症者は狂的な活動に加わり、年じゅう熱に浮かれされたように働き続ける。なぜか。自分が活動をやめてしまったら何か大変なことが起きるに違いない、と考えるからである。
 
ここでジジェクによる「倒錯」、「ヒステリー」「強迫神経症」の簡略な説明をあげておく。
倒錯を特徴づけているのは問いの欠如である。倒錯者は、自分の行動は他者の享楽に役立っているという直接的な確信を抱いている。ヒステリーとその「方言」である強迫神経症とでは、主体が自分の存在を正当化するその方法が異なる。ヒステリー症者は自分を<他者>に、その愛の対象として差し出す。強迫神経症者は熱心な活動によって<他者>の要求を満足させようとする。したがって、ヒステリー症者の答えは愛であり、強迫神経症者のそれは労働である。(『斜めから見る』)

あるいは強迫神経症者の典型的な戦略である偽りの行動(false activity)様式。
人は何かを変えるために行動するだけでなく、何かが起きるのを阻止するために、つまり何ひとつ変わらないようにするために、行動することもある。現実界的(リアル)なことが起きるのを阻止するために、彼は狂ったように能動的になる。たとえばある集団の内部でなんらかの緊張が爆発しそうなとき、強迫神経症者はひっきりなしにしゃべる。(『ラカンはこう読め!』)

すなわち、リアルな現実を見ないふりをするため、あるいは核心を突く発言者を黙らせておくためにしゃべり続ける。《人びとは何にでも口を出し、「何かをする」ことに努め、学者たちは無意味な討論に参加する。本当に難しいのは一歩下がって身を引くことである。

ジジェクはこのような「何にでも口に出す」態度を、似非能動性と呼んでいる。そして、
このような状態に対する、真の批判の一歩は、受動性の中に引き篭もり、参加を拒否することだ。この最初の一歩が、真の能動性への、すなわち状況の座標を実際に変化させる行為への道を切り開く》、と。


2011年初頭の段階で、多くの人びとが何を見ないふりをしているかは明らかだ。そして無駄話にうつつを抜かしている人びとの「熱心さ」は、まさに「強迫的」である。

ブレヒトはこのように書いている。
「私は、たとえば、ほんの少量の政治とともに生きたいのだ。その意味は、私は政治の主体でありたいとはのぞまない、ということだ。ただし、多量の政治の客体ないし対象でありたいという意味ではない。ところが、政治の客体であるか主体であるか、そのどちらかでないわけにはいかない。ほかの選択法はない。そのどちらでもないとか、あるいは両者まとめてどちらでもあるなどということは、問題外だ。それゆえ私が政治にかかわるということは避けられないらしいのだが、しかも、どこまでかかわるというその量を決める権利すら、私にはない。そうだとすれば、私の生活全体が政治に捧げられなければならないという可能性も十分にある。それどころか、政治のいけにえにされるべきだという可能性さえ、十分にあるのだ。」(『政治・社会論集』)

日本の財政状態をみないふりをし続けるのは、もう限界だ(などということも何年も前から言い続けられているわけだが)。「規制」「教育」「コミュニケーション」などを語るのが全くの無駄だとはいうまい。だが、「政治」、すなわち、消費税、年金受給年齢、あるいはベーシック・インカム導入の可能性……。<あなたたち>には関係ない話しかね?

今、政治の「客体」のままでい続けるわけにはいかないはずなのだが。―――ということを言えるのは、私が海外住まいで税や年金がどうなろうと関係ないせいなのかもしれない……