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2013年12月23日月曜日

ラカン派の「<男>は存在しない」

「〈女性〉は存在しない」という命題を受け入れるなら、スラヴォイ・ジジェクが言うように、男性の定義は次のようなものになる――男性とは「自分が存在すると信じている女性である」。( アレンカ・ジュパンチッチ『リアルの倫理―カントとラカン』

実際、<女>は存在しないなら、<男>だって存在しない。《The Woman does not exist, neither does The Man.》(NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL(Paul Verhaeghe)

表題の《<男>は存在しない》は、はいささか惹句めいてはいるが、実のところ、当たり前のことなのだ。かつて象徴界のシニフィアン(あるいは「表象Vorstellung」)としての<男>は存在したかもしれない。

だが神が死んだあと、どうして<男>も死なないでいられよう

もっとも新種の<男>たちはいるかもしれない。

実のところ、ニーチェが大いに嘲笑を浴びせているフェミニストの女たちは男性なのだ。フェミニズムとは、女が男に、独断的な哲学者に似ようとする操作であり、それによって、女は真理を、科学を、客観性を要求する、即ち、男性的幻想のすべてをこめて、そこに結びつく去勢の効力を要求するのである。(デリダ『尖筆とエクリチュール』)

なんだって? 奇妙な主張だと? では日本の紳士的なラカン派ならこういうぜ

ヒステリーは例外的な位置を占め、自らいかなるシニフィアンによっても決定されない不確定性に固執し、 それを強い自我となすのである。

ラカンの『主体の転覆』 のテクストにはこうある―― 「神経症者では (-Φ) はファンタスムの下に潜り込み、 自我に特有なイマジネーションを助長する。 なぜなら、神経症者はイマジネールな去勢を最初から被っており、それが彼の強い自我を支持しているのだ。この自我はあまりにも強いので、自分の固有名さえじゃまとなり、結局、神経症者とは名無しなのである」 。

ラカンのこのマテームは、そもそも男女の性別化を示す二つのマテームの内の男性を表わすものである。したがって、ヒステリーは女性であっても男性であっても、男性の論理のもとに行動するわけである。これはフロイトのエディプスの論理に相当するものであるから、結局、フロイトは男性の論理しか展開しなかったということになる。(向井雅明「ヒステリーの、ヒステリーのための、ヒステリーによる精神分析」――東京精神分析サークル


もっとも、「自分が存在すると信じている女性」である男たちなら別だが。それはすなわち「<男>の死」をひたすら隠蔽せんとする無意識の仕草なのだ。

人は、新たな思想家の登場に立ちあるごとに、その思想家の思想を一つの疑問符として想定し、その疑問を正しいコンテキストの中に据えてこれを把握しようとする仕草に馴れ親しんでいる。だが、巨大なる疑問符が消滅した以後の白々とした地平には、もはや疑問符が疑問符たりうる条件は残されていないのだから、それが不毛な試みであることは自明の理でありながら、あえて不可能と戯れようとする意図からではなく、ただ驚くほかはない楽天的な姿勢で、新たな思想家の思想を解明しようと躍起になる。それが、「神の死」を徹底した虚構だといいはる人びとによって遂行されるのであればまだ救われもしようが、「神の死」はおろか、「不条理」を、フーコーの「人間の死滅」を当然のこととしてうけ入れている人びとの口からもれてくるもっともらしい言葉であったりすると、それこそ絶句するほかはない。なぜならそれは、「神の死」を無造作に口にしながら、しかも「神の死」をひたすら隠蔽せんとする無意識の仕草にほかならないからである。そんな仕草があたりにまき起こすものはといえば、疑問符の消滅を前にする存在が捉えられる失語症をめぐって、その徹底した絶句だけをこれまた徹底した饒舌によって註釈している無自覚な言葉の崩壊である。(蓮實重彦「ある途方もなく大きな疑問符の消滅」)

《父の機能を基礎づけるのは父親殺しだと主張さえしてフロイトが父なるものを守っているように、無神論の真の公式は「神は死んだ」ではなく、「神は無意識的である」である。》(ラカン『セミネールⅩⅠ』)ってのはなんだ? 違ったコンテクストで語っているだって? 別なふうに読んだっていいだろ?


――いやいや、そんなふうに断言はすまい。

象徴界の<男>が死んだら、現実界の<父=男>が現われる。

今日の世界が「<エディプス>の斜陽」(父性的な象徴権威の弱体化)の時代であると叫ばれるとき、その批判の内実が何を指しているのかを問えば、答えはまさに、「全体主義」国家の政治的<指導者>像から、自分の娘へのセクシャル・ハラスメントに手を汚す父親像まで、「原初の父」の論理に従って機能する人物像への回帰現象となるのである――それは、なぜか?「穏やかな顔」を覗かせる象徴の権威が機能不全に陥ってしまったとき、先細りする欲望が中途で頓挫する事態を回避する、つまり、本性的な欲望の不可能性を隠蔽する唯一の方法として残されているのは、欲望が達成できない根本原因を、原初の享楽者を意味する専制的な人物像に特定することなのだ。われわれが愉しむことができないのは、あの男が享楽の一切合切を独り占めしてしまうからに他ならないから、と……。(ジジェク『厄介なる主体』)

「原初の父」の復活、とはこれだけ読めばいささか奇妙である、「父なき時代」であるはずなのに。だが「原初の父」とは「享楽の父」(すべての女を独占する原父)であり、「エディプス」とか、「父の名」、「自我理想」などが語られるとき、それは「父性的な象徴権威」(象徴界の表象)なのだ。

「原初の父」「享楽の父」は<現実界>に属し、それは猥雑な「母なる超自我」Maternal Superegoでもある。

すなわち、リアルな<男>が存在するなら、リアルな<女>も存在する。

リアルな(現実界的)超自我の側面(「享楽の父」、あるいは「母なる超自我」)をめぐって、ジャック・アラン=ミレールは次のように語っている。([PDF]The Archaic Maternal Superego-Leonardo S. Rodriguez - Jcfar.org

“The superego as senseless law is very close to the desire of the mother before that desire becomes metaphorised, and even dominated, by the name-of-the-father. The superego is close to the desire of the mother as a capricious whim without law.”

ようするに、「享楽の父」やら「母なる超自我」とは、欲望が隠喩化(象徴化)される前の「父」の欲望の体現者なのであり、そこにあるのは、猥雑な、獰猛な、限度を弁えない、言語とは異質の、そしてNom-du-Père(父の名)を与り知らない超自我であり、無法の勝手気ままな「母」の欲望と近似する。そして「父なき世代」とは、この「享楽の父」やら「母なる超自我」の至上命令が席巻する時代ということだ。

そこでは権威ではなく力が支配する。プレエディプス期の「全能の母」というのは力のことだ。われわれはつい先日猥雑な国会運営をみたばかりだ。

《わかった? だめ? 説明するのは確かに難しい…演出する方がいい…その動きをつかむには、確かに特殊な知覚が必要だ…審美的葉脈…自由の目…》(ソレルス)

そもそもジジェクのいう「享楽の父」なんて嘘っぱちだ、「享楽の母」だよ、いるのは。父権制社会がおわったら、母なるオルギアの世界さ、どこもかしこも母性の距離のない狂宴だぜ

まあなんでもいい、マジで書いてるわけじゃないかもしれないからな、クリスマス前のちょっとした息抜きさ、それに日本の企業やら日本株式会社だったら、けったいな父権制が生き残っているかもな、あのあぶくたちめ

世界は女たちのものだ、いるのは女たちだけ、しかも彼女たちはずっと前からそれを知っていて、それを知らないとも言える、彼女たちにはほんとうにそれを知ることなどできはしない、彼女たちはそれを感じ、それを予感する、こいつはそんな風に組織されるのだ。男たちは? あぶく、偽の指導者たち、偽の僧侶たち、似たり寄ったりの思想家たち、虫けらども …一杯食わされた管理者たち …筋骨たくましいのは見かけ倒しで、エネルギーは代用され、委任される …(ソレルス『女たち』)


…………


古典的な「<女>は存在しない」の説明を付記しておこう。
ミレール -「女La femmeは存在しない」という取り扱いに注意を必要とするラカンのこの公式を、ピロポを利用して皆さんに紹介しました。存在するのは女達les femmes、一人の女そしてもう一人の女そしてまたもう一人の女...です。たしかにこれは難しいことです。ラカンはこのことをイタリアで説明したところ、次の日の新聞に『ラカン、女は存在しない、と言う』と大きいタイトルで出ました。

 これについては、それ自体かなり不可思議なピロペアーダというこの女を取りあげてみなさんに示唆するにとどめておきます。男については「すべての男を一つにまとめる」ことができるが、女についてはそれができない、と言えるでしょう。本来ならば、性に関する、そして男性のセクシュアリティと女性のセクシュアリティに関するフロイトの理論の長い説明が必要なところです。

フロイトの理論によると、両性の準拠となるシニフィアンは一つだけしかありません。ファルスがそうです。女性のシニフィアンが無いという考えは女性解放論者達を大変苛立たせました。しかしながら彼女達が、男が現実上このシニフィアンに対応するものを持っているということは男にとって有利なことだ、と考えるのは間違っています。ラカンの目には-これは確かに現実だと思えますが-それはむしろ困惑のもとなのです。それによって男は女よりもはるかに義務、そして超自我の奴隷としてしばられています。女は常に神秘であった、とフロイトは書いています。そして次のように加えます。「私は、女性は男性と同じ超自我を持っていない、そして彼女達は男よりもこの点ずっと自由で、男の行動、活動に見られるような限界が無い、という印象を持っている。」

 女性解放主義者達のように、フロイトが女性に反対だった、と考えてはなりません。彼にとってこれは単に一つの事実なのです。大切なのはこの事実から、例えばいかに男はグループ、団体を作る傾向にあるか、首長になりたがるか、などなど、そして女には間違いなくこのような男性的習慣を越えた次元があるというのを説明することです。

このことは、例えば、具体的にいうとどこに現れているのでしょう。それは男と女の享楽について我々が昔から知っていたことです。男において、享楽は限定されています。そして女から受ける印象ではこの享楽は無限に思えます-これについては女性から直接聞きだせるというものではありません。なぜなら女性はそのことについてむしろ沈黙を守るほうですから-。男はそれでも女性の享楽の無限性に引きつけられてきました。

ティレジアスの神話を御存知ですか。彼は女性の享楽がどんなものか知りたく、ゼウスから女になることを許されたのです。ティレジアスの性転換です。彼が男に戻った時にこう言います-世の中に享楽が十あるとすると、九つは女のもので一つだけが男のものだ。ここでは簡単に触れることしかできませんが、それはこういう考えなのです-男が一つのものとすると、女は常に他(Autre)のものである。フロイトが超自我の欠けた存在である女について言っていることに関して例えばピロポが教えてくれるものによると、女性はまさに超自我的な他者(Autre)の場所を占めるものなのです。現実に女は結構上手にそこに腰を据えてようですが...また財布の紐はしばしば奥さん方がにぎっています。フランス語ではよく俗に妻をかみさんbourgeoise[お金を持っているブルジョアから来ている]と呼びますが、彼女はピロポのにおけるものと同じ位置を占めているわけです。

 女は存在しない。われわれはまさにこのことについて夢見るのです。女はシニフィアンの水準では見いだせないからこそ我々は女について幻想をし、女の絵を画き、賛美し、写真を取って複製し、その本質を探ろうとすることをやめないのです。いずれにせよ女性という存在についてそれに本質などあるかどうかは、普遍的愚行connerie universelle-愚行には常に一片の真理が含まれています-によって疑問とされることですが。

 このことは女性の価値を低めるものと見なされるかもしれません。しかし別の観点からすると、本質を持たないことは荷が軽いことにもなります。おそらくこれこそ女性を男性よりもはるかに興味深いものにするのでしょう。(ジャック=アラン・ミレール『エル・ピロポ』)

ジョゼフ・マンキエヴィッツの古典的ハリウッド流メロドラマ『三人の妻への手紙』……失踪する婦人は、スクリーンには一度も登場しないのだが、ミシェル・シオンの言う<幻の声>として、つねにそこにいる。画面の外から聞こえる、小さな町に住む宿命の女、アッティー・ロスの声が、ストーリーを語る。彼女は、日曜日に河下りをしている三人の妻のもとに一通の手紙が届くように手配した。その手紙には、ちょうどその日、彼女たちが町にいない間に、彼女たちの夫の一人と駆け落ちするつもりだと、書かれている。旅を続けながら、女たちはそれぞれ自分の結婚生活の問題点をフラッシュバックで回想する。三人とも、アッティーが駆け落ちの相手として選んだのは自分の夫ではないか、という不安に駆られる。なぜなら彼女たちにとって、アッティーは理想的な女性である、妻には欠けた「何か」をもった洗練された女性であり、結婚そのものが色褪せて見えてしまうくらいなのだ。第一の妻は看護婦で、教養のない単純な女性で、病院で出会った裕福な男と結婚している。二番目の妻は、いささか下品だが、ばりばり仕事をする女性で、大学教授であり作家である夫よりもはるかに稼ぎがいい。三番目の妻は、たんに金目当てに裕福な商人と愛のない結婚をして労働者階級から成り上がった女である。素朴なふつうの女、仕事ができる活発な女、狡猾な成り上がり女、三人とも妻の座におさまりきらず、結婚生活のどこかに支障をきたしている。三人のいずれにとっても、アッティー・ロスは「もう一人の女the Other Woman」に見える。経験豊富で、女らしい細やかな気配りがあり、経済的にも独立している、と。(……)

アッティーは三番目の女の夫である裕福な商人と駆け落ちするつもりだったのだが、彼は土壇場になって気が変わり、家に帰り、妻にすべてを打ち明ける。彼女は離婚して相当な慰謝料をもらうこともできたのだが、そうはせずに夫を許し、自分が夫を愛していることに気づく。かくして最後に三組の夫婦が一同に会する。彼らの結婚生活を脅かしているように見えた危険は去った。しかし、この映画の教訓は、第一印象よりもいささか複雑である。このハッピーエンドはけっして純粋なハッピーエンドではない。そこには一種の諦めがある。いっしょに暮している女は<女>ではない、結婚生活の平和はつねに脅かされている、つまり、結婚生活に欠けているように思われるものを体現した別の女がいつ何時あらわれるかもしれない……。ハッピーエンド、すなわち夫が妻のもとに戻ることを可能にしているのは、まさしく、<もう一人の女>は「存在しない」のだ、彼女は究極的にはわれわれと女性との関係の隙間を埋める幻の存在にすぎないのだ、という経験的知である。いいかえれば、妻との間にしかハッピーエンドはありえないのだ。もし主人公が<もう一人の女>を選んだとしたら(もちろんその典型的な例はフィルム・ノワールにおける宿命の女だ)、その選択によって彼はかならずや無残な状況に陥り、命を落とすことすらある。ここにあるのは近親相姦の禁止、すなわちそれ自体すでに不可能なものの禁止、というパラドックスと同じパラドックスである。<もう一人の女>は「存在しない」からこそ禁じられる。<もう一人の女>が恐ろしく危険なのは、幻の女と、たまたまその幻の位置を占めることになった「経験的な」女とは、結局のところ一致しないからである。(ジジェク『斜めから見る』p157-158)


2013年12月22日日曜日

備忘:デリダとフーコーの対象a

前投稿(ラカン派における「主体と大他者の欠如」、あるいは「疎外と分離」の覚書)に附記しようと思ったが、長すぎて割愛した箇所。


◆エリック・ローランの『疎外と分離』より。

…………


……一つの重大な争点はデリダとフーコーの対立です.デリダとフーコーの著作に詳しい方々も多いかと思いますが,その議論の概略を手短にお話して,ラカンがその議論をどう見ていたのか,そしてフーコーとデリダがラカンにどれだけ負うているのかを示そうと思います.

デリダは主体が疎外の過程を通して定義されるという事実を際立たせます.しかし,フーコーは人間の語る言葉のより深い意味は,享楽の実践(pratique de jouissance),つまりどのように享楽を得るのかという実践に関係しているということを強調しています.

デリダにとっては,つねに散種(dissemination)がありえます.つまり,つねに別の意味を見つけることができるわけです.新しいシニフィアンは連鎖のなかで新しい発展を作ることが可能であり,その結果,主体はつねに空虚や空の場所として考えられています.フーコーはデリダを形而上学的であり非決定論の立場を受け入れていると非難し,非決定性を取り除き,問題となる享楽を定義する方法を提唱しています.

こうして,1960年代に一般的であった知と権力(savoir et pouvoir)のあいだの議論が発展しましたが,この議論はラカンが定義した二つの操作によって準備されているのです.デリダはラカンのセミネールの前年,コギトと狂気の歴史についての講義のなかでフーコーを批判しています.デリダの講義は,少し前に出版されたフーコーの『狂気の歴史』に対する手厳しい批判です.フーコーは講義中は何も言いませんでしたし,『エクリチュールと差異』が出版された差異にも返答しませんでした.フーコーは1972年の『狂気の歴史』の第二版まで待ちました.この著作の最後に,デリダの批判に対する手厳しい応答をフーコーは記したのです.

フーコーの伝記(Michael Foucault, Life and Work)からの一節を引用します.ここでフーコーは自らの論点を明確にしています.フーコーはこのように言っています.

「デリダのディスクールの実践の原典主義化に隠されているものが,その形而上学やその封鎖であるとは言いません.それは言いすぎでしょうから.明白に現れているのは,テクストの外部には何もないと学生に教える小さな衒学者です.それは,テクストを際限なく繰り返すことを許可する無限の統治権を主人の声に与える教育です」

デリダは高等師範学校のもっとも有名な代表であり教師であり,また現象学を高等師範学校の哲学者に伝えた現象学の優良な教師でもあったわけですから,彼を小さな衒学者と呼ぶことはきわめて辛辣です.むしろ失礼でしょう.ここから10年間,デリダとフーコーは対話することをやめてしまいましたが,最終的に,デリダがチェコスロヴァキアで刑務所に入れられた際に状況は変わりました.デリダはチェコを訪れた際に,チェコの非国教徒の勅許状に署名した人々に挨拶をしたときにチェコ警察に捕らえられました.警察はデリダにハシシを仕掛け,彼を薬物の売人に仕立てあげ,名誉を落とし投獄したのです.フランスではデリダを解放するために大規模な抗議運動が起こり,フーコーもそれに参加しました.デリダはそのことに関して,昼食を食べながらフーコーに感謝したそうです.しかしそれは10年後のことでした.二人の間にはきわめて大きな断絶があったのです.

私はこの小休止を,ラカンがセミネールXI巻で提示した操作から導き出せることを示すためにお話しました.フーコーはゲイでしたから,人が自らの享楽について話すことは,その人の経験にかかっているということを強調しています.フーコーは自らの理論がある意味では自らの性的実践の理論であることに気づいており,それを倒錯やそれに類似の何かとして単純に攻撃することはできません.それはむしろ,主人のシニフィアンに抗して,そして順応に抗して自らの反抗を定義しようとする正当な試みなのです.フーコーの理論は最終的には,分析においても大学においても,人が思考するとき問題となっているのは対象aであるということに言及しています.

デリダは対象aの位置がつねに十全であるという事実を脇においておきたいようです.問題となるこの場所については,セミネールXI巻の第16講義の終わりのところで,当時20歳のジャック=アラン・ミレールがラカンに質問をなげかけています.

 「主体は,己にとって外部にある領野の中で生まれ,その領野によって構成され,その領野において命を授けられている.主体の疎外はこのような定義を受けましたが,それでもやはりこの疎外は自己意識の疎外とは根本的に区別されるものだということを,あなたはお示しにならないのでしょうか.手っ取り早く言うと,ラカンをヘーゲルに「対抗するものとして」理解しなくてもよいのですか」(邦p.288

これにラカンは「とてもよいことを言ってくれましたね.ちょうど昨日グリーンが言ったこととは反対ですね」と答えています.グリーンは10年前にIPAの副会長をやっていたフランスの精神分析家ですが,1960年代に12年ラカンのセミネールに出席し,『生きたディスクール(Le discours vivant)』という著作を書いています.この著作は,ラカンは生物学を精神分析の外部においたために物事の生命的な側面を考慮していないということを強調しています.ラカンが逸話を披露したものですから,グリーンはこの質問に非常に反応しています.

「(グリーンが)近づいてきて,私の手をぎゅっと握りました.少なくとも気持ちのうえでは.そしてこう言いました.「構造主義は死んだ.あなたはヘーゲルの息子だ」.しかし私は同意できません.ヘーゲルに「対抗する」ラカンと言ったあなたの方が,はるかに真実に近いと思います.もちろんここで哲学的論議を始めるつもりはありませんが」(邦p.288)

何が問題なのでしょうか.ラカンが,主体を除去しようとしたレヴィ=ストロースの構造主義に対抗していたことは事実です.ラカンは構造主義に主体を再導入し,ある種の時間性を認めることのできる論理をも導入したのです.この意味において,グリーンは構造主義の死であると言っているのです.つまり,あなたはヘーゲルの息子である,なぜなら時間と主体――すなわち純粋意識――を導入したからということです.

ジャック=アラン・ミレールの質問は,主体の場所を空虚に保っておくことからは程遠く,ラカンが主体をフロイトのいう十全の享楽を伴う幻想や快感対象を以って定義していることを指摘しています.フロイトが19世紀の物理学の文脈にしたがって機械論的に公式化したエネルギー論的側面は,ラカンによって形式論理学の文脈で再公式化されています.このことは19692月のフーコーの「作者とは何か」という有名な講義におけるラカンのコメントにも見て取ることができます.フーコーはこの講義のなかで,ラカンを名指すことなしにフロイトへの回帰に何度も立ち返っています.フランスの学会は当時まだマルクス主義であり,フーコーを攻撃していました.フーコーがヴァンセンヌにおいて果たした役割は有名であり,彼の学生運動との関係もまた有名でした.しかし,ディスクールと構造を重視する構造主義というブランドが,主体を置き去りにしてしまう印象を与えたのです(もちろん,古い意味での「主体」つまり人間のことです).フーコーは講義において現代の作者はベケットのテクストによって最もよく定義されると言っています.ベケットのテクストでは,語る人間に可能な同一性は結局のところ消滅しまうからです.

ラカンは以下のようにコメントしています.

構造主義であろうとなかろうと,このラベルによって大まかに括られている領域において,主体の否定が問題となっているわけではまったくない,そう思えます.問題となっているのは主体の従属関係であり,これはおよそ異なった問題です.そしてとりわけ「フロイトへの回帰」に関して言えば,真の意味で基本的な何ものかに対する主体の従属の問題です.その何ものかを私たちは「シニフィアン」という名の下に見極めようとしました.三番目に――これで私の発言を終わらせますが――,「構造は巷に繰り出しはしない」と書いたことが公正であるとは私はすこしも考えません.なぜならば,五月革命の出来事が何かを証明しているとすれば,それはまさに「構造が巷へ繰り出していった」ということに他ならないからです.そのことを,巷へと繰り出していったまさにその場所に書くということは,行為が自らを誤認するものであることを証明しているにすぎません.それが多くの場合,いやもっぱら,行為と呼ばれるものの性質なのです。

ラカンの四つのディスクールの記載,あるいはフーコーのディスクールの実践において問題となっているのは,構造が「巷に繰り出す」ということです.なぜなら,構造は享楽の持分を内包しており,人々は享楽のために死ぬのですから.ラカンは大学のディスクールを,知を主人の場所に位置づけて書きます.
 
 学生運動と大学に必然的な連関があるように,このディスクールは巷に繰り出す主体を生産します,学会は15世紀から存在していますが,そこにはつねに学生運動がありました.この二つには必然的なつながりがあるのです.さまざまな社会体制と条件の下で,当時から現代まで一定なものは学生が運動するということです.ラカンは,学生が運動を起こすのは彼らが生産に巻き込まれていないからだというマルクス主義の説明を受け入れません.ラカンは,学生は大学のディスクールによってそのようにされているがゆえに運動を起こすのだと言っています.



…………


デリダのリシャール批判は、実はフーコー批判を陰に籠めているという議論があるようだ。



なお、両者の対立をいかにジジェクが考えているかのひとつは、次の論にやや詳しい。この文は『LESS THAN NOTHING』(2012)に同様の記載がある。また別の箇所ではもうすこし詳細に亙っている。

Some Marxists even, as if Foucault/Derrida = materialism/idealism. Textual endless self-reflexive games versus materialist analysis. BUT: Foucault: remains HISTORICIST. He reproaches Derrida his inability to think the exteriority of philosophy – this is how he designates the stakes of their debate:

《could there be something prior or external to the philosophical discourse? Can the condition of this discourse be an exclusion, a refusal, an avoided risk, and, why not, a fear? A suspicion rejected passionately by Derrida. Pudenda origo, said Nietzsche with regard to religious people and their religion.》 [13]

However, Derrida is much closer to thinking this externality than Foucault, for whom exteriority involves simple historicist reduction which cannot account for itself (to what F used to reply with a cheap rhetorical trick that this is a "police" question, "who are you to say that" – AGAIN, combining it with the opposite, that genealogical history is "ontology of the present"). It is easy to do THIS to philosophy, it is much more difficult to think its INHERENT excess, its ex-timacy (and philosophers can easily dismiss such external reduction as confusing genesis and value). This, then, are the true stakes of the debate: ex-timacy or direct externality?(Cogito, Madness and Religion: Derrida, Foucault and then Lacan •.............Slavoj Zizek

同じ書にあるデリダとドゥルーズの対比箇所。

Deleuze is also opposed to Derrida who, from Deleuze’s perspective, remains caught within the vicious cycle of contradiction/identity, merely postponing resolution indefinitely
(Deleuze's Platonism: Ideas as Real •..........Slavoj Zizek)

※参照:ジジェクの「来るべき民主主義」(デリダ)に対する考え方。

マルクスを「ラディカル化」するデリダの基本的前提は、具体的な経済的・政治的方策がラディカルになればなるほど(行き着く果てはクメール・ルージュやセンデロ・ルミノソによる殺戮の戦場だ)、そうした方策は事実上ラディカルではなくなっていき、ますます倫理-政治的な形而上学の地平に囚われてしまうというものだ。言いかえれば、デリダの「ラディカル化」が意味しているのは、或る意味で(正確を期せば、実践的な意味で、と言うべきだが)、「ラディカル化」とは正反対のことである。それはすなわち、真にラディカルな政治的方策を断念することなのだ(補足的に言っておくと、ネルソン・マンデラに対する賞賛や、共和主義下のチェコスロヴァキアの反体制哲学者のためのアンガージュマンから、湾岸戦争でのイラク空爆を条件付きで支持したことにいたるまで、デリダによる個々の政治的介入のすべては、左翼穏健派のスタンスと完璧に一致している)。

デリダの政治学のラディカリズムは、来るべき民主主義というメシア的約束とその積極的な実現とのギャップを伴っている。まさしくこのラディカリズムゆえに、メシア的約束は永遠に約束であるにとどまり、一連の具体的な経済的・政治的法則へと転化されえないのだ。決定不可能な<モノ>の深淵と個々の場面での決定との隔たりは埋められない。<他者>に対する負債は返済不可能であり、<他者>の呼びかけに対する応答は十分ではありえない。こうしたポジションに立つわれわれは、ギャップを無化する双子による誘惑、つまり無節操なプラグマティズムと全体主義による誘惑に抗わねばならない。プラグマティズムは、超越的<他者性>をまったく参照せずに、政治活動を日和見的な技術操作、文脈化された状況への戦略的限定介入に矮小化してしまう。他方、全体主義は、絶対的<他者性>を特定の歴史的形象と同一視する(<党>は直接的に具現化された歴史的理性である,等々)。ここに、脱構築による一定のひねりを加えられた全体主義の問題規制が浮かび上がる。全体主義は、そのもっとも基本的な姿において、社会生活の全体的支配、社会全体の透明化を目論む政治力であるのみならず、メシア的<他者性>と具体的な政治主体〔エージェント〕との短絡でもあるのだ。したがって、来るべき(à venir)というのは、民主主義に後から付け加えられたたんなる形容ではなく、その最深部にある核であり、民主主義を民主主義たらしめているものなのである。民主主義が来るべきものではなくなり、現実となったーー完全に現実化されたーーかのような様相を呈するやいなや、全体主義が到来する。(ジジェク「メランコリーと行為」











2013年12月21日土曜日

ラカン派における「主体と大他者の欠如」、あるいは「疎外と分離」の覚書

愛するためには、あなたは自分の欠如を認め、あなたが他者を必要とすることに気づかなければなりません。あなたはその彼なり彼女なりがいなくて淋しいのです。己が完璧だと思ったり、そうなりたいと思っているような人たちは愛し方を知りません。(ジャック=アラン・ミレール on loveーー「ラカンの愛の定義」)

ここにある「欠如」をめぐって見事に書かれている文に行き当たった。

乳児はおそらく原初の内的な欲動をなにか周辺的なもとのして経験するだろう。どんな場合でも、その欲動は<他者>の現存を通してのみ姿を消すことができるにすぎない。<他者>の不在は、内部の緊張の継続の原因として見なされるだろう。しかしこの<他者>が傍らにいて言動によって応えても、この応答はけっして十全なものではない。というのは、<他者>は継続的に子供の叫び声を解釈しなければならないし、解釈と緊張のあいだに完全な照合はありえないのだから。この時点で、われわれはアイデンティティの形成の中心的な要素に直面する。すなわち、欠如、――欲動の緊張(強い不安)に完全に応答することの不可能性。要求、――それを通して乳児が欲求を表現するとき、残余が生ずること。この意味は<他者>の要求の解釈はけっして本来の欲求とは合致しないというとだ。<他者>の不完全性が、いつでも、内的にうまくいかないことの責めを負わされる最初のもののようにみえる。(ポール・ヴェルハーゲ 私訳)(ポール・ヴェルハーゲ 私訳)

The infant quite probably experiences the original internal drive as something peripheral; in any case, it can only disappear through the presence of the Other. The Other’s absence will be regarded as the cause of the continuation of the inner tension. But even when this Other is present and responds with words and actions, this response will never be enough either. For the Other must continually interpret the child’s crying, and there is never a perfect fit between the interpretation and the tension. At this point, we come up against a central element of identity formation: lack, the impossibility of ever answering the tension of the drive in full… The demand through which the child expresses its needs leaves a remainder in the sense that the Other’s interpretation of the demand will never coincide with the original need. It seems that the Other’s inadequacy will always be the first thing to be blamed for what goes wrong internally.
(Paul Verhaeghe, "On Being Normal and Other Disorders: A Manual for Clinical Psychodiagnostics")

ここには主体の欠如と大文字の他者の欠如ということが、簡にして要を得て書かれている。

「元来の内から生じる欲動original internal drive」とは、まず出始めは「お腹が減った」とか「喉が渇いた」、あるいは「寒いよお」のたぐいとしてもよい。この欲求を<母>に向けて言いあらわそうとする。だが幼児の本来がもとめるものは、<他者>がいつまでもそばにいてほしいということなのだ。ところがかりに<他者>としての母がいつもそばにいてくれても、なんらかの物足りなさが残る。というのは、上に書かれている理由のほか、出産後から母との始原の共生は漸次喪われていき、その共生への融合が根源的なものなのだから。この融合をヴェルハーゲは究極のエロス、あるいは享楽と呼んでいる(参照:女性の困った性質

「元来の内から生じる欲動」については、フロイト後期の死の欲動以降の記述ではなく、前中期の「性欲論三篇」から、フロイトの叙述を拾っておく。

「欲動」という名のもとにわれわれが理解することのできるのは、さしあたり、休むことなく流れている、体内的な刺激源の心的な代表者以外のなにものでもないのであって、これは個別的に外部からやってくる興奮によってつくりだされる「刺激」とは異なるものである。だから欲動は心理的なものを身体的なものから区別する概念の一つである。(……)欲動の源泉はある器官のなかで起る一つの刺激的な過程なのであって、欲動の当面の目標はこういう器官の刺激を除去することにあるのである。(『性欲論三篇』旧訳 p35)

ーーこれだけだとごく標準的な「本能」とどう異なるのか、という疑問が湧くが(実際、いくつかの英訳ではtriebはinstinctと訳されていたり、日本語でもフロイト旧訳では同様)、フロイトはこれ以外に、性的な欲動の部分対象を選ぶ特質(部分欲動)と自体愛的(auto-erotic)を強調しており、人の本来的な「倒錯」性が主張されることになるが(そして、ラカンにいたって頭も尻尾もない欲動の「モンタージュ」概念→「性関係はない」の公式が打ち立てられる大きな理由はそれにかかわる)、ここではその話題ではない。


さて少し前の文脈に戻れば、母の応答はつねに十全ではない。残余が生じる。残余、すなわち対象a、《あなたかのなかにあってあなた以上のもの》、あるいは《わたしのなかにあってわたし以上のもの》。





話し手の審級(agent)としての乳児は受け手の母(other)になにかを訴える。母はその要求に応えるが、そこには剰余としての対象a(product)が生まれる。

上に掲げられたヴェルハーゲの文には、欲望という語はないが、しかしながら欲求―要求―欲望の弁証法をも理解することができる。すなわち乳児は、空腹感のため、母乳が飲みたい(欲求)。この欲求を訴える(要求)。母がやってきて乳を与える(欲求の満足)。この過程は、しかし要求の弁証法によって、母の愛情の証をもとめる欲望に変質していくのだ。

《大文字の他者から来るものは、欲求の個別の満足のようにではなく、 むしろ訴え appeal、贈り物 gift、愛のしるし token of love に対する返答として扱われる。》(アラン・シェリダン訳Ecritsの序文

もし他人がわれわれの望みに応えてくれたとしたら、彼はそれによってわれわれにたいしてある一定の態度表明をしたことになる。したがって、ある物にたいするわれわれの要求の最終目標は、その物と結びついた欲求の満足ではなくて、われわれにたいする他者の態度を確かめることなのである。たとえば子どもにミルクをやるとき、ミルクは彼女の愛情の証になる。(ジジェク『斜めから見る』)

ここでラカン理論の基本、いまでは少しでも関心のある人なら誰でもがこれだけは知っているだろう<他者>の欲望を復習しておこう。

人間の欲望は<他者>の欲望である。そこではde(英of)が、文法学者が「主観的決定」と呼ぶものを提供している。すなわり人間は<他者>として(qua 英as)欲望する。それゆえに<他者>の質問―――それは主体が託宣を期待する場所から主体へと戻ってくるのだが―――は、「汝何を欲するか?」というような形をとる。「汝何を欲するか?」は、主体を自分自身の欲望に導く最良の道なのである。(ラカン『エクリⅢ』)

ジジェクは、この文を『ラカンはこう読め』で次のように解説している。


【第一の説明】
「人間は<他者>として欲望する」というのは、まず何よりも、人間の欲望が「外に出された」<大文字の他者>、すなわち象徴秩序によって構造化されていることを意味する。つまり私が欲望するものは<大文字の他者>、すなわち私の住んでいる象徴的空間によってあらかじめ決定されている。たとえ私の欲望が侵犯的、すなわち社会的規範に背くものだとしても、その侵犯それ自体が侵犯の対象に依存しているのである。

【第二の説明】
……主体は、<他者>を欲望するものとして、つまり満たしがたい欲望の場所として、捉える限りにおいて、欲望できる。あたかも彼あるいは彼女から不透明な欲望が発せられているかのように、他者は謎にみちた欲望を私に向けるだけでなく、私は自分が本当は何を欲望しているのかを知らないという事実、すなわち私自身の欲望の謎を、私に突きつける。

※欲望と欲動の相違については、資料:欲望と欲動(ミレールのセミネールより)を参照のこと。


さてもうひとつ、ヴェルハーゲの文にはアイデンティティidentityという語彙が出てくる。もっともラカン派にとってアイデンティティidentityとはほとんど禁句に近い言葉であり、実際には同一化identificationにより疎外alienation、分離separationが起るということである。

The human experience of identity is constructed via identification with the signifiers of the desire of the other. In order to stress the impact of the other on the experience of identity, Lacan refers to this process as alienation. As these signifiers present conflicting desires, the subject is essentially divided between and through them. Nevertheless, this alienation is never a total one because the signifiers of the desire of the other can never represent the real of the object a, meaning that there is a structural lack in the chain of signifiers. This opens the possibility of separation for the subject. At the same time, this lack indicates an even more essential division: that between the signified part of the subject and the real of the drive. The conflicting relation between the real, on the one hand, and the symbolic and imaginary elements of subjectivity, on the other, is a structural characteristic of the human being; it is unbridgeable by any efforts.(『 Identity through a Psychoanalytic Looking Glass』Stijn Vanheule and Paul Verhaeghe  Theory Psychology 2009)

他者の欲望のシニフィアンとの同一化によってひとは「疎外」される。これが上に書かれた<他者>の欲望とともに、主体Sには斜線がひかれること$の内実のひとつである。それとともに肝要なのは傍線箇所である。


ところで上の文の分離separationという言葉をもうすこし詳しく見てみよう。


乳児の母との共生の願い(truth)は、母がいかに懸命に応答しようとも(product)、けっして実現しない.





ーー図は、『FROM IMPOSSIBILITY TO INABILITY: LACAN’S THEORY ON THE FOUR DISCOURSES』(Paul Verhaeghe)より(ここで下段に示されているinabilityは、impotenceとしてもよいだろう)。


agentの箇所にS1、otherにS2を代入すれば、次のような図となる。(参照:メモ:ラカンの四つのディスクール+資本家のディスクール




上の図は、エリック・ローランの『疎外と分離』からだが、和訳されたものがインターネット上にある→ lacan.kill.jp/translation/texte/E_Laurent/alienationandseparation.doc

aと$が分離する。ここに幻想の式$◇a《斜線を引かれた主体は究極の対象を目指しながら永遠にこれに到達することができない。》があることがわかる(資料:ラカンの幻想の式と四つの言説)。左下の$からはじめて凹型の上下を反転させた形を進めば、幻想の式を分解した、《$ー S1 ー S2 ーa》がある。

エリック・ローランの『疎外と分離』から、いま書かれている文脈上の核心部分のみを抜き出しておこう。

主体と<他者>の和集合は喪失を残します.主体は<他者>のなかに自らを探そうとしても,主体は失われた部分としての自らを見つけることが出来るだけです.主体は主人のシニフィアンに囚われ,自らの存在の一部分を喪失しています.疎外(つまり,同一性を持たない主体が何かと同一化する必要があること)は,主体が自らを定義するのはシニフィアン連鎖においてだけではなく,欲動のレベルでは<他者>に関係するものとしての自らの享楽によってもまた定義するということを,より深い意味において覆い,あるいはオーバーラップさせています.ジャック=アラン・ミレールが最初に展開したシェーマを受け入れるなら,このようになります.





フロイトの用語では,1925年の「否定」と題された有名な論文で指摘されたように,疎外は享楽の対象そのものが失われたことを覆い隠します.主体を生産するこれら二つの公式あるいは論理学的操作はある意味で垂直にも読めます.最初に疎外,つまり,主体が彼を待ち受ける言語のなかで生産され,<他者>の場に書き込まれます.主体は自らを分割されたものとして,いくつもの部分欲動のあいだで寸断され,常に喪失を被った部分的なものとして見出します.

この公式は別なふうにも読めます.主体は根本的に<他者>の享楽の対象であり,子供としての主体の最初の位置づけはこの<他者>(現実の<他者>すなわち一般的には母)の失われた部分である,と読めるのです.主体は対象aとして人生を始め,失われた部分に同一化し,シニフィアンの連鎖に入るのです.ラカンが言うように,主体は「自らの一次的同一化を受け入れる」――これは『エクリ』で使われた表現です.主体の一次的同一化はある意味で主人のシニフィアンとの同一化です.より深い意味では,主体の一次的同一化は,最終的に主体が定義する対象との同一化です.これは完全な同一化です――主体が<他者>の欲望のなかで,欲望の象徴的水準だけでなく,享楽の現実的実体の水準においての同一化なのです.主体は,シニフィアン連鎖の発展の中でこの対象を回復したり同定しようとしているのです.

このようにして二つのシェーマを両方のやり方で読むことができます.最初に疎外があって,次に分離.あるいは,最初に分離があって,次に疎外があると.論理的に言えば,疎外が先にあります.分析状況のなかでは,分離が先にあります.

さらにジジェクのテキストから、比較的若い頃に書かれた(上に引用された『斜めから見る』と同様)、疎外と分離をめぐる文を掲げる。


ラカンは「分離」を二つの欠如の重なり合いと定義した。主体が<他者>の欠如に出会う時、それに対する主体の答えは、先行する欠如、彼自身の欠如である。このことはヘーゲルの有名な言葉、古代エジプト人の秘密/謎はエジプト人自身にとっても秘密/謎だったという言葉に正確に一致している。疎外された主体は、到達できない秘密/謎を隠し持つ十全で実体的な<他者>に直面する。そして疎外は、主体がその<他者>の核心にまで突き進み、その「隠された宝」を手に入れることによって克服されるのではなく、「隠された宝」(対象a、欲望の対象-原因)が他者自身にも欠けているということを経験することによって克服されるのである。秘密/謎の解消は、その二重化のうちにある。(『最も崇高なヒステリー症者ヘーゲル』p233)

<他者>の欠如がなかったら、<他者>は閉じられた構造となり、主体に開かれた唯一の可能性は、主体が<他者>のなかへとみずからを全面的に疎外することだろう。したがって、まさに<他者>の欠如のおかげで、主体はラカンが分離と呼ぶ一種の「脱疎外」を達成する。ただしこれは、主体が、いまや自分が言語の障壁によって対象から永遠に分離されていると感じる、という意味ではなく、対象が<他者>そのものから分離されている、つまり、<他者>が「手に入れなかった」、すなわち最終的な答えを手に入れなかった、という意味である。(…) <他者>のこの欠如が、主体に、いわば息ができる空間を与える。(『イデオロギーの崇高な対象』p192)

2012年に上梓された『LESS THAN NOTHING』では、ヘーゲルの「否定の否定」との違い、要するに、ヘーゲルのほうは高次の次元の弁証法の基礎でありポジティヴであるが、疎外と分離の二重の欠如はそのような積極的な内容はないというようなことが書かれているのだが、ヘーゲルとなると途端に頭をひねる身なので、理解の十分に及ばない箇所を引用するより、上に引用された「古代エジプト人の秘密」と箇所と重なる文を抜き出しておく。

The core of Lacan's atheism is best discerned in the conceptual couple of “alienation” and “separation” which he develops in his Four Fundamental Concepts of Psycho‐Analysis. In a first approach, the big Other stands for the subject's alienation in the symbolic order: the big Other pulls the strings; the subject does not speak, he is “spoken” by the symbolic structure. In short, this “big Other” is the name for the social substance, for all that on account of which the subject never fully controls the effects of his acts, so that their final outcome is always other than what he aimed at or anticipated. Separation takes place when the subject takes note of how the big Other is in itself inconsistent, lacking (“barred,” as Lacan liked to put it): the big Other does not possess what the subject lacks. In separation, the subject experiences how his own lack with regard to the big Other is already the lack that affects the big Other itself. To recall Hegel's immortal dictum concerning the Sphinx: “The enigmas of the Ancient Egyptians were enigmas also for the Egyptians themselves.” Along the same lines, the elusive, impenetrable Dieu obscur has to be impenetrable also to himself; he has to have a dark side, something that is in him more than himself.

最近、フィンクの20年近く前の本が和訳されて、そこには「疎外と分離」をめぐる記述が豊富らしいが、手元に英訳はあるにもかかわらず、かすり読みしただけなので、ここでは、次の書評をリンクしておくのみにする→書評:ブルース・フィンク『後期ラカン入門:ラカン的主体について』(2013)


…………

欠如、あるいは疎外と分離の話は終ったので、ここで終えてもよいのだが、冒頭はミレールの愛の話で始めたのであり、上に示された<欠如>やら、疎外と分離の議論から、愛とはなにか、をもう一度考えてみるための言葉を抜き出しておこう。もっとも男のファンタジー、女のファンタジーに耽り続けたい大半の連中に文句をいうつもりはない。それでうまくいく場合もあるのだから。そしてラカン派の考え方に熟知したってうまくいくわけのものでもないだろう。あるいはまたフロイト理論がラカンによっていくらかの調整があったように(最も大きな再構成のひとつは、実物のペニスからシニフィアンとしてのファルスへの変換だろう、参照:少年ハンス(フロイトとラカン))、ラカン理論もニューロサイエンス(神経科学)やらにより陳腐化することもありえよう。

だがあれらの新しい理論がいったい愛を語れるだろうか。

ここでも詳しいことは知らないわたくしは偏った視点から、ラカン派の向井雅明氏の言葉を引用することになる。
情動と感情のちがいについて言えば、ダマシオにとって何らかの刺激で生み出された心的イメージの身体的知覚が情動であり、この身体的条件に対する心的知覚が感情である。これを簡単に言えば、怖さで体が震えるのではなく、体の震えという情動的身体表出から怖さという感情が引き起こされるということになろう。このようなダマシオのシステムにとって他者は必要ない。たとえば愛情というものを感じたとしてもそれは誰かにたいする愛情ではなく、愛情に相当する身体状態を表すニューラルマッピングによって引き起こされた感情でしかない。憐憫の感情にしても誰かかわいそうな人にたいして感じるというのではなく、身体の情動的変化によって引き起こされるのだ。ダマシオはこれを「情動は身体の劇場で演じられ、感情は心という劇場で演じられる」 と言う。 それは外に開かれてはおらず、 閉じられた体系なのである。

二つの劇場は脳のどこかに位置づけられる二つの部位なのであり、相互に繋がり合い対応しあっているので、一元論は保たれる。結局彼の考える人間はホメオスタシスによって調整される生物学的な機械であり、デカルトの延長に相当するものの次元においてすべては進行するのである。したがって、ダマシオの身体はスピノザ的な一元論というよりもラメートリーの人間機械論的な一元論的唯物論によって説明ができるものであろう。

ダマシオだけではなく、一般的にニューロサイエンスや生物学だけで人間を説明しようとする試みはすべて同じ過ちを犯している。真に人間的な次元を扱うには、人間世界は自然界との切断によって生まれる、あるいは、語る存在としての人間は生命体とは切り離されている、さらにあるいは、 主体とは身体とは超越したものであるということを前提にしなければならない。(向井雅明「Dの誤り ダマシオ批判」

まあしかしながら、ダマシオ(ソマティック・マーカー仮説)やら大きく神経科学のたぐいを批判(吟味)するつもりはない、この向井氏の文と二三の短い解説的な文を読んだのみなのであって、それでなにが言えるわけのものでもないだろう。

ジジェクの見解は柄谷行人が巧みにまとめている。

本書で最も興味深いのは、近年急速に発達した、脳科学や認知科学に対する考察である。通常、これに対しては、意識(精神)は脳と異なる次元にあるといった、人文科学的な批判がなされる。しかし、ジジェクはむしろ、脳科学や認知科学の成果を肯定する。その上で、そこにパララックスを見いだすのである。たとえば、「意識」はニューロン的なものと別次元にあるのではなく、ニューロン的なものの行き詰まり(ギャップ)において突然あらわれる、という。こうして、ジジェクは、現象学や精神分析といった人文科学的な観点に立つかわりに、現在の認知科学そのものの中に、ドイツ観念論(カント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲル)が蘇生している、と考えるのである。(書評:パララックス・ヴュー [著]スラヴォイ・ジジェク

ここでは「意識」はニューロン的なものの「行き詰まり」とされている(荒川修作の言葉、意識とは「躊躇」をここで思い出しておこう)。

さらに、ジジェクの『パララックス・ヴュー』から、ことさら印象的な一節を抜き出す(残念ながら和訳は手許になく、原文からになる)。

It is a standard philosophical observation that we should distinguish between knowing a phenomenon and acknowledging it, accepting it, treating it as existing—we do not “really know” if other people around us have minds, or are just robots programmed to act blindly .This observation,however,misses the point: if I were to “really know” the mind of my interlocutor, intersubjectivity proper would disappear; he would lose his subjective status and turn—for me—into a transparent machine. In other words, not-being-knowable to others is a crucial feature of subjectivity……

――他者が何を考えているか本当にすべてわかってしまったら、そのとき<他者>ではなく<私>がロボットになってしまう、<私>の主体性が消えうせてしまうのだ、と。


…………


それにしても、なんという無知蒙昧な戯言、なんという厚顔無恥な輩の跳梁跋扈よ、あれらプレフロイトの思考に戻るつもりかの如き「わけしり顔」の評論家たち、なかんずく類まれなる「自我」心理学者たちよ、そのアイデンティティ至上主義、ほとんどのフェミニストたちも同じ穴の狢だ、ーーなどとはわたくしはけっして言わない……。ニーチェだって言わない。ツァラトゥストラが下界から山の上の洞窟に帰郷して語るだけだ。

……あの下界ではーー一切が語っていて、一切が聞きのがされる。人が鐘や太鼓を鳴らして自分の知恵を売りつけても、それは市場の小商人たちの銅貨の音でかき消されるだろう。

そこでは一切が語っている。しかしだれもそれを理解しない。一切が水に落ちて流される。深い泉の底に沈むものは何ひとつない。

そこでは一切が語っている。だが成就するものは何もない、終結するものは何もない。一切が鵞鳥のように鳴き立てる。しかし静かに巣ごもりして卵を孵そうとするものはない。

そこでは一切が語っており、一切が語りこわされる。そして、昨日はまだ時代の歯にとってさえ固すぎたものが、今日は噛みくだかれ噛みほごされ、当世人の口のはしから垂さがっている。

そこでは一切が語っている、いっさいの隠されたことが明らかにされる。そして、かつて深い魂の秘密や秘事といわれたものが、こんにちは街上のラッパ手や太鼓たたきの持ち物になっている。

おお、おまえ、人間という奇妙なものよ、暗い街路にたむろする喧騒よ。……(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第三部「帰郷」より 手塚富雄訳)

…………

小児が母の乳房を吸うことがあらゆる愛情関係の原型になっているのは、十分な根拠のないことではない。対象の発見ということは、本来は再発見なのである。(フロイト『性欲論』旧訳 p77)

《愛の基本的モデルは男と女の関係ではなく、母と子供の関係に求められるべきだ。》
The basic model of love should be sought not in the relationship between a man and a woman, but in the relationship between mother and child(『Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE』 Paul Verhaeghe)

ラカンによる愛の定義 ――「愛とは自分のもっていないものを与えることである」 ――には、以下を補う必要がある。「それを欲していない人に」。誰かにいきなり情熱的な愛の告白をされるというありふれた体験が、それを確証しているのではないか。愛の告白に対して、結局は肯定的な答を返すかもしれないが、それに先立つ最初の反応は、何か猥褻で闖入的なものが押しつけられたという感覚だ。(ジジェク『ラカンはこう読め』)
eromenos(愛される者)が、その手を延ばして「愛を返す」ことにより、erastes(愛する者)へと変わる崇高な瞬間がここにある。この瞬間は、愛の「奇跡」、「〈現実界〉からの答え」を表している。このことから、主体自身は「〈現実界からの答え〉」の状態にあるとラカンが主張しているときにその念頭にあるものが把握できるだろう。つまり、この逆転が起きるまで、愛される者は対象としての身分をもっている。つまり、愛される者は、自分では気がつかない「自分の中の自分以上のもの」である何かのために愛されている。「他者に対する対象としての自分は何者なのか。他者がわたしに何を見てわたしを愛するようになるのか」といった問いに答えることはできない。

そこである非対称が立ちはだかる。主体と対象という非対称だけではなく、愛する者が愛される者の中に見るものと、愛される者が知っている自分自身の姿とが一致しないという、より根源的な意味における非対称である。

ここで、愛される者の位置を定めている逃れがたい行きづまりに気づく。他者がわたしの中に何かを見てそれを欲しているが、わたしはわたしがもっていないものを与えることができないというものだ。または、ラカンの言葉を借りれば、愛される者がもつものと愛する者が欠いているものとの間には何の関係も存在しないとも言える。愛される者がこの行きづまりを抜け出す方法は一つしかない。

愛される者が愛する者に向かって手をさしのべて、「愛を返す」のだ。

つまり、象徴的な身振りでもって、愛される者の地位と愛する者の地位を交換する。この逆転が主体化の時点を指し示す。愛の対象は、愛の呼びかけに応えた瞬間、主体に変容する。こうした逆転が起こって初めて、真の愛が出現する。ただ単に他者の中のアガルマに魅了されているだけでは、真に愛しているとは言えない。愛の対象である他者が、実はもろくて失われたものであること、つまり「それ」をもっていない者であることを体験しても、愛がその喪失を乗り越えた時にこそ、真に愛していると言える。

この逆転の時を見逃さないように、とくに注意しなければならない。愛する者と愛される者という二元性という最初の構図はなくなり、今や二つの愛する主体となったが、非対称はやはり存在する。なぜなら、対象自身が、主体化によって、いわば自身の欠如を表明しているからだ。 (ジジェク『快楽の転移』 ーージジェクの愛の定義

結局、「お前の妹(姉さん、母さん)、すぐにやらせてくれるって話じゃないか」などといった罵り文句は、「〈女性〉は存在しない」という事実、ラカンの言葉を借りれば、彼女が「完全ではない」、「完全に彼のものではない」という事実を、下世話な言葉で表現したものである。「女性は非-全体である」という命題は、女性ではなく男性にとって耐えがたい。それは、男性の存在の内、象徴界における女性の役割の内に注ぎ込まれた部分を脅かすのである。この種の中傷に対する男性の極端な、全く法外な反応――殺人を含む――を見てもいいだろう。これらの反応は、男性は女性を「所有物」だと見なしている、という通常の説明で片づけられるものではない。この中傷によって傷つけられるのは、男性がもっているものではなく、彼らの存在、彼らそのものである。関連する命題をもうひとつ紹介して、ドン・ジュアンに返ろう。「〈女性〉は存在しない」という命題を受け入れるなら、スラヴォイ・ジジェクが言うように、男性の定義は次のようなものになる――男性とは「自分が存在すると信じている女性である」。( アレンカ・ジュパンチッチ『リアルの倫理―カントとラカン』ーーひとりの女のうちにある不誠実は、けっして深くとがめられることではない

ーーというジジェクとその朋友たちの過激な発言だけではなく、穏やかな紳士の風貌と発言をもつポール・ヴェルハーゲの言葉をも再度つけ加えておこう。


◆NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL(Paul Verhaeghe)

Lacan(……)was to state explicitly that there is no sexual rapport as such, that The woman does not exist. This may sound very pessimistic indeed, a kind of confirmation of Freud's last theory. It is not. In his development, Lacan was to aband on completely the idea of an opposition between the biological and the psychological, and elaborate the ever-present field of tension between the Symbolic and the Real, with the Imaginary in between.

What Freud called a biological bedrock is for Lacan nothing but a defensive system within the Imaginary, directed against an ever lacking signifier. This opens up new alternatives. Freud saw no possibility of going beyond what he believed to be a biological fact, while the Lacanian conceptualisation gives rise to the dimensions of ethics and creation. Indeed, The Woman does not exist, neither does The Man. Both of them can deconstruct and reconstruct their identity during an analysis, in which they share the same experience, namely that their identity or lack of identity, is nothing but a defensive imaginary construction against the feared desire of the big Other. The working through of this - la traversée du fantasme -opens up ethics, which position do I consciously want in view of the desire of the other; it opens up creation, in which direction will I develop my own answers in view of the lack in the symbolic system, answers that will constitute my identity ?

Sexual rapport does not exist. This means that there is a choice beyond neurosis, which is essentially the refusal of a choice. This means that every subject has the possibility of creating one.

That is the challenge beyond analysis.


※補遺:デリダとフーコーの対象a