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2010年12月13日月曜日

ジジェクのヘーゲル読解と柄谷行人、あるいは統整的理念


ジジェクは、「looking awry」で、例によって、映画をラカンあるいは哲学に結びつけて、次のように書く。ここではその対象は、彼は言及していないにも拘らず、あきらかにヘーゲル擁護、あるいはヘーゲリアンとしての「一般的」ヘーゲル誤解の諌めのようにみえる。

まず『カサブランカ』撮影神話について。これは伝説であって事実ではなかったとしながらの記述である。

いちばんよく知られているハリウッド神話の一つに、『カサブランカ』のラストシーンんい関する神話がある。それによると、撮影が始まってもまだ、監督とシナリオライターたちは、どういう結末したらよいのか迷っていたという(イングリッド・バーグマンが夫といっしょに去る/バーグマンがボガードといっしょに留まる/男の一方が死ぬ)。

結末(終わり)は、どの選択をとってもよかった。観客はどの選択でも「自然に」感じるだろう、そこにいたるまでの筋はどれも同じにも拘らず、と。

だが、われわれは、映画を見終わったとき、事件が、そこにいたるまでの流れから「自然に」かつ「有機的に」導き出されたものだ、と感じる。それは「幻想」である、という主張である。
 
もちろん、その問いに対する唯一の答えはこうだーーー事件が線的かつ「有機的」に継起するという印象が幻想であり(その幻想は必要不可欠なのだが)、その幻想が、結末こそがそこにいたるまでの出来事の全体に遡及的にretoroactively整合性を与えるのだ、という事実を隠蔽しているのである。(鈴木晶訳)

The only answer is, of course, that the experience of a linear "organic" flow of events is an illusion (albeit a necessary one) that masks the fact that it is the ending that retroactively confers the consistency of an organic whole on the preceding events. (原文)



すこしわかりにくいが、引き続いて書かれた部分を読めば、よくわかる。



隠蔽されているのは、物語の連鎖が本質的には偶然的なものだということ、すなわち、どの瞬間をとってみても出来事は違ったふうになっていたかもしれないという事実である。だが、もしこの幻想が物語の線的性質そのものの結果として生み出されたものだとしたら、出来事の連鎖の本質的偶然性を目に見えるようにするにはどうしたらよいのだろうか。逆説的だが、答えはこうだーーー逆に進行する、つまり結末から最初に向かって逆向きに出来事を提示すればいいのだ。(p135)

What is masked is the radical contingency of the enchainment of narration, the fact that, at every point, things might have turned out otherwise. But if this illusion is a result of the very linearity of the narration, how can the radical contingency of the enchainment of events be made visible? The answer is, paradoxically: by proceeding in a reverse way, by presenting the events backward, from the end to the beginning.

ヘーゲルへの「標準的」批判は、彼の手法、つまり、終わりから歴史をみることで歴史全体に遡及的整合性を与える、ということに係わっている。

たとえば、柄谷行人はこんな発言をしている。(柄谷行人とジジェクの関係の不思議(ヘーゲルをめぐって)
 
ヘーゲルにとって、哲学とは結果(終わり)から見ることです。そして、出来事を終わりからみることはそれを目的(エンド)から見ることである。だけど、それは結局いつもあったこと(現実性)を合理化することにしかなりません。


実際、一部の「ヘーゲル主義者」は、たとえば、共産主義の崩壊という事実から、歴史を遡及的に解釈して、資本主義の勝利をおおらかに謳うなどということが20年ほどまえあったわけだが、ジジェクの視点は、まったく異なる。終わりからみることは、むしろ、出来事の連鎖の偶然性をみるためなのだ。

このあと、ジジェクは、またしても、ふたつの別の映画の例を挙げて、そのことを叙述しているのだが、その映画の例は割愛して、結論部分だけ引用してみよう。

出来事のこうした逆配列(語りの順序を反転する、つまり終わりから見ること:引用者)によって与えられる戦慄の背後に、宿命論とは違うもう一つ別の論理、すなわち「私はよく知っている、それでも……」という物神的fetishisticな分裂の一つの形が見えてくる。「この後に何が起きるのか、私はよく知っている(物語の結末をあらかじめ知っているのだから)。それでも私はどうしてもそれを信じることができない。だから不安で一杯なのだ。不可避の出来事は本当に起こるのだろうか」。
言い換えれば、まさしく時間的配列の反転によって、われわれは物語の連鎖がまったく偶然的なものであること、すなわちすべての転機において物事は別の方向に進んだのかもしれないという事実を、実感させられるのである。

同じパラドックスの例をもう一つ挙げよう。これはおそらく宗教史においてもっとも興味深いことの一つだろう。カルヴァン主義のことである。カルヴァン主義は、その信者たちを休む間のない熱狂的な活動へと駆り立てることで知られているが、この宗教は予定、すなわち運命はあらかじめ決まっているのだという信仰にもとづいている。カルヴァン派の信者は、かならず起きるとされている出来事はひょっとしたら起こらないかもしれない、という不安にみちた予感に駆り立てられているのではないなかろうか。(p137)

ここにヘーゲルのラカン化を読み取るのは容易であろう、つまり、ラカンの「<大他者>は存在しない」というテーゼである。<大他者>は歴史の主体としては存在しない。<大他者>は、われわれの活動を目的論的に調整するわけではない。目的論というのはつねに遡及的な幻想なのだ……。あるいは目的を目指して活動しても、結果はその目的通りには決してならない、行動の副産物として生まれるものがある、それが<対象a>である、など。

もっとも柄谷行人は次のように語っている。(『パララックス・ヴュー』書評
……私のカントが通常のカントと異なるのと同様に、ジジェクのヘーゲルも通常のヘーゲルではないからだ。ヘーゲルを読んだから といって、彼のような見方が出てくるわけではない。また、彼のような考え方は、必ずしも彼がいうラカンの精神分析から来るものでもない。私の知るかぎり、 彼に最も似ているのは、ドストエフスキーである。テーゼとアンチテーゼの両極をたえず目まぐるしく飛びわたる、その思考においてのみならず、その風貌(ふ うぼう)、所作、驚異的な多産性において。

いずれにしろ「標準的な」ヘーゲル主義者の言説、あるいはそれへの批判としての「出来事を終わりからみることはそれを目的(エンド)から見ることである。だけど、それは結局いつもあったこと(現実性)を合理化する」(柄谷行人)、そのような見方がされることも多い哲学者ヘーゲルが、実はそうではなく、事物の偶然性をみることにあり、「ヘーゲルが繰り返し強調しているのは、ある政治システムが完成されて勝利をおさめる瞬間は、それがはらむ分裂が露呈される瞬間でもあるという」(ジジェク)という、そのような思想家として捉えるジジェクのヘーゲル読解のようである。

また、目的論=理念がかならずしも悪いわけではない。ただ柄谷行人の読解では、ヘーゲルの考え方は、構成的理念としか捉えられないということのようだ。<定義:統整的理念と構成的理念(柄谷行人)>

理性の統整的使用と構成的使用の差異は、事前と事後という立場の差異として考えることができる。出来事を、事後の立場からふりかえって見るとき、理性の構成的使用が可能である(規定的判断力)。事前の立場から見ると、理性の統整的使用が必要となる(反省的判断力)。


  一般に、カントは、事前の立場に立っている。未知の未来に対して、何らかの目的論を想定する必要がある。理性の統整的使用とは、目的がある「かのように」 想定することである。それに対して、ヘーゲルは事後の立場に立つ。つまり、すべてを結果から見る。「本質は結果においてあらわれる」。

ジジェクも次のように述べている。
「<他者>の非在」から、すなわち、<他者>は<現実界>の本質的偶然性を隠蔽する遡及的幻想にすぎないという事実から、次のような結論、すなわち、この「幻想」を中止しさえすればよいのだ、そうすればわれわれは「事物の本当の姿を見ることができる」という結論を導き出すのは誤りである。重要なのは、この「幻想」こそがわれわれの(社会的)現実を構造化しているのだということである。この「幻想」が壊れると、「現実喪失」が生じる。あるいは、フロイトが『幻想の未来』の中で、宗教を幻想とした後に述べているように、「われわれの政治的法規を決定しているさまざまな前提条件もまた、幻想と呼ぶべきではないだろうか」。(p138)

ここではラカンの現実界の議論には、長くなるので言及しない。ジジェクは、カントの「物自体」は、ラカンの「現実界」ではない、といっているが、柄谷行人は、「物自体」は「現実界」だといっている。それは措く。しかし、柄谷行人もジジェクも目的論的な見方は必要だ言っているのだ。ただし、それは仮象(柄谷)であり、あるいは幻想(ジジェク)なのであって、つまりは構成的理念はありえず、統整的理念なのである。

※「相対主義」派、と「反相対主義」派というものがある。これは、上記の記述からもわかるように単純ではない。

たとえば、宮台真司「終わりなき日常を生きろ」という書があり、私はその書を読んでいないので、山竹伸二の解説から推測するしかないのだが、《「素晴らしい未来」と「終わりなき日常」という対立図式で構成されている。これは絶対的なものが信じられた近代と、絶対的なものが失われたポストモダンの対立》ということのようだ。そして題名のように「終わりなき日常を生きろ」と。
オウム真理教事件のあとかかれたものなので、オウムのように構成的理念を信じてはろくなことにならない、と。(あくまでも山竹氏の解説による)http://yamatake.chu.jp/04ori/2cri/13.html

(オウムのような)超越項を想定する方向性は、「終わりなき日常」を終わらせて、その後に訪れるであろう輝かしい世界に期待するようになりやすい。つまり、世界を滅亡させた 後の共同性という夢(ハルマゲドン幻想)に転化しやすいので、そうした幻想を現実化しようとすれば、オウム真理教のようにサリンをばらまく結果となる。し たがって、オウムのようにならないためには、超越項を想定するわけにはいかない。すると、残された道は「終わりなき日常」を生きるしかない。そのために は、コミュニケーション・スキルを身につけることが必要になる。これが宮台真司の処方箋なのである。

しかし、構成的理念という観点からいえば、相対主義的態度は正しいが、統整的理念という観点からいえば、一般に主張される「相対主義的」態度は好ましくない、むしろ「現実喪失」に陥ってしまうのだ。こういったジジェク=柄谷行人の見方から、現在でも主張され続けている「コミュニケーション万能」の風潮を批判的にみてみたら、どうだろうか。あそこには、統整的理念はあるのだろうか?


最後に柄谷行人のニーチェ解釈を引用しておく。(定義:ニーチェの「系譜学」)
ふつうの歴史的思考は、現代の認識論的枠組みで過去を構成し解釈することでしかない。ニーチェがこのような「歴史主義」を攻撃する一方で、「歴史的に考える」ことを説いたことは矛盾しない。後者は、前者を超越論的に考察することにほかならない。

混乱を避けるために、後者を「系譜学的」と呼ぶことにしよう。系譜学的であることは、結果であるものを原因とみなす「認識の遠近法的倒錯」をえぐりだすことである。

(中略)そもそも、このような系譜学はこえること(超越的)ではなく、超越論的なのである。た とえば、マルクスやニーチェが何といおうと、ひとは(彼ら自身も)”目的論的”に生きている。それを否定することはできない。だが、それをカッコにいれる ことはできる。たとえば、日常的にもの(客観)が私(主観)の前にあるという考え方を否定するならば、ひとはまず生きていけない。その自明性をとりあえず還元(カッコ入れ)しようとするのが超越論的ということであって、本当にその通りに生きてしまえば、分裂病者になるだろう。