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2010年12月17日金曜日

ラカン「四つの言説」から「サントーム」へ、あるいは「文学」の顕揚

まずは、ミレールの直系の弟子Bruce Finkの『臨床ラカン派精神分析入門[A Clinical Introduction To Lacanian Psychoanalysis]』及びその読解より。フィンクの臨床論を読む(1)

【①要求に句読点を打ち、欲望の空間を開く】
聞き手としての分析家の能力は注目に値するものである。分析家は、分析主体の発言を「単なる」要求である以上のものとして絶えず「聞き」つづけることによって、要求の下や、要求の背後に垣間見える欲望の存する空間を開くことができる。実際、第二章で言及したように、分析の極度に重要なゴールは、要求の不変性と固着を通り抜け、欲望の可変性と可動性へと向かうことなのである。つまり、欲望を「弁証法化」することである。
分析は、分析主体の要求する言葉のうちに、欲望を見て取り、欲望の空間を開かなければならない。
欲望の空間を開くためにの技法が、「句読点を打つこと(スカンシオン)」である(ibid., p.15)。文章に句読点を打つことによって、その文章の意味が大きく変わるように、分析主体の発言に句読点を打つことによって、固着した意味から引き離すことができる。


②神託的な解釈が、現実界を叩く】
分析家はスカンシオンによって、分析主体の語る言葉の意味を決定する「大文字の他者」となる。この大文字の他者は、分析主体の要求の言葉のなかから、それ以上のもの(つまり欲望)を取り出すことが出来る。
しかし、分析家はいつまでもこのような「意味の主人」のポジションを占め続けるわけではない。フィンクが言うには、分析家は「解釈」をするときには、大文字の他者としての役割を辞任しなければならない(p.45)
これは、ラカン派の臨床で行われる「解釈」というものの性質のためである。「解釈」とは、分析主体の欲望に対して、噛み砕いた明瞭な意味を与えることでは決してない。解釈は、説明ではないのだ。むしろ、解釈は、オイディプスがデルフォイで得た「神託」のようなもの、つまり謎めいており多義的な「無意味のシニフィアン」を分析主体に与えることである。デルフォイの神託*2を授かったオイディプスのように、分析主体はその謎めいた言葉によって動揺させられる。これが、ラカンがローマ講演で語っていた「解釈の反響[les resonnances de l'interpretation](E289)である。晩年のラカンは解釈の「神託性」についてこのように語っている。
分析経験がオイディプス神話を威厳ある資格で扱うようになっているならば、それはオイディプス神話が神託の言表行為の切れ味[tranchant]を保っているからです。そして、付け加えるなら、解釈はつねに神託と同じレベルにあります。神託とまったく同じように、解釈はその続き[suites]なしには、正しくありません。
解釈は、「はい」や「いいえ」で〔「はい」や「いいえ」という分析主体の反応によって〕決着を付けられるような真理らしさの試験を行うものではなく、そのような真理の鎖をほどく[dechainer]ものです。解釈は、真に続く[vraiment suivie]限りで、正しいのです。(Lacan, S18, 1971/1/13)

ここで、ラカンの『四つのディスクール』の説明を思い出してみよう。

ラカン「四つの言説」  ジジェク)





分析主体の言説は、ヒステリーの言説であるから、つまりは「無意識の主体」から「主人=ファルス」へ向けての言説である。

ヒステリーの言説】
ヒステリー症者の言説は(……)その基本構成要素は、主人に対して向けられる、「どうして私は、あなたが言っているような私なのか」という問いである。
この問いは、ラカンが1950年代の初めに「創始する言葉founding word」と呼んだものに対するヒステリー症者の抵抗として生じる。

「創始する言葉」とは、私に命令することによって、象徴的ネットワークにおける私の場所を規定し確立する、象徴的委託を授与する行為である。「あなたは私の主人です(私の妻です、私の王です、等々)」。この「創始する言葉」に対して、つねに次のような問いが生じる。「私の中のいったい何が私を主人に(妻に、王に)しているのか」。いいかえると、ヒステリー症者の問いは、私を表象しているシニフィアン(社会的ネットワークにおける私の場所を決定する象徴的委託)と、私が「あそこにいる」ことの象徴化されていない剰余との、埋めようもない落差、割れ目の経験を分節表現している。両者の間には深い淵が口を開けている。

象徴的委託は、私の「実際的属性」によって基礎づけることも、それによって説明することも、絶対できない。なぜならその地位は定義からして「遂行文」の地位だからである。ヒステリー症者はこの「存在の問題」を体現している。彼あるいは彼女にとって根本的な問題は、(<大他者>に対して)自分の存在をどう正当化し、説明するか、である。

「主人」は、ヒステリーの主体の言説を、「大文字の他者」のポジションをとって引き受ける。つまりは「要求」として聞き届けた言葉を、言表内容そのままに受けとって応答する。「要求」には句読点は打たれていない(①参照)

【主人の言説】

主人の言説では、あるシニフィアン(S1)が、別のシニフィアン、あるいはもっと正確にいえば他のすべてのシニフィアン(S2)のために主体(S/:斜線のS)を表象する。もちろん問題は、この表象作用の作業が行われるときにはかならず、小文字のaであらわされる、ある厄介な剰余残余、あるいは「排泄物」を生み出してしまうということである。他の言説は結局、この残余(有名な<対象a>と「折り合いをつけ」、うまく対処するための、三つの異なる企てである。


つまり、単に象徴秩序として応答した場合、そこには「意味」の残滓が残る。そこで「知の言説=大学の言説」として、つまり「知」のネットワークを使用して、「欲望に句読点を打つ分析主体の発言に句読点を打つことによって、固着した意味から引き離」そうとする。


【大学の言説】

大学の言説は即座にこの残滓をその対象、すなわち「他者」とみなし、それに「知」のネットワーク(S2)を適用することによって、それを「主体」に変えようとする。これが教育のプロセスの基本論理である。「飼い慣らされていない」対象(「社会化されていない」子ども)に知を植えつけることによって、主体を作り出すのである。この言説の「抑圧」された真実は、われわれが他者に分与しようとする中立的な「知」という見かけの背後に、われわれはつねに主人の身振りを見出すことができるということである。

かくして、ヒステリーの言説の欲望は弁証法化された。だが、そこに留まってはならない。依然、知の言説=大学の言説は、「大文字の他者」あるいは「意味の主人」のポジションにあるのだ。真理の瞬間を垣間見るためには、大文字の他者としての役割を辞任しなければならない。

欲望の空間は開かれた。ここまでは「知識人」の範疇だ、あるいは哲学者、批評家の仕事であり、そんなことは「お勉強家」に任せておけ!

最後の仕上げは、真の「言葉=シーニュ」を奔ばらせることだ。ーーー《「解釈」とは、分析主体の欲望に対して、噛み砕いた明瞭な意味を与えることでは決してない。解釈は、説明ではないのだ。むしろ、解釈は、オイディプスがデルフォイで得た「神託」のようなもの、つまり謎めいており多義的な「無意味のシニフィアン」を分析主体に与えることである。デルフォイの神託*2を授かったオイディプスのように、分析主体はその謎めいた言葉によって動揺させられる。》

まずはネットワークの残滓と同一化することが必要だ。

【分析家の言説】
分析家の言説は主人の言説の裏返しである。分析家は剰余価値の位置を占めている。彼は直接に自分自尊をネットワークの残滓と同一化する。そのため、分析家の言説はその外見よりもはるかに逆説的である。それは、まさしく言説のネットワークから漏れた要素、そこから「脱落した」もの、その「排泄物」として生産されたものから出発して、言説を編み出そうとするのである。

だが、これで果たして「デルフォイの神託」が奔出されることができるだろうか。依然、意味としてのコミュニケーションの領域の内側にいるだけであり、真の核心には届かない。コミュニケーションの円環構造の内部に留まっている。


忘れてはならないのは、この四つの言説の母体は、コミュニケーションにおける四つの可能な位置の母体だということである。われわれはここでは、意味としてのコミュニケーションの領域の内側にいる。これらの用語のラカン的概念化に含まれたあらゆるパラドックスにもかかわらず、いやそれゆえにこそ、そうなのである。
もちろんコミュニケーションは逆説的な円のように構造化されている。その円の中では、送り手は受け手から自分自身のメッセージを反転された真の形で受け取る。つまり、われわれが言ったことの意味を決定するのは、外部にいる<他者>である(その意味で、S1に遡及的に意味を授ける真の主人のシニフィアンはS2である)。

象徴的コミュニケーションにおいて主体間を循環するものは、もちろん今日曲的には欠如・不在そのものであり、その不在が、「ポジティブな」意味が生成される空間を切り開くのである。だがこれらはすべて、意味としてのコミュニケーションの領域に内在するパラドックスである。無意味のシニフィアンそのもの、「シニフィエなきシニフィアン」こそが、他のすべてのシニフィアンの意味が可能になるための前提条件である。忘れてはならないことは、われわれがここで問題にしている「無意味」は意味の領域にとって厳密に内的なものであり、それは内部からその領域を「切断する」ということである。

ラカンの「四つのディスクール」はここまでである。ところが最晩年のラカンは「非・意味」の領域に向かう。
しかしラカンの晩年のすべての努力の目的は、この意味としてのコミュニケーションの領域を突破することである。ラカンは、明確で論理的に純化されたコミュニケーションおよび社会的束縛の構造を確立した後、四つの言説を経て、ある「自由浮遊の」空間の輪郭を描く作業にとりかかった。その空間内では、シニフィアンは言説による束縛、すなわち分節に先行する。それは、社会的束縛という「物語」に先行する「先史」の空間、つまり、言説のネットワークを擦り抜けるある精神病的な核の空間である。このことは、ラカンの『セミネールⅩⅩencore)』に見出される網ひとつの予期せぬ特徴を説明するのに役立つ。その予期せぬ特徴とは、シニフィアンからシーニュ(記号)への移行と同様の、<他者>から<一者>への移行である。This helps us to explain another unexpected feature of Lacan's Seminar XX (Encore): a shift,homologous to that from signifier to sign, from the Other to the One.

最晩年のラカンがジョイスに向かったというのはこのことである。(参照:資料:ラカン「サントーム」、あるいは「症例ジョイス」をめぐって)


「シニフィアンからシーニュ(記号)への移行と同様の、<他者>から<一者>への移行」は、つまりは、ドゥルーズが「プルーストとシーニュ」のなかで叙述した「アンチ・ロゴス」の領域でもある。(ニーチェ「ビタミンC説」補遺)
芸術のシーニュは、われわれに思考することを強制する。このシーニュは、本質の能力の、純粋な思考を作用させる。それらのシーニュは、思考の中で、積極的意志の最も依存しないもの、つまり、思考の行為そのものを始めさせる。(DW)

あるいはプルーストの記述そのものから引用すれば次のようになる。


知性が、明るい光の世界で、はっきりと直接的に把握する真実には、生活が、われわれの知らぬ間に、ひとつの印象の中で伝えた真実よりも、深みと必然性に欠けたものがある。……

知性だけで形成された観念は、論理的真理、可能的真理しか持っていない。そのような観念の選択は恣意的である。われわれによって記されたのではなく、形象化された文字による書物だけが、われわれの書物である。それは、われわれの形成する観念が、論理的に正しくありえないというのではなく、それらの観念が真実かどうかが、われわれにはわからないということなのだ。(プルースト)

もう一度ドゥルーズの言葉を引用する。
ソクラテスは、当然、次のように言うことができる。―――私は、友人である以上に愛であり、恋人である。私は哲学である以上に芸術である。私は、積極的意志であるよりも、しびれなまずであり、強制であり、力である、と。『饗宴』、『パイドロス』、『パイドン』は、三つの偉大なシーニュの研究である。(DW)

つまり、ラカンの「サントーム」とは「しびれなまず」である。

いまさら「文学の顕揚」などしてどうなる、今は、「情報」「コミュニケーション」の時代だよ、という言説がある。つまりは意味の領域での円環を突破することを視野からまったく外してしまったディスクール。

たしかに「物語」が機能する時代は終わったのかもしれない。ロラン・バルトは次のように語っている。(「父」の不在と、物語としての文学の終焉)

「父」の死は文学から多くの快楽を奪うだろう。「父」がいなければ、物語を語っても、何になろう。物語はすべてオイディプースに帰着するのではなかろうか。物語るとは、常に、起源を求め、「掟」との紛争を語り、愛と憎しみの弁証法に入ることではなかろうか。今日、オイディープスと物語が同時に揺らいでいる。もう愛さない。もう恐れない。もう語らない。フィクションとしてのオイディープスは少なくとも何かの役には立っていた。よい小説を作ることの、上手に物語ることの。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)

しかし、「しびれなまず」の領域の「文学」「芸術」が終わるわけではない。「情報」「コミュニケーション」に拘るばかりでは、「非・意味」の至高の輝かしさに触れることができるだろうか。

……言葉たるために耐えねばならぬ屈辱的な試練の嘆かわしい蔓延ぶりにもかかわらず、なお「批評」をめぐって書きつがれる言葉でありたいと願う湿った欲望たらしめているものが、言葉そのものの孕む不条理な夢の磁力といったものであり、しかも、その夢の目指すところのものが、言葉自身による「批評」の廃棄というか、「批評」からそれが批評たりうる条件をことごとく奪いつくすことで「批評」を抹殺し、無効とされた「批評」が自分自身を支えきれずに崩壊しようとするとき、かりに一瞬であるにせよ、どことも知れぬ暗闇の一劃に、人があっさり「文学」と呼んでしまいながら究めたこともないものの限界、つまりはその境界線を投影し、かくして「批評」の消滅と「文学」の瞬間的な自己顕示とが同時的に進行すべく言葉を鍛えておきたいという書くことへの背理の確認であるとすれば、誰しも、おのれ自身の言葉の幾重にも奪われているさまに改めて目覚め、書き、そして読むことの不条理に意気阻喪するのもまた当然といわねばならぬ。(蓮實重彦『表層批評宣言』より)


今、文学の顕揚が意味があるとしたら、かくのごとし、である。
そして「文学の顕揚」が時代錯誤である、などという言説は、いまだ小便くさいお勉強家の小僧たちに任せておけばよい。


「ヒステリーのディスクール」、あるいは「サントーム」に続く。