このブログを検索

2010年12月12日日曜日

デュシャン『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』(北山研二)




……では、こうした断絶や起源消去によってデュシャンは何をしたのだろうか。まず、具体的制作としての『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』を 考えることにしよう。それ以前の制作そしてそれ以後の制作はそれぞれ固有の問題とあり方があって、それらはそれらで系譜として論じるべきでなく、固有に論 じなければならないのだが、今日のところはそれらはこの『彼女の独身者たちによって裸にされた花 嫁、さえも』の部分的な生成とその異質的ヴァリエーションであると、つまり『彼女 の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』とは密接に関係がありながら、それら固有の隔たりをつねに確認できると言うに留めておきたい。実は、こうし たヴァリエーションこそ固有の意味生成とそれらの生成の「遅れ」を保証するのである。さも なければ、既成の文脈や解読表によってすべて回収されてしまうからだ。 さて、『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』にあっても、『階段を降りる裸体』で発見した現象としての、行為としてのエロティスムがやはり 継続される。このエロティスムには、機械へのフェティシスムのニュアンスが強いフュチュリスムとは質的に異なる動き、時間を内包した動きというものがあ る。『階段を降りる裸体』は、この動くエロティスムの二次元的定着ではない。三次元さらに四次元を同時に現前させようとする移動の動きの瞬間的切り取りの 連続的提示と見なせるからである。時間の問題も同時に提示されているのである。時間は見ることはできない。 それゆえ、見ることの限界、あるいは見ることの限界を見ることで時間の問題が提示されていると言ってもよい。そうであれば、そこでは既成の概念や思想は問 題にされていないことが分かろう。『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』では、エロティスムが総体としてはやはり問題であるにせよ、制作方 法は一変する。従来の絵画制作とは全く異なる。『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも 』は一つの作品ではない。それは、同じタイトルを持つ三つの現前からなる。<大ガラス>、<グリーン・ボックス>、<音楽的誤植>である。そして、いずれ も未完成のままであり、後年それぞれを未完成のまま発表してしまう。これは、進行中の制作プロセスの提示であって、それまでの作品概念からすれば作品では ない。展示を(あるいは商品価値を)前提にした近代絵画からすれば言語道断なことだ。しかも、見ようによってはエロティスムの戯画化とも見えてスキャンダ ラスでもあるからなおのことだろう。こうした見方が日本で流行してしまったのはなぜだろうか。どこかで狂ってしまった。たしかにデュシャンの友人ピカビア はそうすることもあったが、デュシャンが少し冷酷とも言えるユーモアを入れることはあっても、戯画化はしなかった。 この種のユーモアこそ、デュシャンの言葉遊びの重要な作用である。デュシャンは笑いの破壊作用と笑うために用いた言葉のずらしとを肯定し続けるのである。 <大ガラス>『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』は、そう呼ばれるように、ガラス上に油絵具・ニス・鉛線・鉛箔・ほこりなどによって諸形 象を定着したものである。これは構成的に見るならば、上下二枚のガラスに、上半分のガラ スには「花嫁」が、下半分のガラスには「独身者たち」が表示されている。下半分は、透視図法にしたがって幾何学的に表示されている。つまり三次元の形象の 二次元的 表示(投影)である。上半分は、たぶんガストン・パウロウスキーとかいう四次元に 詳しい(?)数学者に吹き込まれたらしい(あるいは吹き込まれたふりをした)ものだが、四次元の三次元表示の、さらにその三次元表示の二次元化(投影)な のである。そして、上下の「花嫁」と「独身者たち」によってタイトルの「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」つまり「花嫁はその独身者たち によって裸にされて、さえも」が文字どおりその過程として表示される。 では、なぜそう分かるのだろうか。<グリーン・ボックス>という断片的なメモ類を読むとそうらしい。これは、随時書きとったメモを順序も配列も関係なく箱 に入れたものである。細部については若干のヴァリアントがあるが、ともあれ、同じタイトルをもつ<グリーン・ボックス>は実に戦略的であることが分かる。 美術の制度や時代的文脈からこの<大ガラス>が見られ解釈されることを拒否するということなので ある。これはちょうど、レーモン・ルーセルが自分の作品の死後の開花を願って、文学的遺書ともいうべき『いかにして私は自分の本のいくつかを書いたか』を 残して彼のテクストの創作手法の秘密を明かしたのとよく似ている。デュシャンの場合、自作のメモを公表するとはどういうことだろうか。それは、美術の制度 や時代的文脈とは異なるところに、テクストなり制作なりが成立しうることのマニフェストであり(歴史という誘惑とその補強の拒否でもあり)、またそうした 既成のジャンルとは無縁の創作のあり方の証明でもあろう。<グリーン・ボックス>は、「花嫁」と「独身者たち」がつくるタイトルのような物語として読める ことは読めるのであるが、細部とな ると実に多様な逸話と方法的探求に満ちていて、これらのメモの実現をそっくり<大ガラス>に発見するのは難しい。実際デュシャンは<大ガラス>を完成せず に展示したからなおのことそうである。実は、この未完成ということが極めて重要なのである。完成してしまえば、この『彼女の独身者たちによって裸にされた 花嫁、さえも』が 一つの物語として完成してしまうし、完成した物語があれば、デュシャンが嫌悪したはずの制度ができあがってしまうのである。デュシャンの未完成とは、新し い制作という完結的物語の罠に陥らないための戦略なのである。これは、近代主義が陥り続ける罠でもある。



最後に、<音楽的誤植>のことだが、こ れは作曲を偶然に委ねる方法を指示する。 音符一つ一つを偶然に任せて五線譜に配置する。こうすれば、作曲は偶然しか関与しない。演奏については、デュシャンは自動ピアノや自動オルガンがよいとす る。<音楽的誤植>は、『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』という前二者と同じタイトルを持つが、どうしてそうなのだろうか。二つのこと が考えられる。偶然と音・声の問題だ。まず、偶然はデュシャン的制作に深く関与する。たとえば、『三つの停止原基』は偶然がつくった定規であり、これは <大ガラス>に組織的に使用される。あるいは、おもちゃのピストルでつくった「九つの射撃痕」も同様である。 デュシャンが偶然を用いて巧妙に回避したかったのは、手作業の馬鹿さ加減や無意識 的表現の関与なのである。偶然によって、個人の趣味や無意識な美意識から切断できるからである。ここでは近代的な表現の二分法、表現主体と表現内容の分割 の回避が試みられているともいえる。つぎに、音・声への関心は、デュシャンが地口を愛好していたことから証明される。声・音は、発語されると同時にしかじ かの対象をイメージさせるが、それと同時にまた地口・類似音によって別なイメージもつくってしまうため、声・音はつねに生成=ずらし=生成、あるいは生 成=破壊=生成の過程におかれる。また、<グリーン・ボックス>は書いたメモであるが、これもまた言語であるのだから声・音なのである。声・音が生成=破 壊=生成の過程にあるからには、<グリーン・ボックス>の決定的最終的意味も確定しないし、したがって声・音を見せるという<大ガラス>も同じことにな る。見ることの特権化は失効する。デュシャン以前の絵画は見ることの特権化そのものだった。あえてこれに対抗するには、見ること、聞くこと、感じること、 考えること、そして想像することを同列におくなければらない(考えること、想像することについていえば、言うまでもなく<グリーン・ボッ クス>は果てしない思考と想像の過程の提示である)。 さて、三つの『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』を通じて横断 的に提起してくる問題がある。見ること、聞くこと、感じること、考えること、そして想像することである。これらは、もちろんルーセルのテクスト群が提起す るものでもあるが、それだけでなくデュシャンがルーセルの影響下に入ると決断してから研究 にいそしんだ遠近法の問題とも切り放せない。実際、<大ガラス>の下半分は線遠近法(透視図法)で制作されている。それでは、透視図法はどのようにして構 成されたのだろうか(『マルセル・デュシャン全著作』ミシェル・サヌイエ編、未知谷。「訳者あとがき」pp466-467参照)。見ること、聞くこと、感じること、考えること、そして想像すること ----三つの『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』