【母が欲望するファルスへの欲望】
……両性の相互的な位地にたどりつくために男性から始めるならば、ファルス=少女――この等式はフェニケルによって賞賛に値する、しかし手探りなや り方によって提出されたものです――がウェーヌス山において増殖し、男性が自分のパートナーを構成する「あなたは私の妻だ」を超えたところに位置づけられ ることを理解しましょう。すなわち、主体の無意識から再び現われるものは<他者>の欲望、つまり<母>が欲望するファルス〔への欲望〕である、ということ がここで確かめられているのです。それ以後、現実のペニスが――なぜなら現実のペニスは女性の性的パートナー〔である男性〕に属していますから――女性を二つとない愛着 [attachement]にささげるかどうかを知るという問題がおこります。しかし、その問題は、ここで自然に起こってくると推定される近親相姦的欲望 を除去する効果を生じさせることはありません。
※ラカンにとって、両性とも、その原初的欲望は、母の欲望、あるいは母における欲望であり、それはつまりファルスであって、男女とも、ファルスへの同一化がおこる。
母親の欲望とは子どもが母親にたいして持つ欲望という客体的意味もあるが、それよりもまして母親の持っている欲望という主体的な意味が決定的である。母親はまず欲望を持っている者とされるのだ。そして人間の欲望は他者の欲望であるという定式から、子供にとって他者はまず母親であるから、子供の欲望は母親の欲望、つまり母親を満足させようという欲望となる。母親の前で子供は母親を満足させる対象の場にみずからを置き母親を満足させようとする。つまり母親のファルスとなる。「ファルス」と「享楽」をめぐって (向井雅明)
【女性への崇拝の覆い=ファルス】
なぜ以下のようなことを認めないのでしょうか? じっさい、去勢が捧げない男らしさはないとすれば、それは去勢された愛人 [amanta]か死んだ男(あるいはその二つの混ぜ合わせ)であり、女性にとってその男性は、女性の崇拝[adoration]を呼びおこすために覆い の後ろに隠れています。すなわち、本当は女性には係わりのない去勢が女性にやってくる源泉である母親の同類[semblable]の彼岸の同じ場所から男 性は呼びかけているのです。このように、抱擁に似た受容性はペニスについての鞘のような感受性に移動させられなければならないということは、この理念的インキュバスのためなのです。これは、女性が行うであろう(欲望にささげられた対象としての女性の身の丈に応じた)想像的同一化のすべてによって、つまり幻想を下支えするファルス的原器[etalon]との想像的同一化のすべてによって邪魔されます。〔女性の〕主体が純粋な不在と純粋な感受性のあいだに捕らわれている自分を発見する「あれか―これか[ou bien-ou bien]」の位地において、私たちは欲望のナルシシズムがそのプロトタイプである自我のナルシシズムと関係があるということに驚いてはいけません。このような巧妙な弁証法によって取るに足りない存在[etres insignifiants]が住まわれているという事実は、分析が私たちに慣れ親しませてくれるものであり、自我のささいな欠点はその平凡なことであるということがそれを説明してくれます。
※ジジェクによれば、男は女に化けることしかできない。女だけが、女に化けている男に化けることができる。なぜなら女だけが、自分の真の姿に化ける、つまり女であるふりをすることができる。
女の同性愛は倒錯的ではなく、男の同性愛だけが倒錯である、とラカンが仮定するのも、このことであろう。資料:「ファリック・マザー」「仮装」「同性愛」などをめぐって (ラカン)参照。たとえば、ミレールの指摘。
「私 たちがA/(斜線を引かれた<他者>)と書くとき、A(<他者>)は去勢されています。そして、この意味において倒錯は去勢についての恐怖、本質的に<他 者>の去勢についての恐怖であると言えるでしょう。このために、女性の同性愛は特にパラドキシカルなのです。なぜなら、女性の同性愛においては、器官の不 在〔=ペニスの不在〕が、愛の条件として機能しているからです。これが、ラカンが女性の同性愛が倒錯であると認めるのをためらう理由です。女性の同性愛 は、倒錯的満足の領野より、むしろ愛の領野に構成されています。」("On Perversion", in Reading Seminar I and II, p.317)
ラカンのこのあたりの議論は、ラカンが再三引用する、ジョーン・リヴィエール「仮装としての女性性」に示唆を受けているはずだ。バトラーもこの論文を引用してはいるのだが、ラカンの解釈とは異なっているようにみえる。
【秘儀のシニフィアンの覆いをとる役割としての女性】
キリストの姿は、この観点からいっそう昔の他者の姿を呼びおこし、主体の宗教的忠義[allegeance]が含んでいるものより広大な 審級[instance]を担っています。そして、もっとも隠されたシニフィアン、つまり秘儀[Mysteres]のシニフィアンの覆いを取ること [devoilement]は女性に割り当てられた[reserve]ことである、ということを指摘しておく価値があります。
いっそう俗っぽい水準で、私たちは以下のことを説明することができます――a)主体の二重性[duplicite]が女性では隠されていると いう事実、パートナーの隷属が男性を特に去勢の犠牲者を代表しがちにさせるだけにこれはなおさらです、b)<他者>が誠実であること[fidelite] の要請[exigence]が女性に特別の特徴となっていることの真の動機、c)女性がこの要請を、自分自身の誠実を前提にした議論によっていっそう正当 化しているという事実。
※人類の罪を自分の身に引き受け無実のイエス・キリストをラカン的に解釈し直すとどうなるか。ここでもジジェクの解釈を引用しよう(Looking awryp151)。
罪人たちの罪を引き受け、その贖罪をするということは、罪人たちの欲望を自分のもとと認めるということである。キリストは他者(罪人)の場所から欲望するーーーこれが彼の罪人への共感の基盤である。リピドー経済という面からみて、もし罪人が倒錯者だとしたら、キリストは明らかにヒステリー症者だ。なぜならヒステリー症者の欲望は他者の欲望である。言い換えれば、ヒステリー症者について発せられる問いは、「彼/彼女の欲望の対象は何か」ではない。真の謎が表現されているのは、「彼/彼女はどこから欲望しているのか」という問いである。したがって、明らかにしなければならないのは、自分自身の欲望に同意できるためには、ヒステリー症者は誰に自分を同一化しなければならないか、である。
※補足資料:ラカン「女=ファルス」をめぐって