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2014年10月26日日曜日

「美しい旋律にもまして趣味を台なしにするものは何ひとつとしてない!」(ニーチェ)

ニーチェは最終的には『力への意志』という標題の書物を断念したという見解が有力で ある。 しかし、 「あらゆる価値の価値転換」 というモチーフは維持されていたと考えられて いる(大石紀一郎ほか編『ニーチェ事典』 (弘文堂、1995 年)の大石紀一郎氏による「ニ ーチェ年譜」および三島憲一氏による「さまざまなニーチェ全集について」参照) 。 『力へ の意志』 の標題が計画されていたことは、 本文中に引用した通り、 『道徳の系譜学』 の中で も記されているのであるから、 『道徳の系譜学』 以後に計画の何らかの変更があったと考え られる。(ニーチェ『道徳の系譜学』における「無への意志」の階層性と両義性について 松田愛)

ーーという文章を読んだが、『道徳の系譜』における『力への意志』への言及は次の通り。

――もう沢山だ! もう沢山だ! われわれは最も近代的な精神のこの珍奇と複雑から眼を転じよう。それは滑稽であるとともに嫌悪すべきものである。(……)そうした事柄については、私は他の機会においてもっと根本的に、またもっと厳密に論及するつもりである(『ヨーロッパのニヒリズムの歴史について』という標題のもとに。これに関して私は、私の目下準備しつつある著作、すなわち『力への意志、あらゆる価値の価値転換の試み』を紹介しておく)。(ニーチェ『道徳の系譜』木場深定訳 p204)

松田愛さんの論に《『道徳の系譜学』 以後に計画の何らかの変更があったと考え られる》とあるが、ではどんな変更があったとするのか。「力への意志」概念には飽きてしまったのなら、なんのせいか、――こういった問いはどうでもよいかもしれないが、乗りかかった船ではあり、すこし探ってみることにしよう。

大いなる年、1888年が来る。『偶像の黄昏』、『ワーグナーの場合』、『アンチクリスト』、『この人を見よ』。あたかもニーチェの創作能力が激しくかき立てられ、崩壊に先立ってその最後の飛躍を遂げたかのように、一切は進行したのである。偉大な技量を示すこれらの作品においては、トーンさえも変化する。ある新しい暴力性があり、〈超人〉的なものが持つコミック性のように、新たなユーモアが見られる。(ドゥルーズ『ニーチェ』湯浅博雄訳 p24)

この大いなる年の作品、――ハイデガーも別の意味でだろうが、ニーチェのプラトニズムの転倒からの真の転回脱出が《ニーチェの創造の最後の年(1888年)にはじめて明確になしとげられた》(ハイデガー『ニーチェ』)と言っているーー、この、1889年初頭に狂気に陥る前年、かの大いなる年に書かれた著作に、『力への意志』を放り出すような痕跡がなにかあるのか。

芸術家はいまや俳優となり、その芸術はますます虚言の才能として発達してゆく。私は(『芸術の生理学によせて』という標題の私の主著の一章において)以下のことを詳細に示す機会をもつであろう、すなわち、芸術の俳優的もののうちへのこの総体的変化は、まさにまぎれもなく生理学的退化の一つの現われ(もっと精確には、ヒステリー症状の一形式)であって、この点はヴァーグナーによって開始された芸術のそれぞれの頽廃や脆弱さも同様であり、その実例は、瞬間ごとに立場を変えるのに必要なこの芸術の観点の動揺においてみられることを。(ニーチェ『ヴァーグナーの場合』1888年のトリノ書簡  原佑訳p308)

というわけで、他にもあるのかもしれないが、『芸術の生理学によせて』という痕跡を見つけ出しただけでわたくしは満足しておく。大いなる年における文体の音調の変化については、ヘルダーリンとそれを解釈するアガンベンの言葉でも抜き出しておくことにしよう。

「すべてはリズムであり、あらゆる芸術作品が唯一のリズムであるように、人間の運命全体は、天上の一なるリズムである。そして一切は、神の吟唱する唇によって振動する……」(ヘルダーリン)

ーー《アガンベンはヘルダーリンを解釈して、「芸術作品」とは真理を開くための根源的な「空間」であると把捉する。この空間は、「人間という世界内存在の構造、および人間が真理や歴史と結ぶ関係の構造そのものが賭けられているような次元」を意味している》とのことだそうだ(マルティン・ハイデッガー『芸術作品の根源』×ジョルジョ・アガンベン『中身のない人間』)。

・この空間の中で初めて人間は、地上における自己の居住の根源的な尺度を測り、直線的な時間の途切れることのない流れの中に現存する自己の真理を見出すことができるのである

・芸術作品を経験する時、人間は<真理>のうちに、言い換えればポイエーシス的行為においてようやくヴェールを剥がされる始原のうちに直立しているのである」(アガンベン『『中身のない人間』)

おわかりであろうか、わたくしの伝えたいことが。ーーなんだと? まだわからないだと? ではしかたがない、くどくなるのを怖れないでもないが、こう引用しておこう。

・・・おお、このギリシア人たち! ギリシア人たちは、生きるすべをよくわきまえていた。生きるためには、思いきって表面に、皺に、皮膚に、踏みとどまることが必要だった。仮象を崇めること、ものの形や音調や言葉を、仮象のオリュンポス全山を信ずることが、必要だったのだ! このギリシア人たちは表面的であった。深みからして! そして、わたしたちはまさにその地点へと立ち返るのではないか、--わたしたち精神の命知らず者、わたしたち現在の思想の最高かつ最危険の絶頂に攀じのぼってそこから四方を展望した者、そこから下方を見下ろした者は? まさにこの点でわたしたちはーーギリシア人ではないのか? ものの形の、音調の、言葉の崇め人ではないのか? まさにこのゆえにーー芸術家なのではないか。(ニーチェ KSA 3,S.352ーー聖者と道化、あるいはニーチェとラカン


ところで上に引用した『ヴァーグナーの場合』には、《芸術家はいまや俳優となり、その芸術はますます虚言の才能として発達してゆく》とあり、「俳優」と語が出てくるが、この言葉をただひたすら嘲弄語彙と勘違いしてはならない。ニーチェの俳優の捉え方には両義性がある。

徳の俳優と罪の俳優。――徳のために有名になった古代の人々の間には、自分自身に対して俳優を演じた人々が数えきれないほど多数いたように思われる。ことにギリシア人は、根っからの俳優であるから、このことをまさしく全く無意識的に行ない、よいことだと思ったであろう。その上各人は自分の徳で、ある他人の徳または他のあらゆる人々の徳と競争していた。自分の徳を見せびらかすために、何よりもまず自分自身に見せるために、練習のためにさえも、あらゆる手段に訴えてどうしていけないのだろう? 示すこともできず、示し方を心得てもいな徳が何の役にたとうか! ――これらの徳の俳優たちを阻止したのは、キリスト教である。その代わりにキリスト教は、罪の不快な顕示と誇示を案出し、捏造された罪深さを世界にもちこんだ(今日にいたるまで、立派なキリスト教徒の間では、これが「上品な作法」と見なされている)。(ニーチェ『曙光』29番 茅野良男訳)

そして『ツァラトゥストラ』にはこうある。

・かれらのうちには自分で知らずに俳優である者と、自分の意に反して俳優である者とがいる。――まがいものでない者は、いつもまれだ。ことにまがいものでない俳優は。

・やめよ、おまえ、俳優よ、贋金造りよ、根柢からの嘘つきよ。おまえの正体はわかっている。

・おまえ、孔雀のなかの孔雀よ、虚栄心の海よ。何をおまえはわたしに演じてみせたのだ。よこしまな魔術師よ、(……)

・よこしまな贋金造りよ、おまえにはほかにしようがないのだ。おまえは医者に裸を見せるときでも、おまえの病気に化粧をするだろう。。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳)

 このように、ギリシア人の「徳」の俳優が顕揚され、キリスト教的な贋金造りーー「罪」の俳優が貶められているわけだ。

ギリシアの神々(……)。高貴で自主的な人間の反映たるあの神々にあっては、人間のうちにある動物は自分を神のように感じたので、従って自分自身を喰い裂くこともなかったし、自分自身に対して狂暴を仕かけることもなかったのだ! あのギリシア人たちは極めて長い間、彼らの神々を実に「良心の疚しさ」を寄せつけざらんがために用い、彼らの精神の自由を愉しみ続けえんがために用いた。つまり、彼らは神々をキリスト教のおける用い方とは正反対の意味において用いたのだ。彼らはーーその素晴らしいし、獅子のような心をもった子供たちは、この道をずっと遠く進んで行った。(……)

オリュンポスの目撃者かつ審判者が(……)、人間を怨んだり悪く思ったりは決してしないのを聞き、また見るであろう。「奴らは何と愚かなのだろう!」と彼は死すべき者たちの非行を見て思うーーそして、「愚かさ」・「無分別」・少しばかりの「頭の狂い」、これだけは最も強く、最も勇敢な時代のギリシア人といえども、多くの凶事や災厄の原因として許したーー愚かさであって、罪ではないのだ! 諸君にはそれがわかるか……しかしこの頭の狂いすらも一つの問題であったーー「そうだ、そんなことが一体どうして可能なのか。それは一体どこから来たのか。われわれ高貴な素性の人間、幸福な人間、育ちのよい人間、最もよい社会の人間、貴族的な人間、有徳な人間のもっているような頭に?」ーー数世紀にわたってあの高貴なギリシア人は、自分の仲間の一人が犯した合点の行かぬような悪虐無道に面する度ごとにそう自問した。「きっと神が瞞したのに違いない」とついに彼は頭を振りながら自分に言った…… この遁辞はギリシア人にとって典型的なものだ…… このように当時の神々は、人間を凶事においてさえもある程度まで弁護するに役立った。すなわち、神々は悪の原因として役立ったーー当時の神々は罰を身に引き受けないで、むしろより高貴なものを、すなわち罪を身に引き受けたのだ……(『道徳の系譜』p111-113)

ここでギリシアに学んだ--おそらくニーチェ経由でーーフーコーの『性の歴史』における克己enkrateia、節制sophrosyneを持ち出してもよいが(参照:プラトンとフロイトの野生の馬)、長くなりそうなので、いまはひたすらニーチェメモに徹することにする。

わが友らよ、私たちが理想に本気であるなら、私たちは誹謗しよう、私たちは旋律を誹謗しよう! 美しい旋律にもまして危険なものは何ひとつとしてない! それにもまして確実に趣味を台なしにするものは何ひとつとしてない! わが友よ! 人がふたたび美しい旋律を愛するときには、私たちは見捨てられていうのである! ・ ・ ・

原則、旋律は非道徳的である。証明、パレストリーナ。応用、『パルジファル』。旋律の欠如はそれ自身神聖にする・ ・ ・(『ヴァーグナーの場合』p305-306)

おわかりだろうか、ベルニーニにぞっこんの諸君たちよ!




頽廃は一般化している。病気は深部にある。ベルニーニが彫刻の荒廃の代名詞であるように、ヴァーグナーが音楽の荒廃の代名詞であるとしても、それだからとて彼はその原因であるのではない。彼はその荒廃のテンポを速めたにすぎない(『ヴァーグナーの場合』「第二のあとがき」p337)



ワーグナーを聴くなら、へなへなした美貌歌手ではなく、ギリシアの神々の生れ変りのようなジェシー・ノーマンで聴くべきだ、彼女ならニーチェもきっと許してくれることあろう。






わたくしはどちらかというと神々への幅がひろいほうなので、ジェシー・ノーマンほどではなくても、ノアルスイユ夫人タイプの歌手であれば許すことにしているが。

「ああ、そんなことあたしに何の関係があるのでしょう? あたしはすべてを感動によって判断します。あなたの兇行の犠牲となったあたしの家族は、あたしに何の感動も生ぜしめてはくれませんでした。けれどあなたがあたしにしてくれたあの犯罪の告白は、あたしを熱狂させ、何とお伝えしていいか分らないほどな興奮の中へ、あたしを投げこんでくれました」(『悪徳の栄え』マルキ・ド・サド澁澤龍彥訳)

おわかりであろうか、わたくしの趣味が。それとも諸君と同じように美しき魂の持ち主を愛するべきなのだろうか、《完全に不埒な「精神」たち、いわゆる「美しい魂」ども、すなわち根っからの猫かぶりども》を。

女という女はわたしを愛するーーいまさらのことではない。もっとも、かたわになった女たち、子供を産む器官を失った例の「解放された女性群」は別だ。 ――幸いにしてわたしには、八つ裂きにされたいという気はない。完全な女は、愛する者を引き裂くのだ ……わたしは、そういう愛らしい狂乱女〔メナーデ〕たちを知っている ……ああ、なんという危険な、足音をたてない、地中にかくれ住む、小さな猛獣だろう! しかも実にかわいい! ……ひとりの小さな女であっても、復讐の一念に駆られると、運命そのものを突き倒しかねない。 ――女は男よりはるかに邪悪である、またはるかに利口だ。女に善意が認められるなら、それはすでに、女としての退化の現われの一つである ……すべての、いわゆる「美しき魂」の所有者には、生理的欠陥がその根底にあるーーこれ以上は言うまい。話が、医学的(半ば露骨)になってしまうから。(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳)

我が日本にも味方がいるではないか! もっとも荷風や谷崎の女は、歌をうたうのはひどく下手そうではあるが。

毒婦の第一の資格は美人でなければならぬ。其れも軽妙で、清洒で、すね気味な強みを持つてゐる美人でなければならぬ。其れ故、毒婦が遺憾なく其の本領を発揮する場合には観客は道義的批判を離れて、全く芸術的快感に酔ひ、毒婦の迫害に遭遇する良民の暗愚遅鈍を嘲笑する(永井荷風『虫干』ーー倒錯と女の素足(谷崎潤一郎)
幾十人の男の魂を弄んだ年増のように物凄く整って(……)国中の罪と財との流れ込む都の中で、何十年の昔から生き代り死に代った麗しい多くの男女の、夢の数々から生れ出いづべき器量(谷崎潤一郎『刺青』)
…………

《私は少しばかり窓を開けたい。空気を! もっと空気を!》(『ヴァーグナーの場合』p300)

よい空気が大切なのだ! よい空気が大切なのだ! そしてとにかく文化のあらゆる癲狂院や病院の傍を離れることだ! だからこそ良い仲間が大切なのだ! いずれにせよ、内向的な頽廃と内密な病人の虫害とが放つ悪臭から遠ざかることだ!…… わが友らよ、われわれがそれこそわれわれ自身のために取っておかれたかもしれないあの二つの最も悪性の疫病から少なくともなお暫くの間実を守るために、――人間に対する大なる吐き気から! 人間に対する大なる同情から!…… (ニーチェ『道徳の系譜』木場深定訳 p158)

という具合ではあるがニーチェはワーグナーにぞっこんだった自らを恥じているわけではまったくない。

――私自身が、かつて、私の「若年」のとき、ショーペンハウアーとリヒアルト・ヴァーグナーとに関して書いたこと、書いたというよりむしろ描いたことーーおそらくあまりにも大胆に、気力にあふれて、若さにあふれて、塗りたての漆喰壁にーーそれを私は今日「真」と「偽」にもどついて詳細に吟味しようとはいささかも思わない。しかし、私が当時見当ちがいをしていたとしても、私の誤りは、前記の二人にとっても、私自身にとっても、少なくとも不名誉にはなっていない! そうした見当ちがいをするということは、相当のことであり、ほかならぬ私をこのように誤りへと誘惑するということも、やはり相当のことである。(ニーチェ「「ヴァーグナーの場合」のための最初の覚え書き」 P475)
哲学者が最初にして最後におのれに求めるものは何であろうか? おのれの内なるその時代を超克すること、「無時間的」となることである。それでは彼は何とそのこのうえなく苛烈な死闘をまじえるのか! まさしく彼がその点で時代の子であるそのものとである。よろしい! 私はヴァーグナーと同様この時代の子である、言ってよいなら、デカダンであるが、ただ私はこのことをわきまえていた、ただ私はこのことに対して抵抗した。私の内なる哲学者がそれに対して抵抗したのである。


私が最も深くたずさわってきたもの、事実それはデカダンスの問題であった、――私はそのために理由をいくつかもっていた。「善と悪」はあの問題に一変種にすぎない。衰退の特徴について眼識をそなえてしまえば、道徳の心得もまたそなわる、――道徳のこのうえなく神聖な名称や価値定式のしたに何が隠されているのかがわかるのである。すなわち、それは貧困化した生、終末への意志、大きな疲労にほかならない。道徳は生を否定する・・・そうした課題のために私には自己訓練が必要であったのである、すなわちーーヴァーグナーをもふくめて、ショーペンハウアーをもふくめて、全近代的「人間性」をもふくめて、身に深い疎遠、冷淡、幻滅、しかも最高の願いとしては、ツァラトゥストラの眼、人間という全事実を途方もない遠方から見渡す眼、――おのれの下に見おろす眼・・・そのような目標――どのよおうな犠牲もそれに相応しないのではなかろうか? どのような「自己超克」も! どのような「自己否認」も!

私の最大の体験は一つの快癒であった。ヴァーグナーはたんに私の病気のうちの一つにすぎない。

私がこの病気に対して忘恩であろうとすると言うのではない。私はこの著作でもって、ヴァーグナーは有害であるとの命題を堅持するとしても、それに劣らず私は、それにもかかわらず彼が誰にとって不可欠であるかということも堅持しようと思うーーそれは哲学者にとってである。さもなければ人はおそらくヴァーグナーなしでやってゆくことができるであろうが、ヴァーグナーなしですますことは、哲学者の勝手にはならないのである。哲学者はその時代の良心のやましさでなければならないがーーそのためには哲学者はその時代の最良の知識をもっていなければならない。しかし哲学者は近代的魂の迷路にとって、ヴァーグナーにもまして通暁した道案内人を、雄弁な精通者を、どこに見いだすことができようか? ヴァーグナーをつうじて近代性はその最も親密な言葉を語っている。すなわち、それはその善いところも悪いところも包み隠さず、それはおおれに対するすべての羞恥を忘れてしまっているのである。また逆に、ヴァーグナーでみられる善と悪に関して明らかとなるなら、近代的なものの価値に関して決着をつけたも同然である。――私には、「私はヴァーグナーを憎むが、私にはもはや他の音楽は耐えられない」と今日誰か音楽家が言うなら、それは完全に理解できる。しかしまた私には、「ヴァーグナーは近代性を要約している。どうにも仕方がない、まずヴァーグナー主義者とならざるをえない・・・」と言明する哲学者の心も、わかることであろう。(『ヴァーグナーの場合』「序言」p285-287)

 さて、「諸君、おわかりであろうか?」ーー、私はこれにていささか肩の荷をおろすことにする。《「優れたものは軽やかであり、一切の神的なものは華奢な足で走る」、これが私の美学の第一命題である。(……)このことでそれは、音楽における多足類とは、「無限旋律」とは反対のものとなる》

フーコーがすでにとっくの昔にいっているように、数々の美しいイマージュをーーわたくしはこれを「数々の美しい旋律を」と翻訳するのだがーー、創り出すのではなく、イマージュを(美しい旋律を)ときほどし、炸裂させた処に顕現するギリシアの神々の軽やかな透明さを愛でるべきであるーーとすれば、あのギリシアの神々の生まれ変わりジェシー・ノーマンは軽やかで華奢な足をもっているといえるのだろうか?--

フィクションはもはや数々のイマージュを倦むことなく生産し輝かせる能力であるべきではなく、逆にそれらイマージュの結びつきをほどき、すべての過重からくる負担を軽くしてやり、内的な透明さ、それらイマージュを少しずつ照らしだしてついにはそれらを炸裂させ、想像し得ぬものの軽やかさのうちにそれらを散らばせる透明さをもってそれらの住処とするような力であるべきなのだ。(フーコー『外部の思考』――モーリス・ブランショ論)

…………

ここに附録のようにしてつけ加えるとするなら、ニーチェの1888年における転回、これについては小林秀雄やクロソウスキーなどによる1887年のドストエフスキーとの出会いの影響の指摘もある。

ニイチェは、「ツァラトゥストラ」を音楽だと言っている。比喩ととるのは間違いだ。音楽は、まさしく、かくのごときものとして、彼には聞えていたのだと私は思う。もう一つ奇怪な例をあげよう。彼の一生で彼を本当に驚かした書物が三つある。二十一歳の時読んだショウペンハウエルの主著、三十五歳で出会ったスタンダアルの「赤と黒」、四十三歳の時、偶然仏訳を手にしたドストエフスキイの「地下室の手記」、この三番目の書を読んだ当時の手紙で、彼は昂奮して書いている、他に言いようがないから言うのだが、これは私を歓喜の頂まで持って行った血の声だと言う。第二部は、「汝自身を知れ」というパロディイに関する天才的な心理学だが、第一部は全く非ドイツ的な(ドイツという言葉は、ニイチェの用いた最大の反語の一つであることに注意したい)世にも不思議な音楽だと言うのである。「地下室の手記」を読んだ人に、これが音楽として聞えて来る耳を私は要求したいのだ。これが音楽家ニイチェの鍵だ。……(小林秀雄「ニーチェ雑感」ーー山師ニーチェ
The sick are rehabilitated for having a greater compassion and, at the same time, for having 'invented' malice; ageing, decadent races are rehabilitated for possessing more spirit; thefool and the saint are rehabilitated - and opposed to the 'genius' and the 'criminal adventurer', who are here united in a single affective genus. Such revisionism, in Nietzsche, was due in large part to his discovery of Dostoevsky. For even if they derived opposite conclusions from their analogous visions of the human soul, Nietzsche could not help but experience, through his contact with Dostoevsky's 'demons' and the 'underground man', an infinite and incessant solicitation, recognizing himself in many of the remarks the Russian novelist put in his characters' mouths.(『 Nietzsche and the Vicious Circle』PIERRE KL,OSSOWSKI Translated by Daniel W. Smith)


2014年10月24日金曜日

「関係構造」は事物の存在より重要である

私は仕事のための場をふたつもっている。ひとつはパリに、そしてもうひとつはいなかに。二ヶ所に、共通の品物はひとつもない。何ひとつとして運んだことがないからだ。それにもかかわらず、これらふたつの場所は同一性をもっている。なぜか? 用具類(用紙、ペン、机、振子時計、灰皿)の配置が同じだからである。空間の同一性を成立させるのはその構造なのだ。この私的な現象を見ただけでも十分に、構造主義というものがはっきりわかるだろう。すなわち、体系は事物の存在より重要である、ということだ。(『彼自身によるロラン・バルト』)

…………

天動説のままの阿呆鳥、あるいは「死の欲動」」にて、柄谷行人の「或る関係構造の項」をめぐる叙述を引用した。ここでもうすこし関係の構造――これはマルクスの価値形態論に起源(のひとつ)があるーーをめぐってメモしてみよう。

柄谷行人の"Revolution and Repetition"(「革命と反復」)にはこうある。おそらく日本語原文があるのだろうが、わたくしは手元に英文しかないので、まずこれを貼り付ける。

I believe that there is a repetition of history, and that it is possible to treat it scientifically. What is repeated is, to be sure, not an event but the structure, or the repetitive structure. Surprisingly, when a structure is repeated, the event often appears to be repeated as well. However, it is only the repetitive structure that can be repeated.

《私は歴史に反復があると信じている。そしてそれを科学的に扱うことが可能である。反復されるのは、たしかに、出来事ではなく、構造あるいは反復構造である。驚くべきことに、構造が反復されると、出来事も同様に反復されて、しばしば現われる。しかしながら、反復されるのは反復構造のみである。》とでも訳せる文であろう。

 ところで、柄谷行人は、90年代、システム/出来事、記録/記憶を語った、《それは、システムと出来事の違いだし、記録と記憶の違いだね》(「悪い年」を超えて 浅田彰・坂本龍一・柄谷行人による鼎談 1996-9

これは次の文脈の流れのなかの発言である。

坂本:情報と経験の違いでもある。
(……)
浅田:ドゥルーズの『差異と反復』じゃないけど、記憶というのは常に差異の反復なんで、しかしだからこそ真実なわけじゃない? 全く同じものがコピーされてくるんだったら、記録の再生だけで、そこに本当の反復はない。

とすれば、柄谷行人が反復構造の反復を主張するとき、システムの反復を言っているのだろうか、それとも出来事の反復を言っているのだろうか。通常は、「構造」と言えば前者である。だが反復構造は記録ではなく記憶であるとも考えられないものだろうか。

さあて、ドゥルーズの『差異と反復』もつまみ読みをしただけであり、最近の柄谷行人の仕事にも疎いわたくしは首を傾げて思案するふりをしてみる。

次の文はプルーストの「レミニッサンス=無意識的想起」をめぐるなかで語られ、「純粋過去」の議論に発展していくなかでのドゥルーズの「反復」である。

それら二つの現在〔古い現在と現働的な現在〕が、もろもろの実在的(レエル)なものからなる系列のなかで可変的な間隔を置いて継起するということが真実であるとしても、それら二つの現在はむしろ、別の本性をもった潜在的対象に対して共存する二つの現実的な系列を形成しているのである。しかもその別の本性をもった潜在的対象は、それはそれでまた、それら二つの現実的な系列のなかで、たえず循環し遷移するのだ(たとえ、それぞれの系列のもろもろの位置や項や関係を実現する諸人物、つまり諸主体が、それらとしては依然、時間的に区別されているにしてもである)。反復は、ひとつの現在からもうひとつの現在へ向かって構成されるのではなく、むしろ、潜在的対象(対象=x)に即してそれら二つの現在が形成している共存的な二つの系列のあいだで構成されるのだ。(ドゥルーズ『差異と反復』)

潜在的対象(対象=x)とあれば、ラカンの現実界やら、対象a、そして享楽概念を想起せざるをえない。

ラカン派にはシニフィアンの反復をめぐる議論がある。ラカンはセミネールⅩⅠで二種類の反復を語っている。アリストテレス用語のautomaton/tucheを援用しつつ、象徴界におけるシニフィアンのくり返しが、”automaton”とされ、現実界的なものに促された反復がtuche(チュケー)である(参照:二種類の反復ーー「反復強迫automaton」と「反復tuche」)。

おそらくキルケゴール=ドゥルーズの反復とは、このチュケーの審級に属するものであるだろう。そして柄谷行人の《反復されるのは、たしかに、出来事ではなく、構造あるいは反復構造である。驚くべきことに、構造が反復されると、出来事も同様に反復されて、しばしば現われる。しかしながら、反復されるのは反復構造のみである》という文における反復は、チュケーの審級の臭いが、わたくしにはぷんぷんしてくるが、ここで臆断は避けることにする。

ただ同じような反復にみえるものでも、潜在的対象(対象=x)ーーここではトラウマ的なものとしておくーーに促された反復は、シニフィアンの換喩的な連鎖による反復とは、異質なものであるには相違ない。

たとえば日本が戦前のある時期の「構造」を反復するとする。それはただシステムの反復 ”automaton”ではなく、tuche(チュケー)の反復として捉え得る。ここでは、戦後70年経っても解決されないままに居座る戦前の亡霊xによる反復という意味で言っている。《戦争と戦争犯罪を生み出したところの諸条件の中で、社会的、文化的条件の一部は存続している。》(「加藤周一「今日も残る戦争責任」)

ただこの議論はいまは発展させない。いずれ? それをめぐってもうすこし詳しく書くかもしれない? ーーとだけしておく。いやいつのことになるかわからないので、ここでそれにまつわる三つの論文を提示しておこう。

1、Jacques-Alain Miller“Transference, Repetition and the Sexual Real Reading The Four Fundamental Concepts of Psychoanalysis”

2、Alenka Zupancic" When Surplus Enjoyment Meets Surplus Value"

3、Ian Parker ”Identification: Signifiers, Negation and the Unary Trait in Seminar IX”


ただラカンは、セミネールⅩⅦにて、次のように言っている、《享楽はそれ自身へのシニフィアンの不十分(無能)以外のなにものでもない。Jouissance is nothing but the inadequacy of the signifier to itself》と。シニフィアンに不足しているものは、中期以降のラカン(ファルスから対象aへ、欲望から欲動へのラカン)においては、主体と対象aであるだろう(ラカンにとって主体とは無意識の主体のことである)。これはほとんどマルクスの剰余価値と同じことを言っている、《価値形態論の構造じたいが、みずからの完成を拒み、みずからに無限のくりかえしを強いることになる》(岩井克人『貨幣論』)。

もちろんラカンの剰余享楽はマルクスの剰余価値から生まれている。

マルクスの剰余価値という概念をもとにして、ラカンが剰余享楽なる概念をつくりあげたのは当然といえば当然であって、剰余享楽もまた貨幣と同じように、事物(快楽の対象)をその反対物に変え、通常はきわめて快い「正常な」性体験と見なされているものを猥褻なものに変え、(愛する人を苦しめるとか、辛い辱めに耐えるといった)ふつうは胸糞悪い行為と見なされているものを言葉では尽くせないほど魅惑的なものに変える、逆説的な力をもっている。(ジジェク『 斜めから見る』)

ここでドゥルーズがファルスと関連付けて語る《潜在的対象(対象=x)》とは実は、主体であり対象aであると修正したい誘惑にかられる。

だが、いまは関係構造の話である。

柄谷行人は、かねてより次のマルクスの文をくり返し引用している、

・《個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産なのである。》(マルクス『資本論序文』)

・《彼らは、彼らの異種の生産物をたがいに交換において価値として等置させることいよって、彼らのさまざまな労働をたがいに人間労働として等置させるのだ。彼らはこのことを意識しないが、しかしそうやっているのだ。》(『資本論』第一巻第一部第一章第四節)

これをわたくしは次のように変奏してみる、《人はあるポジションにおかれたら、いくら「善」をなそうとしても、社会的な悪に染まってしまう。彼らはこのことを意識しないが、しかしそうやっているのだ。》

◆ひとは、たとえば大学教師のポジションに置かれたら、学者村(共同体)のなかでの保身に走るようになる。これは別に学者でなくてもよい、「専門家」というものはそういうものだ。

プロフェッショナルというのはある職能集団を前提としている以上、共同体的なものたらざるをえない。だから、プロの倫理感というものは相対的だし、共同体的な意志に保護されている。(蓮實重彦『闘争のエチカ』)

◆ひとは、生活苦のポジションに置かれたら、排外主義・レイシズムなどに無関心となる。

排外主義にしろ戦争準備政権にしろ、つまりは「我われの問題」としてはとらえていない、ということだ。自分たちとは関係ない別世界のお話し。リアリティへの眼差し以前の、無関心と無知と無自覚。

でも、それも仕方ないことだとも思う。例えば、アベノミクスで経済の上向き期待感を与えてくれるならば、起きるかどうか不確かな戦争への傾斜の怖れなんかに気をとめるだろうか。この政策なら明日の給料がすこしでも上がって、すこしでも生活が楽になるかもしれないと思わせてくれるなら、安倍政権の欺瞞と虚偽に目が向くだろうか。

みんなみんな自分の食べることで精一杯。余裕なんてありゃしない。無関心と無知と無自覚なんて言われたら腹が立つ。だってみんな精一杯生きてるんだから。甘く見てはならないとか高をくくってはならないとか、「日常」をねつ造するメディアに流されないようになんて言われても、財布の中身のほうが大切に決ってる。(さる「社会思想史」研究者のツイート変奏

◆ひとは、病苦に襲われたら、自分以外のことはどうでもよくなる。

器質的な痛苦や不快に苦しめられている者が外界の事物に対して、それらが自分の苦痛と無関係なものであるかぎりは関心を失うというのは周知の事実であるし、また自明のことであるように思われる。これをさらに詳しく観察してみると、病気に苦しめられているかぎりは、彼はリピドー的関心を自分の愛の対象から引きあげ、愛することをやめているのがわかる。(……)W・ブッシュは歯痛に悩む詩人のことを、「もっぱら奥歯の小さな洞のなかに逗留している」と述べている。リビドーと自我への関心とがこの場合は同じ運命をもち、またしても互いに分かちがたいものになっている。周知の病人のエゴイズムなるものはこの両者をうちにふくんでいる。われわれが病人のエゴイズムを分かりきったものと考えているが、それは病気になればわれわれもまた同じように振舞うことを確信しているからである。激しく燃えあがっている恋心が、肉体上の障害のために追いはらわれ、完全な無関心が突然それにとってかわる有様は、喜劇にふさわしい好題目である。(フロイト『ナルシシズム入門』フロイト著作集5 p117)

であるならば、ひとは、自民党総裁のポジションにおかれれば、ネオナチを擁護し、経済界の奴隷になって市場原理主義を擁護する、などと言えるかもしれない(すくなくともベルリンの壁崩壊以後は)。いやナショナリズムでさえ仮装でありうる、資本の欲動一辺倒ではないか、とさえ臆断するひともいるだろう。

安倍晋三は集団的自衛権で、この米国の真似っこをしたいのです。だから中国も韓国も関係ない。保守も愛国も関係ない。領土も防衛も関係ない。たんに経団連傘下の大企業の受注を増やしてあげて、公共事業として戦争をやりたいってだけです。だってそういう企業の献金で生き延びてきたのが自民党だもん。(資本の欲動のはてしなさ(endless)と無目的(end-less)

逆に、ひとは在野のポジションにおかれればーー、だがこれは書くのをやめにしよう。そうではなく、ここで自らのポジションを「宣言」する次元の話を附記しよう。

人が何かをすると、その人は自分を、それをした者として自覚する(そしてそう宣言する)。そしてその宣言にもとづいて、その人は新たな何かをする。主体が変容するのは、行為の瞬間ではなく、宣言の瞬間である。(ジジェク『ラカンはこう読め』p37)

〈あなた〉が反排外主義デモに参加するとする。そしてそれをツイッターで宣言する。そのとき、〈あなた〉は変容する。それは自分は反レイシズムだと自他ともに宣言することだが、ここにおける〈他者〉の、--小文字の他者ではなく大他者のーー認知が肝要である。そのとき〈あなた〉の現実そのものが変わり、〈あなた〉は違ったふうに行動するようになる。これは、ハサミ状の格差のメカニズムでもある。

もっと一般的に、池で溺れている少年、あるいはいじめられようとしている少女を目撃した場合に、見て見ぬふりをして立ち去るか、敢えて救助に向かうかの決定が紙一重となる瞬間がある。この瞬間にどちらかを選択した場合に、その後の行動は、別の選択の際にありえた場合と、それこそハサミ状に拡大してゆく。卑怯と勇気とはしばしば紙一重に接近する。私は孟子の「惻隠〔みてしのびざる〕の情」と自己保存の計算との絞め木にかけられる。一般に私は、救助に向かうのは最後までやりとおす決意とその現実的な裏付けとが私にある場合であるとしてきた。(中井久夫「一九九六年一月・神戸」『復興の道なかばで  阪神淡路大震災一年の記憶』所収)

中井久夫はこうも書いている、《半分は、ふだんの構えによって決まるが、半分は、いったん一つの構えを取ると、それを取りつづける傾向が強い》と。


さて少し前に戻って、柄谷行人のマルクス引用とそれに付されるコメントをやや長く引用する。

《ひょっとしたら誤解されるかもしれないから、一言しておこう。私は資本家や土地所有者の姿をけっしてばら色に描いていない。そしてここで問題になっているのは、経済的範疇(カテゴリー)の人格化であるかぎりでの、一定の階級関係と利害関係の担い手であるかぎりでの人間にすぎない。経済的社会構成の発展を自然史的過程としてとらえる私の立場は、他のどの立場にもまして、個人を諸関係に責任あるものとはしない。個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産なのである。》(『資本論』第一巻「第一版へのまえがき」)

ここでマルクスがいう「経済的カテゴリー」とは、商品や貨幣のようなものではなくて、何かを商品や貨幣たらしめる価値形態を意味する。『グルントリセ』においても、マルクスは商品や貨幣というカテゴリーを扱っていた。『資本論』では、彼は、それ以前に、何かを商品や貨幣たらしめる形式に遡行しているのである。商品とは相対的価値形態におけれるもの(物、サービス、労働力など)のことであり、貨幣とは等価形態におけれるもののことである。同様に、こうしたカテゴリーの担い手である「資本家」や「労働者」は、諸個人がどこに置かれているか(相対的価値形態か等価形態か)によって規定される。それは彼らが主観的に何を考えていようと関係がない。

ここでいわれる階級は、経験的な社会学的な意味での階級ではない。だから、現在の社会において、『資本論』のような階級関係は存在しないというような批判は的外れである。現在だけでなく、過去においても、どこでもそのように単純な階級関係は存在しなかった。そして、マルクスが具体的な階級関係を考察するとき、諸階級の多様性、そして言説や文化の多様性について非常に敏感であったことは、『ルイ・ポナパルドのブリュメールの一八日』のような仕事を見れば明らかなのだ。一方、『資本論』では、マルクスは、資本制経済に固有の階級関係を価値形態という場において見ている。その意味では、『資本論』の認識はむしろ今日の状況によりよく妥当するといってよい。たとえば、今日では、労働者の年金は機関投資家によって運用されている。つまり、労働者の年金はそれ自身資本として活動するのである。その結果、それが企業を融合しリストラを迫ることになり、労働者自身を苦しめることになる。このように、資本家と労働者の階級関係はきわめて錯綜している。そして、それはもう実体的な階級関係という考えではとらえられないように見える。しかし、商品と貨幣、というよりも相対的価値形態と等価価値形態という非対称的な関係は少しも消えていない。『資本論』が考察するのはそのような関係の構造であり、それはその場に置かれた人々の意識にとってどう映ってみえようと存在するのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』p40-41)

この文の次に、《しかし、このような見方は、読者を途方にくれさせる》と続くが、いまは割愛。

最後にニーチェは関係構造への視線が欠けていた、とする柄谷行人の文を掲げておく。

《「然り」〔Ja〕への私の新しい道。--私がこれまで理解し生きぬいてきた哲学とは、生存の憎むべき厭うべき側面をみずからすすんで探求することである。(中略)「精神が、いかに多くの真理に耐えうるか、いかに多くの真理を敢行するか?」--これが私には本来の価値尺度となった。(中略)この哲学はむしろ逆のことにまで徹底しようと欲するーーあるがままの世界に対して、差し引いたり、除外したり、選択したりすることなしに、ディオニュソス的に然りと断言することにまでーー(中略)このことにあたえた私の定式が運命愛〔amor fati〕である。》(ニーチェ『権力への意志』原佑訳)

ニーチェは『道徳の系譜学』や『善悪の彼岸』において、道徳を弱者のルサンチマンとして批判した。しかし、この「弱者」という言葉を誤解してはならない。実際には、学者として失敗し梅毒で苦しんだ二ーチェこそ、端的に「弱者」そのものなのだから。

彼が言う運命愛とは、そのような人生を、他人や所与のせいにはせず、あたかも自己が創り出したかのように受け入れることを意味する。それが強者であり、超人である。が、それは別に特別な人間を意味しない。運命愛とは、カントでいえば、諸原因(自然)に規定された運命を、それが自由な(自己原因的な)ものであるかのように受け入れるということにほかならない。それは実践的な態度である。

ニーチェがいうのは実践的に自由な主体たらんとすることにほかならず、それは現状肯定的(運命論的)態度とは無縁である。ニーチェの「力への意志」は、因果的決定を括弧に入れることにおいてある。

しかし、彼が忘れているのは、時にその括弧を外して見なければならないということである。彼は弱者のルサンチマンを攻撃したが、それを必然的に生みだす現実的な諸関係が存することを見ようとはしなかった。すなわち、「個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産なのである」という観点を無視したのである。(『トランスクリティーク』第一部第3章 P187)

…………

さあてカタイ話のあとのデザート。ロラン・バルトで始めたのだから、バルトで終えよう。

静かに編物をしながら子供を遊ばせている申し分のない母親(保護者であってしかも放任的な)……「うまくいっている」カップルの構造とはそうしたものであるだろう。いささかの禁止と多くの自由。欲望を教示し、あとは自由にさせておく。道は教えてくれるが、一緒に行ってやるなどとは言い出さぬ、親切な土地の人たちのように。(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』P208 )



天動説のままの阿呆鳥、あるいは「死の欲動」

 ◆ジジェク『LESSS THAN NOTHING』より(私訳)
哲学の存在論的前提に反して、ラカンは享楽の現実界に焦点を絞った。それは単純に言語の外部にあるのではないにも拘わらず(むしろ言語に関して外-親密“ex‐timate”である)、象徴化に抵抗し、言語内部で異物の核のままであり、裂開、切れ目、ギャップ、非一貫性、あるいは不可能として現われるなにかである。

Against this ontological premise of philosophy, Lacan focuses on the Real of jouissance as something which, though far from being simply external to language (it is rather “ex‐timate” with regard to it), resists symbolization, remains a foreign kernel within it, appearing as a rupture, cut, gap, inconsistency, or impossibility:

《私は、ある関係を今明らかにするために、いずれの哲学者にもけんかを売っています、関係、すなわち、シニフィアンの出現と享楽が存在に結びつく間にあるもの…… どの哲学者も、私に言わせれば、今日ここでわれわれに落ち合うことはできません。哲学のみすぼらしく挫折した酔狂、それは、ぐずぐずした習慣として、前世紀(19世紀)の初めから、われわれは足を引っ張られているのですが、この問いに直面しないで、その周囲を踊る方法にすぎません。それは真理についての唯一の問いであり、また言わば、フロイトが名づけた死の欲動、原初の享楽のマゾヒズムなのです…… すべての哲学的陳述はここから逃れ視線を逸らしています。》(ラカン セミネールXIII(未出版)

I challenge any philosopher to account now for the relation that there is between the emergence of the signifier and the way jouissance relates to being … No philosophy, I say, meets us here today. The wretched aborted freaks of philosophy which we drag behind us from the beginning of the last [nineteenth] century as habits that are falling apart, are nothing but a way of dancing around rather than confronting this question, which is the only question about truth and which is called, and named by Freud, the death drive, the primordial masochism of jouissance … All philosophical speech escapes and withdraws here. Jacques Lacan, seminar of June 8, 1966, in Le séminaire, Livre XIII: L'objet de la psychanalyse (unpublished).


extimateという語が出てきて、仮に外-親密と訳したが、外-密とも訳されることもある。この語はラカンの造語であり、最もintimateなものは外部exにあるということである。《要するに、私たちのもっとも近くにあるものが、私たちのまったくの外部にあるのです。ここで問題となっていることを示すために「外密extime」という語を使うべきでしょう。》(Lacan S16 松本卓也氏ツイート)

それ以外にも、ことさらいつもにもまして自信のないイイカゲン訳であり、とくにラカンのセミネールのなんと訳しにくいこと! 

ex-timate”をジジェクは他の書で次のように使っている。

the ultimate cinematic expression of the ex-timate character of the objet petit a in me that of the “alien” in the film of the same name, which is quite literally what is “in me more than myself,” a foreign body at the very heart of myself(ZIZEK 『The Puppet and the Dwarf』――『快原則の彼岸』におけるBemächtigungstrieb

ここには、ラカンの対象aの説明のなかのでのex-timateが出て来ると同時に ,a foreign body at the very heart of myselfともある。foreign body は、本来、目のなかの異物という意味で使われることが多いらしいが、初期フロイトはすでにこの用語を使っている(フロイト『ヒステリー研究』1895)。

その独原語はFremdkörperであり、邦旧訳では「異物」と訳されている。フロイトはこの語を言葉にできないトラウマに関連させて主に使っており、すなわち快感原則の彼岸にある言語の世界(象徴界)にex-sist(外ー存在)するものであり、ここでもex-timateとの関連がある。


Fremdkörper, a foreign body present in the inside but foreign to this inside. The Real ex-sists within the articulated Symbolic.(Paul Verhaeghe "Mind your Body ")

というわけで冒頭の文の”a foreign kernel ”も「異物としての核」と訳したんだが、要するにラカンやジジェクの文で”foreign”と出てくるときは、フロイトのFremdkörper”を想起しなさいということだな、ジジェクがかつて多用した“alien”ーー映画のエイリアンからだがーーこれも、この絡みであることに最近ようやく気づいた。

…………

で、何が言いたいかと言えば、快感原則の彼岸に死の欲動があるんじゃないんだな、ジジェク=ラカンの視点では。

ジジェクが『LESS THAN NOTHING』で、讃嘆してやまないFrançois Balmèsの美しい表現ならこうなる。

現実は象徴界によって多かれ少なかれ不器用に飼い馴らされた現実界である。そして現実界は、この象徴的な空間に、傷、裂け目、不可能性の接点として回帰する。

reality is the Real as domesticated—more or less awkwardly—by the symbolic; within this symbolic space, the Real returns as its cut, gap, point of impossibility(François Balmès, Ce que Lacan dit de l'être)――ジジェク『LESS THAN NOTHING』 より孫引きであり、邦訳は私訳ーーラカンの三つの身体


享楽も死の欲動も、言語=象徴界の空間に、傷として回帰する、象徴界の彼岸(向こう)にあるんじゃなくて。

ドゥルーズやジジェクは、死の欲動は超越論的であるというのだけれど(参照:攻撃欲動はタナトスではなくエロスである)、超越論的とは、柄谷行人の言い方では存在しない(目に見えない)けれど機能するものである。

超越論的とは、無としての働き(存在)を見いだすという意味で、存在論的(ハイデガー)である。同時に、それは「意識されない」構造を見るという意味では、精神分析的あるいは構造主義的である。(『トランスクリティーク』P59)

オレみたいな経験論者には、手強いなあ。至高の経験論者である〈きみたち〉にはいっそうそうだろ?

でも経験論者だと、いつまでも天動説のままなんだよ、地球のまわりを太陽動いたままなのさ、すなわち、〈きみたち〉にとっては、地球中心(自己中心)のままということになるな、〈きみたち〉にはオレも含めてもいいさ、もちろん!

一般には、コペルニクス的転回は、天動説(地球中心)から地動説(太陽中心)への華々しい転倒として理解される。しかし、地動説は古代から存在したものである。それがコペルニクスによってはじめて理論として成立したのは、主観が対象を受動的に受け取るという考えから対象が主観の形式によって能動的に構成されるという考えへの転回によってである。カントが重視したのは後者のように見える。そして、カントのあとの観念論はそこに成立する。だが、そのとき、カントがなそうとした転回が、本来、地動説(太陽中心)、いいかえれば、世界はわれわれが構成したものではなく逆にわれわれが世界の中に投げ込まれているのだという考えに向けられたことが忘れられる。(柄谷行人『トランスクリティーク』 P208

というわけでもう少し柄谷行人を引用しよう。

コペルニクス革命」が…重要なのは、地動説か天動説かではなく、コペルニクスが、地球や太陽を、経験的に観察される物とは別に、或る関係構造の項としてとらえたことである。(……)

同様に、カントは、経験論のように感覚から出発するか、合理論のように思惟から出発するかという対立をすり抜けている。彼がもたらしたのは、感性の形式や悟性のカテゴリーのように、意識されない、カントの言葉でいえば超越論的な構造である。感性や悟性という言葉は昔からある。それは「感じる」や「考える」という働きを概念にしたものである。しかし、カントは完全にそれらの意味を変えている。それは、コペルニクスにおいて、地球や太陽と呼ばれるものが、或る構造の中の項として見出されたのと同じである。われわれは別にカントがいう感性や悟性といった言葉をそのまま用いる必要はない。重要なのは、カントが提示した超越論的な構造である。(……)

フロイトの精神分析が画期的なのは、「無意識が人間行動の多くを制御している」という考え自体――それはロマン主義以来常識であった――にあったのではない。初期の『夢判断』――これも古来存するものだ――が示すように、意識と無意識のズレをもたらすものを、言語的な形式においてみようとしたところにあった。そして、そのことから無意識の「超越論的な」構造が見いだされていったのである。(……)

フロイトの精神分析は経験的な心理学ではない。それは、彼自身がいうように、「メタ心理学」であり、いいかえると、超越論的な心理学である。その観点からみれば、カントが超越論的に見出す感性や悟性の働きが、フロイトのいう心的な構造と同型であり、どちらも「比喩」としてしか語りえない、しかも、在るとしかいいようのない働きであることは明白なのである。

そして、フロイトの超越論的心理学の意味を回復しようとしたラカンが想定した構造は、よりカント的である。仮象(想像的なもの)、形式(象徴的なもの)、物自体(リアルなもの)。むろん、私がいいたいのは、カントをフロイトの側から解釈することではない。その逆である。(柄谷行人『トランスクリティーク』p54-59)

柄谷行人、二種類の反復(「反復強迫automaton」と「反復tuche」)、あるいは二種類の無意識(ふたつの主体)の区別ついてんだろうか? まああまりつっこまないでおくけどさ、えらそうなことはぜーんぜん言えないからな、オレは。

でもフロイトの無意識も「超越論的」なのさ、「無意識が人間行動の多くを制御している」なんていっているだけの連中は、天動説のままってわけ。


さて、ニーチェにお出まし願おう、《「善悪」の彼岸…… あれは少なくとも「よい・わるいの彼岸」ということではないのだ。--》(ニーチェ『道徳の系譜』木場深定訳ーーEncore, encore ! --快・不快原理の彼岸=善悪の彼岸


善悪の彼岸も、おそらく超越論的だよ、と言ってんじゃないか、ニーチェは。

とすれば、権力への意志や永劫回帰も超越論的なのかね? さあて、経験論者の凡庸な頭では、サッパリわかんねえな。

でもいつまでも天動説はいやだからなあ、きみたちはへいっちゃらかい? ひとが何を言おうと、自分の感じることは真実だ、なんて言ってる連中は、太陽がいまだ動いているつもりのボケらしいぜ。まあオレは阿呆のまま人生終ってもいいがね、若いきみたちはやめとけよ。

標準的な見方からすれば、主体性を構成している次元は現象的な(自己)経験の次元である。次のように自分に言えたならば、その瞬間に、私は主体になる。「どんな正体不明のメカニズムが私の行為、知覚、思考を支配していようとも、私がたったいま見て感じていることを、何物も私から奪うことはできない」。たとえば私が激しい恋愛をしているときに、生物学者が私に、私の強烈な感覚は私の身体の生物学的なプロセスの結果にすぎないと言ったとする。私は見かけに固執してこう答えることができる。「あなたが言っていることはすべて正しいかもしれないが、それでも、私がいま経験している激しい情熱を何物も私から取り上げることはできない」。しかしラカンは言う、精神分析家はまさにそれを主体から取り上げることができる、と。分析家の究極の目的は、主体の(自己)経験の宇宙を規定している根本的幻想そのものを主体から奪うことである。無意識というフロイト的主題は、主体の(自己)経験(彼の根本的幻想)の最も重要な側面が初源から抑圧されていて、主体にとって接近不能となったときに、はじめて登場するのである。接近不能な現象とは、最も根源的なレベルにおける無意識であり、私の現象的経験を規定する客観的メカニズムではない。したがって、常識的には、ある実体が内的生活(外的行動に還元できない幻想的経験)の徴候を見せたなら、そこにあるものは主体だと考えるわけだが、これと対照的に、われわれは以下のように主張すべきである。すなわち、人間の主体性を特徴づけているのはむしろ、外部と内部を隔てている落差、つまり幻想がその最も基本的レベルにおいて主体にとって接近不能なものになるという事実である、と。ラカンの言葉を借りれば、主体を「空虚」にするのはこの接近不能性なのである。(ジジェク『ラカンはこう読め』p96)

しぱしぱよ、なぐさめに、船人ら
信天翁生け捕るよ、
潮路の船に追いすがる
のどけき旅の道づれの海の巨鳥。

ーー「信天翁(あほうどり)」『悪の華』 ボードレール、堀口大学訳

アホー、アホー、アホー