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2013年4月4日木曜日

男と女をめぐって(ニーチェとラカン)


誇りのさまざま。――女性は、その恋人が自分たちにふさわしくないかもしれないと想像して青ざめる。男性は、自分たちがその恋人にふさわしくないかもしれないと想像して青ざめる。ここで話題にするのは、申し分のない女性や男性のことである。“通常”確信と力の感情を備えた人間であるそういう男性は、情熱の状態になると、はにかみ、自分を疑う。しかしそういう女性は、平常いつも自分は弱いものであり、身を捧げる心構えがあると感じているが、情熱という高潮した“例外”のときになると、誇りをもち、力の感情をもつ。――このようなものとして女性は問う。だれが私にふさわしいのか?(ニーチェ『曙光』四〇三番 茅野良男訳)


情熱という例外状態のとき、男ははにかみ自分を疑う。だが女は誇りと力の感情をもつ。
――はたしてこうだろうか。

男は自分の幻想のフレームに見合った愛の対象を欲望するがa man directly desires a woman who fits the frame of his fantasy、女は男の対象となることを欲望するher desire is to be the object desired by man, to fit the frame of his fantasy。――これがラカン派の説明だ。


女性は、その恋人が「女」ににふさわしくないかもしれないと想像して青ざめる。男性は、自分たちがその「女」にふさわしくないかもしれないと想像して青ざめる。ここでは、男女とも「女」に向かっている。ーー男にとって「女」は他者だが女にとっても「女」は他者である“woman is the Other for both men and women。”(Miller)。

もうひとつ、簡にして要を得たニーチェの言葉、《男の幸福は、「われは欲する」である。女の幸福は、「かれは欲する」ということである。》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳)ーーこれも明らかにラカン派の解釈と同期する。



無意識には女についての男の無知そして男についての女の無知の点があります。それをまず次のように言うことができます。二つの性は互いに異邦人であり、異国に流されたものである、と。 しかし、このような対称的表現はあまり正しいものではありません。というのも、この無知は特に女性に関係するからです。他の性について何も知らないのは、何よりもまず無意識においては女性というものについて何も知らないからなのです。ここから大文字の他の性Autre sexeというエクリチュールが出て来ますが、それはこの性が絶対的に他であるということを表すのです。 実際、男性のシニフィアンはあります。そして、それしかないのです。フロイトも認めています。つまり、リビドーにはただ一つのシンボルがある、それは男性的シンボルで、女性的シニフィアンは失われたシニフィアンであるということです。ですから、ラカンが女性というものは存在しないというとき、彼はまさにフロイディアンなのです。おそらく、フロイト自身の方が完全にはフロイディアンではないのでしょう... これによって、精神分析にやってくる主体は構造的ヒステリーのもとに置かれるということを説明できます。それは、単に主体がシニフィアンの効果によって自ら分裂を被るものとなるためだけではなく、彼が性的関係が存在するために必用であろう女性のシニフィアンの探求へと好むと好まざるとにかかわらず駆り出されるからです。 精神分析は入り口に「女性というものを探し求めないものはここに入るべからず」と掲げる必要はありません。というのも、そこに入ったら幾何学者でもそれを探しもとめるのです。(ミレール『もう一人のラカン』)

こうやって精神分析出現以前のニーチェの言葉が過たないのを知ることができる。
もっともフロイトは後年次のように白状している、《ニーチェについていえば、彼の予見と洞察とは、精神分析が骨を折って得た成果と驚くほどよく合致する人であるが、いわばそれだからこそ、それまで,長い間避けていたのだった。》(フロイト『自己を語る』1925 )



…… it is wrong to contrast man and woman in an immediate way, as if man directly desires an object, while woman's desire is a “desire to desire,” the desire for the Other's desire. We are dealing here with sexual difference as real, which means that the opposite also holds, albeit in a slightly displaced way. True, a man directly desires a woman who fits the frame of his fantasy, while a woman alienates her desire much more thoroughly in a man—her desire is to be the object desired by man, to fit the frame of his fantasy, which is why she endeavors to look at herself through the other's eyes and is permanently bothered by the question “What do others see in her/me?” However, a woman is simultaneously much less dependent on her partner, since her ultimate partner is not the other human being, her object of desire (the man), but the gap itself, that distance from her partner in which the jouissance féminine is located. Vulgari eloquentia, in order to cheat on a woman, a man needs a (real or imagined) partner, while a woman can cheat on a man even when she is alone, since her ultimate partner is solitude itself as the locus of jouissance féminine beyond the phallus. ZizekLess Than Nothing』)

現在はかつてのように男と女ということはできないにしろ(たとえば男性の女性化、あるいはその逆)、われわれの日常的な感触でも上のようなことは感じられているのだろう。たとえば「男性の恋愛は名前をつけて保存、女性の恋愛は上書き保存」。つまりは、男性は過去の恋愛は過去の恋愛として記憶にとどめておくのに対し、女性は現在進行中の恋愛があれば過去の恋愛の記憶はあまり思い返すことがないなどと。


 ところでラカンの悪評高いテーゼ、《女は存在しないil ny a pas La femme》の否定は、定冠詞Laにかかっており、femmeにかかっているのではないことに注意しよう。

《「女La femme は存在しない」という取り扱いに注意を必要とするラカンのこの公式(……)。存在するのは女達les femmes、一人の女そしてもう一人の女そしてまたもう一人の女...です。》(ミレール『ピロポ』)

女は存在しない。われわれはまさにこのことについて夢見るのです。女はシニフィアンの水準では見いだせないからこそ我々は女について幻想をし、女の絵を画き、賛美し、写真を取って複製し、その本質を探ろうとすることをやめないのです。いずれにせよ女性という存在についてそれに本質などあるかどうかは、普遍的愚行connerie universelle-愚行には常に一片の真理が含まれています-によって疑問とされることですが。このことは女性の価値を低めるものと見なされるかもしれません。しかし別の観点からすると、本質を持たないことは荷が軽いことにもなります。おそらくこれこそ女性を男性よりもはるかに興味深いものにするのでしょう。(ミレール“El Piropo”)


われわれは幼児期「言語化できない」三つの謎に行き当たるの否定してもはじまらない。すなわち、「女性性」、「父性」、「性的関係」。――フロイト曰く、the gender of its mother and thus of women in general, the role of the father and the sexual rapport between his parents.

この三つがラカンによって次のように変奏される。――La Femme n'existe pas(「女」は存在しない)、 L'Autre de l'Autre n'existe pas(「他者」の「他者」は存在しない)、 Il n'y a pas de rapport sexuel(性関係はない)。


――で、やっぱり「性関係はない」のであり、男と女はうまくいかないのは宿命なのかね。

ああ、愛すべきフロイト、ラカン! 他者たちの生の寄生者たる彼ら…《浸透し、干渉し、妨害し、どこに不一致があるか目星をつけ、そこに居座り、駆り立て、穿ち、悪化させること》――そう、悪化させること、それが二十世紀の精神分析の大きな成果の一つだったら? そんなことはどううでもよくなるべきではないか、と偶には問うてみよう。





「男と女のあいだは、うまくいかんもんだよ」、ファルスは始終それを繰り返していた…これは彼の教義の隅石だった。彼はそれをいつまでも声高に主張していた…彼が自分の後で根本的動揺をいだく者がもうひとりもいないことを望んでいたのを思えば、享楽の没収、享楽は結局何にもならないということの証明…だが、それが「うまくいく」ようにできていると言った者がかつていたのだろうか? 面白いのは、そいつが時どき期待を裏切ることができるってことだ…吹っ飛んでしまう前に…もっとも、それがひと度ほんとうに期待を裏切ったとしたら、そいつはとにかく少しはうまくいっている…憎しみのこもった固着に至り着くのでなければ…でもそれだって避けることはできる…ぼくの意見では、ファルスは十分に滑空しなかったんだな…かれはそのことでまいっていたのだと思う…どんな女も彼の解剖学にしびれなかったのだろうか? そうかもしれない…実際にはちがう…気違いじみてもいなかった…後になって「うまくいっている」か、いってないかってことが彼にとってどうでもよくなるには十分じゃなかった…そこから他者たちの生の寄生者たる彼の天性がもたらされる…大いなる天性だ…浸透し、干渉し、妨害し、どこに不一致があるか目星をつけ、そこに居座り、駆り立て、穿ち、悪化させること…ファルスがぼくたちの家でぐずぐずしていたそのやり方のことをぼくはもう一度考えてみる…眼鏡越しにデボラに注がれる彼の長い眼差し…見下げ果てた野郎だ…それは痛ましかった、それだけだ…(ソレルス『女たち』p183