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2013年4月8日月曜日

幼少の砌の髑髏


子どものころよく座敷の柱におでこをくっつけて泣いた
外出している母がもう帰ってこないのではないかと思って
母はどんなにおそくなっても必ず帰ってき
ぼくはすぐに泣き止んだけれど
そのときの不安はおとなになってからも
からだのどこか奥深いところに残っていてぼくを苦しめた
だがずっとあとになって母が永遠に帰ってこなくなったとき
もう涙は出なかった
(谷川俊太郎「なみだうた」より 『モーツァルトを聴く人』)


こんな思いはある人とない人がいるんだろうよ
六歳のとき母方の祖父母の家の裏に移り住んでね
ようは母が「神経」の具合がわるくなったと後ほど聞いたんだけど
突然家からいなくなるんだよ
何度もね
大人たちがざわざわして
市電通りのむこうのうどん屋のまえに立っていたとかなんとか
まいったね
「からだのどこか奥深いところに残っていてぼくを苦しめた」
なんて過去形でいわれても
ほかにもなんたらあるんだけど
他人にいう気はしないね、いまだ
でも
「母が永遠に帰ってこなくなったとき
もう涙は出なかった」
のはなんだろうね


頼朝公卿幼少の砌の髑髏〔しゃれこうべ〕、という古い笑い話があるが、誰しも幼少年期の傷の後遺はある。感受性は深くて免疫のまだ薄い年頃なので、傷はたいてい思いのほか深い。はるか後年に、すでに癒着したと見えて、かえって肥大して表れたりする。しかも質は幼年の砌のままで。小児の傷を内に包んで肥えていくのはむしろまっとうな、人の成熟だと言えるのかもしれない。幼い頃の痕跡すら残さないというのも、これはこれで過去を葬る苦闘の、なかなか凄惨な人生を歩んできたしるしかと想像される。しかしまた傷に晩くまで固着するという悲喜劇もある。平成は年相応のところを保っていても、難事が身に起ると、あるいは長い矛盾が露呈すると、幼年の苦についてしまう。現在の関係に対処できなくなる。幼少の砌の髑髏が疼いて啜り泣く。笑い話ではない。

小児性を克服できずに育った、とこれを咎める者もいるだろうが、とても、当の小児にとっても後の大人にとってもおのれの力だけで克服できるようなしろものではない、小児期の深傷〔ふかで〕というものは。やわらかな感受性を衝いて、人間苦の真中へ、まっすぐに入った打撃であるのだ。これをどう生きながらえる。たいていはしばらく、五年十年あるいは二十年三十年と、自身の業苦からわずかに剥離したかたちで生きるのだろう。一身の苦にあまり耽りこむものではない、という戒めがすくなくとも昔の人生智にはあったに違いない。一身の苦を離れてそれぞれの年齢での、家での、社会での役割のほうに付いて。芯がむなしいような心地でながらく過すうちに、傷を克服したとは言わないが、さほど歪まずとも受け止めていられるだけの、社会的人格の《体力》がついてくる。人の親となる頃からそろそろ、と俗には思われているようだ。

しかし一身の傷はあくまでも一身の内面にゆだねられる、個人において精神的に克服されなくてはならない、克服されなくては前へ進めない、偽善は許されない、という一般的な感じ方の世の中であるとすれば、どういうことになるだろう。また社会的な役割の、観念も実態もよほど薄い、個人がいつまでもただの個人として留まることを許される、あるいは放置される世の中であるとすれば。(古井由吉「幼少の砌の」『東京物語考』)

時間はふつう未来に向かって進行する。しかし、時間は停止しているだけでなく、時間軸が後ろに向かいがちである。時間の井戸に下降している感覚がある。

治療者は所詮、擬似体験者である。( ……)しかも何例か、すなわちいくつかの井戸を受け持つ。時間の井戸下降感覚は、いずれも、日常生活に奇妙な影響を与える。それは、精神分析などで幼少期を問答しているのとは全然といってよいほど違う。これは治療者の側への作用である。周囲の人と時間のベクトルがちがってくるのである。

さらに、この井戸の構造は単純でない。最初に語られるトラウマは二次受傷であることが多い。たとえば高校の教師のいじめである。これはかろうじて扱えるが、そうすると、それの下に幼年時代のトラウマがくろぐろとした姿を現す。震災症例でも、ある少年の表現では震災は三割で七割は別だそうである。トラウマは時間の井戸の中で過去ほど下層にある成層構造をなしているようである。ほんとうの原トラウマに触れたという感覚のある症例はまだない。また、触れて、それですべてよしというものだという保証などない。
たしかに言語化はイメージを減圧する。言語とはそのために生まれたという人もあるぐらいである(高知能自閉症の言語と儀式もまた)。絵画も生のイメージを減殺する力がある。神戸では震災直後、米国からの援助者が「もう泣きましたか」「話して下さい」とよく被災者に語りかけていた。米国人は、日本人は自己の体験を語れない社会であるから被害者が深刻になるのだといっていた。そうなのだろうか。言語は重要であるが、ナラティヴもまた一つのフィクションであって、絵画療法に似ていはしないだろうか。

時間は偉大な癒し手であって、体験がいつのまにか浄化されてゆくことはある。「成仏」とはその行く手にあるものだろう。「季節よ、城よ、無傷なところがどこにあろう」(ランボー「地獄の一季節」)季節は「過ぎゆくもの」、「城」はとどまるものか。おそらく、トラウマを飼い馴らすことはできるとしても、人はトラウマをなかったことにすることなど、できないのであろう。悲劇の感覚というものがある救いになることがあるが、時には不幸な執念が人生を埋めてゆくこともある。(中井久夫「トラウマについての断想」『日時計の影』所収P59-60



で、いまこう書かれているのはフィクションだよ
(引用でなんとか誤魔化そうってところさ)
少なくとも《万人はいくらか自分につごうのよい自己像に頼って生きている》(エリオット)だからね
あるいは
《自分について多くを語ることは、自分を隠す一つの手段でもありうる》(ニーチェ『善悪の彼岸』)さ


「トラウマ」なんていうつもりは毛頭ないさ
だいたい自分からトラウマなんていう奴は信用しちゃいけないらしい

《米国において「PTSDとは正常人が異常事態に起こす正常な反応である」(これはPTSD-PTSR問題をごまかしているが)というPRが大々的に行われるのは外傷患者の診療回避があってのことであろう。実際、初診において向うから PTSDを名乗ってくる患者の中には果たしてそうかという場合がある。》(「トラウマとその治療経験」『徴候・記憶・外傷』所収 P95


「私なら失われた時など求めはしない。そういうものはむしろ退けるくらいだ」とプルースト追悼の際にポール・ヴァレリーは書いた。彼が「知性の巨人」で済まされなくなった今、彼はむしろ過剰な記憶に苛まれた人 hypermnesiqueではなかったかと思われる。「初めから失われていた恋人」ともいうべき二十八歳年長のロヴィラ夫人への生涯の執着はほとんど時間が停まっているかのようである。サマセット・モームは「人を殺すのは記憶の重みである」といって九十歳になんなんとして自殺した。忘却を人は恐れるが忘却できないことはいっそう苛酷である。プルーストも、母の死後の時間は停止していたに近い。最後はカフェ・オ・レによって辛うじて生存し、もっぱら月光のもとでのみ外出し、ひたすら執筆に没入した。記述を読むと鬼気がせまってくる。

私には、『失われた時を求めて』の話者の記憶は、抑圧を解除されたフロイト的記憶よりも外傷的なジャネの記憶の色を帯びているように思える。プルーストの心の傷の中には、母親に暴言を吐き、ひょっとすると暴力を振るってしまったことによる傷があっても不思議ではないと私は思う(『ジャン・サントゥイユ』あるいはペインターの『プルースト伝』参照。私は初めて『失われた時を求めて』を読んだ時、作家は家庭内暴力を経ている人ではないかと思った)。もっとも、『失われた時を求めて』は贖罪の書では決してない。むしろ、世界を論理的に言葉で解析しつくそうとするドノヴァンとマッキンタイアのいう子どもの努力のほうに近いだろう。(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」『日時計の影』所収  p273-274


プルーストをなぜ好んで読むのかね
《母親に暴言を吐き、ひょっとすると暴力を振るってしまったことによる傷》
に共鳴するなどとは言わないよ
でもあの長い小説の要はやっぱり「心情の間歇」じゃないか
《たとえば総題が『心の間歇』、第一巻が副題『失われた時』、二巻目の副題が『永遠の崇拝』、第三巻の副題が『見出された時』です。》(一九一三  四一歳 ガリマールへの手紙)

私の全人間の転倒。夜がくるのを待ちかねて、疲労のために心臓の動悸がはげしく打って苦しいのをやっとおさえながら、私はかがんで、ゆっくり、用心深く、靴をぬごうとした。ところが半長靴の最初のボタンに手をふれたとたんに、何か知らない神聖なもののあらわれに満たされて私の胸はふくらみ、嗚咽に身をゆすられて、どっと目から涙が流れた。いま私をたすけにやってきて魂の枯渇を救ってくれたものは、数年前、おなじような悲しみと孤独のひとときに、自我を何ももっていなかったひとときに、私のなかにはいってきて、私を私自身に返してくれたのとおなじものであった、自我であるとともに、自我以上のもの(内容をふくみながら、内容よりも大きな容器、そしてその内容を私につたえてくれる容器)だったのだ。私はいま、記憶のなかに、あの最初の到着の夕べのままの祖母の、疲れた私をのぞきこんだ、やさしい、気づかわしげな、落胆した顔を、ありありと認めたのだ、それは、いままで、その死を哀悼しなかったことを自分でふしぎに思い、気がとがめていたあの祖母、名前だけの祖母、そんな祖母の顔ではなくて、私の真の祖母の顔であった。(……)こうした私は、彼女の腕のなかにとびこみたいはげしい欲望にかきたてられ、たったいまーーーその葬送後一年以上も過ぎたときに、しばしば事実のカレンダーを感情のそれに一致させることをさまたげるあの時間の錯誤のためにーーーはじめて祖母が死んだことを知ったのだ。(「ソドムとゴモラ 二」 井上究一郎訳)


オレは詩人でも小説家でもないから
勘違いしないでくれ
「オレ」なんて一人称で書いて
悪かったね、十分に虚構化されていなくて
凡人でね


「私」 谷川俊太郎
 四十余年前、主に「僕」という一人称を使って私は詩を書き始めました。ふだんも私は僕と言っていて、友人同士のあいだではときに俺になることもあったにしろ、それはごく自然な選択だったと思います。作品における一人称と現実の私とのあいだに、ほとんど距離はなかったと見ていいでしょう。第二詩集である「六十二のソネット」では一人称は「私」に統一されています。どうして「僕」を「私」に変えたのか、はっきりした記憶はありませんが、もしかすると一種の背伸びだったのかもしれない。本来はなかったであろう「僕」のニュアンス、いささか子どもっぽい、ときにはカマトトともとられかねない感じが一九五〇年代にはもうあって、それを避けたかったのでしょう。

それ以後の作では「僕」「私」「俺」などが混在しています。作品の中に作者、すなわち私自身ではない主人公が登場し始めたということもありますが、その主人公が直接話法で語らない場合にも、詩を書いている私と、詩の中の私とのあいだに一篇一篇の作によって異なるにしろ微妙な距離がでてきたことがその理由でしょう。つまり詩を一種のフィクションとして書くことを、私は知らず知らずのうちに覚えたと言えます。しかしこのことはこういう単純な説明では解明できない、詩というものの本質にかかわっています。私はいまだに一貫した一人称を用いることが出来ず、一篇の作を書き始めるごとに、どんな一人称にしようか迷うことが多いのです。

近作「世間知ラズ」と「モーツァルトを聴く人」では「ぼく」が使われていて、それは当時の私の気分による、意識的な選択でした。「私」に比べると「ぼく」は一種の傷つきやすさがあり、その頼りなさが私には必要だった。その「ぼく」は「二十億光年の孤独」の中の「僕」とは違うと私は考えています。

一篇の詩とその作者である詩人との関係は、ふつう考えられているよりはるかに複雑微妙で流動的です。一篇の詩はたしかにその作者の現実生活なしでは生まれてこないものですが、その詩に述べられた考えや感情が、そのまま作者である詩人が現実に抱いたものであるかと言えば、そうは言えないことも多いのです。詩は思想を伝える道具ではないし、意見を述べる場でもない、またそれはいわゆる自己表現のための手段でもないのです。詩において言葉は「物」にならなければならないとはよく言われることですが、もしそうであるとすれば、たとえば一個の美しい細工の小箱を前にするときと同じような態度が、読者には必要とされるのではないでしょうか。そこでは言葉は木材のような材質としてとらえられ、それを削り、磨き、美しく組み合わせる技術が詩人に求められる倫理ともいうべきものであり、そこに確固として存在している事実こそが、詩の文体の強さであるはずです。作者である詩人は「形」の中にひそんでいる。何かを言いたいから書いたのだという視点からだけでは、詩の中の「私」はとらえられないと思いますし、詩に書かれている内容をもとにして、詩人の正邪を断罪するのも公平でないと思う。とは言うものの、詩が散文による書き物と違って、この世の道徳的判断からまったく免責されているというふうには私も考えていません。詩人はたぶん現実世界から見れば不道徳な存在とならざるをえない一面をもっていて、その自覚なしには彼ないし彼女はこの世に生きてはいけないのです。自らのいかがわしさを通して、詩人は世間にむすびつくと今の私は考えています。


同じマザコンでも、谷川俊太郎の境地からは依然遠いな


ぼくは、ひとりっ子で、すごい母親っ子だったんです。母親はけっこう厳しかったんだけど、わりと、父親が家庭をかえりみないでずっと外にいる人だったから、その代わりにぼくを可愛がったようなところがありました。そのせいでぼくは、すごくマザコンだったんですよ。

自分ではそんなこと自覚してなかったんだけど恋愛というものがいつでも自分の母親の願望にすごく染められていた、というか。

だから「いったん好きになったら一生もんだ」みたいな発想があったんです。それを、ぼくはいいことだと思ってたわけ。俺はもう、一婦一夫制を狂信的に信じている、と。一婦一夫制を守るためだったら浮気はおろか、もう離婚も辞さないって(笑)、公言してたわけです。

自分がひとりの女にずっと誠実でいる。実際にぼく、そういう行動をしてたんだけど、でもそれがだんだん、「何、これって? 母親とひとり息子の 関係の再生産じゃないの?」と思うようになったのね。

母親を求めることは意識下の欲求だから、最初は思うだけで、そこから自由じゃなかった。だけど、そうとう年取ってから、やっと、マザー・コンプレックスの気持ちじゃなくて、相手の女性を対等に見られるようになったことがいちばんマシになったところなんですよ、自分では。(谷川俊太郎×糸井重里

心のバランスが崩れだしたのは
五十歳で死んだ母
の齢を越えてからだな
悪かったね


おかあさん
ぼく 七十歳になりました
十六年前 七十八歳で亡くなった
あなたは いまも七十八歳
ぼくと たったの八歳ちがい
おかあさん というより
ねえさん と呼ぶほうが
しっくり来ます
来年は 七歳
再来年は 六歳
八年後には 同いどし
九年後には ぼくの方が年上に
その後は あなたはどんどん若く
ねえさんではなく 妹
そのうち 娘になってしまう
年齢って つくづく奇妙ですね
ーー「奇妙な日」(高橋睦郎)