このブログを検索

2013年4月25日木曜日

変てこな語感


すこしまえにその断片を読んだ荒川洋治の詩の朗読批判には次のような文がある。


「朗読をはじめると、同音異義語など、耳にやっかいな表現を排し、耳に意味が届くとろけた言葉を好んで使って書くようになるので言葉も思考もやせほそる。朗読詩人(現代詩人の大多数)は例外なく知名度を高め、みずからの詩の質量を落とした」


――日本語の同音異義語の多さは世界に誇るとはしばしば語られるけれど、ちょっとしたスピーチをしても、たとえば「コウセイ」、これは「漢字でこう書くコウセイ」です、といわねばならない、ーー構成、校正、公正、厚生、攻勢、更正、後生、後世、恒星……、と。

一方、たとえば多和田葉子は同音異義語だけではなく漢字の形態の近似性から文を紡いで、その自由と飛躍、わけのわからなさと突拍子もなさを齎す(高橋アキと組んで朗読会やってるな)

雲はときに蜘蛛でもあるが、このすりかえは日本語でしか成立しない。わたしはわたしだけの脈絡を見る。作中に登場する蝶と鰈、そうして作者の多和田葉子。いずれの中にも枼字がひそむ。漢字圏の読者には即座に見える単なる事実も、他言語読者にとっては存在しない。いやもしかして意味を欠いた字面を見る分、むしろそちらが目につくこともあるかも知れない。一方、日本語話者にとってさえ、耳で聞いた音だけから、鰈と蝶の共通点に気がつくことはむずかしい。確固とした存在がひらりと身をかわすのではなく、雲のようにそこにある。手を伸ばすと形を変えて、腕を引いてもそのままでいる。そのくせ不意に現れて、突然消えてしまったりする。(円城 塔「響遏行雲」

まあそんなにカタイことを主張するなよ、荒川さん、と言いたいところだが、荒川洋治の詩をほとんど読んでいない(アンソロジーなどで出てきても掠め読む程度だ)ので、もう少し調べてみよう。

……

さて、すくなくともその初期には難解な詩を書くことで知られていた荒川洋治だが、大岡信はこう語っているようだ。

あれはH氏賞をもらっていて、H氏賞をだすということは十数人の既成詩人 が検討していいと認めたわけなんだけど、素朴な感想を言えば、選考に当った年長詩人諸氏は、この詩集を読んでわかったのかいなと気になってるんですけど ね。とくにあの詩集のはじめのほうの何篇かの詩は、僕にはとてもわからない。(現代詩手帖」:1977年、10月号、対談「詩意識の変容と言葉のありか」)

涌井隆氏は、荒川洋治の『娼婦論』をめぐって次のように指摘している。


『娼婦論』という詩集の題は、収録された最後の詩の題でもあるが、この詩 集全編は意味の網の目を張り巡らせており、読者はそれを解きほぐすようにして読むことを強いられる。例えば、「娼婦」という言葉は、様々な変奏を全詩集を 通じて繰り返す。「キルギス錐情」に出てくる「樵夫」は同音異義語であるし、「娼婦論」に出てくる「雪譜(せっぷ)」という言葉は、1)拙婦(愚妻)、 2)節婦(貞節な女性)、3)褻夫(淫乱な男)などの幅広い同音異義語を持っている。「雪譜」という語はまた、石婦(うまずめ)という語を連想させる。石 婦は同時に「石斧」という同音異義語に連なる。「斧」という語は明らかに男性生殖器を象徴しているから、この同音異義語の対は意味深げである。
図式化したらこういうことになるらしい。

      しょうふ

       樵夫                              娼婦
                                       オーラルセックス
                                          (「男斧のほおばりに疲れ」)
       褻夫                               石婦
       石斧                               拙婦、節婦
       (男)                            (女)


いくつか荒川洋治の詩の断片を引用しておこう

「指の数を憂えながら石女のやさしさで胎児を否決するとき」(「諸島論」)


「方法の午後、ひとは、視えるものを視ることはできない」(「キルギス錐情」)

「キルギスの草原に立つ人よ/君のありかは美しくとも/再び ひとよ/単に/君の死は高低だ//わたしは君を/地図のうえに視てい る/ときおりわたしのてのひらに/錐のように/夕日が落ち/すべてがたしかめられるだけだ」(同)


吉本隆明はかつて荒川洋治を、《若い現代詩の暗喩の意味を変えた最初の、最大の詩人》と称揚しているそうだ。


…………

なぜ技術かといいますと、当時はあいまいな意味の詩がぼくらをとりまいていた。意味というものは調子にのりすぎるとさまざまな価値の幻想を生みやすいもので、それが僕には耐えられなかった。ムーディーな形で意味の取引が行われていて、技術的な苦しみを経ていない……荒川洋治『技術の威嚇』1977

――この文は、冒頭の朗読批判にそのまま繋がる。

ところで三好達治は、大岡信の第一詩集『記憶と現在』の中の「六月」について、次のように批判したようだ。

国文畑の出身と聞く作者が、「鳥たち」「花々」などといふのは、もと、変てこな語感に違いない。意味のアイマイなだけ、音調においてはするすると滑りのよい、それらの比喩、...それらは、かんじんの「詩」の犠牲に於て、その「突貫工事」を突貫しようとするのであらうかと…


ははあ、日本語の名詞の複数ね、なかったんだよな。いや、ないんだよな。

ああ、そんなものか、そんなものだったのか、という感慨だな。いまはその「変てこな語感」に慣れてしまっているのか。

――しかし、詩人たちの、あるいは詩の読み手たちの陶酔のあり様に違和を覚えることはある。現在、時代は変ったにしろ、当時の三好達治はそれを言い当てているということができるんだろう。散文だってそうだ。ネット上の発話まで含めれば、《ムーディーな形で意味の取引が行われて》いると荒川洋治がいう文は枚挙に暇がない。そもそも甘っちょろい<詩的な>文を恥ずかしげもなく褒め合っている「文学好き」「詩好き」の連中に行き当たれば、「眼を閉じる」よりほかない――などと書けば皮肉になるが。オレもちょっと油断すればその類だね


「~たち」「花々」って類は、立原道造の詩によくでてくるな(初期大岡信は、立原の詩に影響を受けているのは明らかだ)。


逝いた私の時たちが 私の心を金にした 傷つかぬやう傷は早く愎るやうにと(「夏の弔ひ」)

あの日たち 羊飼ひと娘のやうに(「夏花の歌」)

逝いた私の時たちが(「夏の弔ひ」)

さまよひ歩くかよわい生き者たちよ(「溢れひたす闇に」)

風や 光や 水たちが 陽気にきらめくのを(「或る晴れた日に」)

――まいったね、いくらでも出てくる。「あれら」ってのもそうだ、

月は とうに沈みゆき あれらの/やさしい音楽のやうに 微風〔そよかぜ〕もなかつたのに(「さまよひ」)

堀辰雄系譜なんだろうな、堀辰雄の文を拾ってみることはしないが。

そして後継者はマチネ・ポエティックの連中(加藤周一、中村真一郎、福永武彦……)

加藤周一に「ある晴れた日に」って小説があるのだけれど、浅田彰はポストモダン小説と皮肉っているが、とんでもない恋愛小説だね(いや失礼、敬愛する加藤周一よ!)。

かれらを語るときにいくぶんか、気まずさと恥部をさらけだす辱かしい思いに誘われるのはなぜだろうか。おまえはもっともらしい貌をして、難しく厳しく冷たく裁断するがじつは、おまえは少女たちの甘心を買うためにそういう姿勢をしはじめたのではなかったか。遠いアドレッセンスの初葉の時に。そう云われていくぶんか狼狽するように、これらの自然詩人たちへのかつての愛着を語るときに狼狽を感じる。(吉本隆明歳時記「夏の章」)

――ここにも「これら」って出てくるが、これもダメなのかね

瀧口修造だって、「鳥たちはぼくたちをくるしくした/星たちはぼくたちをくるしくした/光のコップたちは転がっていた/盲目の鳥たちは光の網をくぐる(「地上の星」)として「たち」でリズムをとっているな

――カタイこというなよ、三好達治さん、と言いたいところだが……

「~たち」とすれば、(「たち」だけではなく、ほかにも音調のためだけの付加的接辞がたくさんあるだろう)音調においてはするすると滑りのよくなるに相違ない、それは、《「詩」の犠牲に於て、その「突貫工事」を突貫しようとする》ことでありうる。

たとえば西脇順三郎や吉岡実ならこういった言葉遣いを禁欲していたのだろうな、あまり思い当たらない

もうひとつ例を挙げれば、ヴァレリーの「海辺の墓地」の冒頭、かつては「鳩たちがあゆむ、この 静かな屋根、」などと訳された。中井久夫は、それを「鳩歩む この静かな屋根は」と訳している。


散文でもそうであって、――これは<わたくし>もよくやるなあ、「あれら」なんて口癖みたいなもんだーー、恥ずかしいことかね、そうなんだろうようよ、今でもそういったことに気をつけて書いている書き手はいるんだろう、金井美恵子あたりはどうだろうね

……

初期大江健三郎は翻訳調の多大な影響を受けて、次のように書いた。


数知れない鳥の羽ばたきが、かれを目覚めさせた。朝、秋の朝だった。かれの長々と横たわった体のまわりに無数の鳥がびっしり翼を連ね合って絶え間ない羽ばたきを続けている。かれの頬、かれの裸の胸、腹、もも腿の皮膚一面を、堅く細い鳥の足が震えを伝えながらおおっている。そして暗い部屋いっぱいに、森の樹葉のさやぎのように、いっぱいの鳥たちは、けっして鳴かず飛び立ちもせず、黙り込んだままけんめいに羽ばたきをくりかえしていた。鳥たちは不意の驚き、突然の不安に脅かされてそのあまりにざわめいている様子なのだ。  かれは耳を澄まし、階下の応接室で母親と男の声がひそかに続けられているのを聞いた。ああそういうことか、とかれは鳥たちへ優しくささやきかけた。羽ばたきはよせ、こわがることは何一つない、だれもおまえたちを捕らえることはできない。あいつらあは、外側の人間どもはおまえたちを見る目、おまえたちの羽ばたきを聞く耳を持っていないんだ、おまえたちを捕らえることなんかできはしない。   安心した鳥たちの羽ばたきが収まり、かれの体一面から震える小鳥の足のかすかで心地よい圧迫が弱まってゆき、消えていった。そしてあとには、頭の皮膚の内側をむずがゆくし熱っぽくしてむくむく動きまわる眠けだけが残っていた。かれは幸福なあくびをし、ふたたび目をつむった。眠けは、鳥たちのようにはかれの優しい声に反応しないから、それを追いやることはむつかしいのだ。それはしかたのないことだ。眠けは現実の一部ということだ、《現実》は鳥たちのように柔らかく繊細な感情を持っていない。かれのごく微細な合図だけでたちまち消え去って行く《鳥たち》に比べて、《現実》はけっして従順でなく、がんこにかれの部屋の外側に立ちふさがっていて、かれの合図をはねつける。《現実》はすべて他人のにおいを根強くこびりつかせているのだ。だからかれはもう一年以上も暗くした部屋に閉じこもって、夜となく昼となく部屋いっぱいになるほど群れ集まって訪れる鳥たちを相手にひっそりと暮らしてきたのだ。(大江健三郎『鳥』) 

アランは次のように書いている、《散文には媚がない。耳の期待をうらぎる。散文は絶対に歌おうとはしない。あの巫女の痙攣など散文は知らない。》ーー必ずしもこうであるべきとは言わない。

ーーニーチェのスタイルを思い出してるんだよ、原文は知らないけど
一種の音楽、一種思索的な音の調子、程度の差はあるがともかく厳密なアナグラムのゲームである。(私の頭はニーチェでいっぱいであった。読んだばかりだったのである。しかし私が欲していたもの、私が手に入れたがっていたものは、文である思想、という歌唱であった。影響は純粋に音調上のものであった。)》(ロラン・バルト『テクストの快楽』)
アランだって? 「チョークの粉がつくる雲の中で教師然としているアラン」(ラカン)の言葉は、ほどほどにしてきいておこう


しかし、ドゥルーズ曰く、《文体とは、自らの言語のなかでどもるようになること。難しい。なぜなら、そのようにどもる必要がなければならないのだから。発語(パロール)でどもるのではない、言語活動(ランガージュ)そのものによるどもりなのだ。自国語そのものの中で異邦人のごとくであること。逃走の線をひくこと。》(『ディアローグ』)は、アランの言葉と共鳴しないでもない。

私はこれまでに時どき、詩人たちについてかなり手きびしく語ったことがある。雄弁家、それも非凡な雄弁家たちを、私はそれ以上に大して愛しているわけではない。いたって学識のある人が、そのことで私につっかかってきた。どんな話でも心底から出たものは雄弁の動きとリズムをおのずと帯びる。ただすぐれた詩においてのみ、このリズムは一そう規則立っているのだ、と彼はいう。彼はそこで実例をそらで引用したが、なかなかうまく択んだ。私は散文をしかるべく弁護するすべを知らなかった。散文は、読者が声を出して読むとかならず損なわれる。そして目の方がいっそうよく散文をとらえるように私は思う。散文には媚がない。耳の期待をうらぎる。散文は絶対に歌おうとはしない。あの巫女の痙攣など散文は知らない。どんな遠慮も知らず、いかなる宗教臭もない。これこそ、すっかりはだかになった人間性そのものである。筆致が道具のように喰い入るのだ。(「プロポ」)

上の話とはすこしおもむきが異なるが、「今どき文章がうまいというのは下品なこと」「感情的な、あるいは思考の上でのポイントに入るところで、あり来たりのものをもってくる」とする古井由吉を附記しておく。
今どき文学上のリアリズムっていうと、まあ多少文学を考える人はまともに付き合うまいと思うでしょう。リアリズムというのは、人がどこで得心するか、なるほどと思うか、そのポイントなんですよ。つまり人は論理で納得するわけじゃない。論理を連ねてきてどこか一点で、なるほどと思わせるわけです。その説得点あるいは得心点ともいうべきところで、形骸化されたリアリズムが粘るというのが、文学としてはいちばん通俗的じゃないかと思うんです。説得点にかかるところだけはすくなくとも人は真面目にやってほしい。つまりこんな言い方もあるんです。今どき文章がうまいというのは下品なことだと。それをもう少し詰めると、感情的な、あるいは思考の上でのポイントに入るところで、あり来たりのものをもってくる。筋の通ったあり来たりならいいですよ。もしもそういう筋の通った『俗』がわれわれにとって、説得点として健在ならば。しかし時代になんとなく流通するものでもって人に説得の感じを吹き込む、そういう文章のうまさ、工夫、これは僕はすべて悪しき意味の通俗だと思う。これがいわゆるオーソドックスな純文学的な文章にも、ミナサンの文学にも等しくあるわけだ。これをどうするのかの問題でね。(古井由吉・松浦寿輝『色と空のあわいで』)

ーーなどと引用しつつ、この<わたくし>の今書く文も、下品な、悪しき意味での通俗の振舞いをどこかでやっている筈でね……