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2013年4月2日火曜日

無責任の反復



《『クラス全員が反省しています』と言う。みんなに責任があると言いながら誰も謝罪しない。それでは、誰にも責任がないと言っているのと同じじゃないですか》http://www.asahi.com/national/update/0330/TKY201303300083.html

――などと引用しても、「いじめ」をめぐってなにかを語ってみせるつもりはない。

むしろ、今このとき、つまりこの二年間の「無責任体制」のあからさまな顕現についてすぐさま思いを馳せざるをえないわけだが、もっとも、戦後、丸山真男や加藤周一、あるいは柄谷行人や大江健三郎、岩井克人らが語り続けたことが、この二年のあいだになんの反省もなく反復されていることに呆れ返ってみせるつもりもない。いまでもこの六十年以上のあいだ「一億総懺悔」とか「なしくずし」などと言われ続けたことは、末端まで染み渡っているのであり、それは学校の場でも同様なのだと改めて感慨にふけるのも、初心な心境を曝すことでしかないのだろう。

ただいささか奇妙なのは、「無責任体制」について批判的な立場をとっていたり、当然そうあるべき研究対象を持っている学者たちから、原発事故の責任をめぐって、思いのほか語られることが少ないのはどうしたわけか。インターネット上をすこし探ってみたが、研究者たちによってこの無責任体制をめぐるシンポジウムなどの討論が集中的になされた気配がないのが怪訝の念を抱かせる。まさか組織的な緘口令がひかれているわけでもあるまい。どこかでひっそりと行われているのだろうか。

上記にあげた日本の「知識人」たちの研究者でなくても、たとえばハンナ・アーレントやらアドルノ、デリダ、ナンシーなどの研究者であればまっさきに飛びついていい筈の「議題」ではないのか。


二年経っても、相も変わらず、被災者追悼の儀式が次のような様相を示しているからといって、たいして苛立つそぶりはみせない「お勉強家」たちの戯言が跳梁跋扈しているのが目立つばかりだ、――《他者の死をわがものとして、その上に共同体を創設・強化し、その名の下に共同体に属さない他者を攻撃する、その攻撃に際して共同体の成員の自己犠牲を要求しさえするというのは、この実体化のプロセスの典型》(「共同体の否定神学を超えて」?――ジャン=リュック・ナンシーの『無為の共同体』書評 浅田彰)




もちろん、年輩の学者などにによる「無責任体制」についての議論がまったくないわけではなく、デリダの研究者・翻訳者である福島出身の高橋哲哉氏の次のような講演録にいまさらながら行き当たることはできた。――「原発事故の責任をどう考えるか」高橋哲哉講演

高橋氏は若者に話を聴く、するとこんな意見が返って来るそうだ。

・みんなに責任があるのではないか。
・東電だけを責めるべきではない。
・福島が原発を受け入れたという事実を踏まえ、甘んじて状況を受け入れるべきではないか。
・経済的恩恵を受けていた以上、被害者意識を持つのはおかしい。


どれくらいの人々がこのように考えているのかは憶測しようがないが、東電や政財界の厚顔無恥にいきり立つこと少ない連中は、おそらくこんな具合の脳軟化症にかかっているのだろう。

高橋哲哉氏の議論にはヤスパースの「責任論」をめぐっても書かれているが、この話は柄谷行人の著作のいくつかにも詳しい。で、ヤスパースの研究者たちはどこにいった? 何か語ってるのかね、あれらオタンコナス!


事実上は、「誰か」が決定したのだが、誰もそれを決定せず、かつ誰もがそれを決定したかのようにみせかけられる。このような「生成」が、あからさまな権力や制度とは異質であったとしても、同様の、あるいはそれ以上の強制力を持っていることを忘れてはならない。(柄谷行人「差異としての場所」)

東電首脳は、事故後、賠償免責の見解をめぐって 「巨大な天変地異に該当」と語っていたのが記憶されるが、中井久夫が「立て直し」と「世直し」の二つの倫理観(「立て直し」は執着気質的「勤勉の倫理」であり、「世直し」は、ラディカルな革命的倫理)の対照による、まさに「立て直し」の倫理観そのままなのが笑止千万というのか…変わりようがないのだろうね


……カタストロフが現実に発生したときは、それが社会的変化であってもほとんど天災のごとくに受け取り、再び同一の倫理にしたがった問題解決の努力を開始する(……)。反復強迫のように、という人もいるだろう。この倫理に対応する世界観は、世俗的・現世的なものがその地平であり、世界はさまざまの実際例の集合である。この世界観は「縁辺的(マージナル)なものに対する感覚」がひどく乏しい。ここに盲点がある。マージナルなものへのセンスの持ち主だけが大変化を予知し、対処しうる。ついでにいえば、この感覚なしに芸術の生産も享受もありにくいと私は思う。(中井久夫『分裂病と人類』)

東電ばかりを責めるわけにはいかない? ああ、「国家事業」だったのだろうよ

国が犯罪を犯せばどうなるか。犯罪を犯した国が、そのまま今日まで続いている場合もあり、犯罪を犯した国と今日の国との間に連続と断絶の両面のある場合もある。国土と国民とは連続していても、国家権力の、指導者と制度と価値観に、時と場合によって異なる程度の断絶があり得るからである。(加藤周一「夕陽妄語」)