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2013年4月27日土曜日

エクリチュールをめぐってのいくつか



 《声の現前を欠いた書かれた記号は、その「間隔化」によって、話された記号とは区別されなければならない》とするのは、『署名、出来事、コンテクスト』のデリダだが、そこでは、《書かれた記号は、そのコンテクストと断絶する力、すなわち、それが書き込まれる瞬間を組織する諸現前の総体と断絶する力を含んでいる》と書かれ、これがデリダによるエクリチュールの簡潔な定義だ。

蓮實重彦はそのデリダ小論「「本質」、「宿命」、「起源」」(初出「新潮」2005.1)において、デリダの初期の「力と意味」を引きつつ、次のように書く。

「《思想》とか《内的構想》が書物に先立って、書物は単にそれを書き表すだけだ、と考える単純な先行論」の一般化された形式を、「イデアリズムと呼ばれる伝統批評」にほかならぬと彼(デリダ)は断じている(……)。だが、「神学」的たることをまぬがれぬこの「伝統批評」の観念論――そこには、私はこう思うとのみ宣言して解釈さえ放棄する無邪気な「無神論者」も含まれようーーは、彼にとって文学の批評の名に値するものとはいいがたい。なぜなら、それは「神学」的な解釈手段を無自覚に文学に適用したものでしかなく、そこには批評など成立しようもないからである。

われわれ凡人は、デリダのように、書かれた物が書き手に先行すると見てとることに、いまだ疎い。ついうっかり、「《思想》とか《内的構想》が書物に先立ってあり、書物は単にそれを書き表」したものだと見てしまう。

だがこのデリダの考え方は彼の特許でもなんでもなく、たとえば柄谷行人のヴァレリー論においてこう書かれる。

作者がある考えや感覚を作品にあらわし、読者がそれを受けとる。ふつうはそう見え、そう考えられているが、この問題の<神秘的>性格を明らかにしたのはヴァレリーである。彼は、作品は作者から自立しているばかりでなく、“作者”というものをつくり出すのだと考える。作品の思想は、作者が考えているものとはちがっているというだけでなく、むしろそのような思想をもった“作者”をたえずつくり出すのである。たとえば、漱石という作家は幾度も読みかえられてきている。かりに当人あるいはその知人が何といおうが、作品から遡行される“作家”が存在するのであり、実はそれしか存在しないのである。客観的な漱石像とは、これまで読んだひとびとのつくった支配的イメージにほかならないのだ。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』)

――そして、このヴァレリーの考え方も、柄谷行人によればマルクスの価値形態論から来る(ヴァレリーは、マルクスの熱心な読者だったらしい)。

そしてその後は、ヴァレリー系譜のブランショ、あるいはバルト、デリダ…、ということになるのだろう。


われわれの多くは、書かれた文の向うにすぐさま書き手を見てしまう。もちろん書き手の方も、自分の考え、見解を書き物に表わしていることに疑念を抱くこと少ない。

ところでロラン・バルトに言わせれば、学者や知識人の書く文はエクリチュールではない。

パロールの側にいる教師に対して、エクリチュールの側にいる言語活動の操作者をすべて作家と呼ぶことにしよう。両者の間に知識人がいる。知識人とは、自分のパロールを活字にし、公表する者である。教師の言語活動と知識人の言語活動の間には、両立しがたい点はほとんどない(両者は、しばしば同一個人の中で共存している)。しかし、作家は孤立し、切り離されている、エクリチュールはパロールが不可能になる(この語は、子供についていうような意味に解してもいい〔つまり、手に負えなくなる〕)所から始まるのだ。(「作家、知識人、教師」)

ではエクリチュールとはなんなのか。そもそも英語圏では“writing”と訳されるだけだ。書かれたものは、すべてエクリチュールではないのか。

いかなる絶対的な責任からも最終審級の権威としての意識から切り離され、孤児としてその誕生時より自らの父の立会いから分離されたエクリチュールーーーこうしたエクリチュールによる本質的な漂流……(「署名、出来事、コンテクスト」)

《自らの父の立会いから分離された》、すなわち書き手から分離され、「書かれた言語記号は本質的に無責任な漂流性を生きるもの」として書かれ読まれるものがここではとりあえずエクリチュールであるとしておこう。

これはなにも難しいことではない、《つねにいまここにありながら、 ある種の錯覚から見えなくなってしまっているものに改めて視線を注ごうとしているだけ》なのだ。

バルトの『作者の死』を引きつつ蓮實重彦は『物語批判序説』でこう書く、
……まぎれもなく一人の人間によって書かれた文章の中に、 それが日常的な伝達とは異質の水準に展開される言葉である場合、 誰がそのように語っているのか識別が困難となるいくつもの指摘がまぎれこむことによってもたらされる、 語る主体の曖昧化といったもの(……)。 書きつつある本人の生身の肉体はいうに及ばず、 あらゆる種類の自己同一性への言及が不可能となるそうした言語的環境がエクリチュールにほかならず、 それはどんな時代にも存在していたのだが、近代の登場人物としての「作者」の概念が誇大視された結果、あたかも「作者」がその言葉の起源であるかに考えられてしまった……。


ここでフーコーを挿入しよう。

周知のように、ある語り手による物語というかたちをとった小説では、一人称代名詞、直接法現在、時間的・空間的な位置決定の記号はけっして正確には作家にも、彼が現に書いている時点にも、彼の書くという動作そのものにも送り返しはしない。それらは、もうひとつの自己へ-そこから作家までのあいだに程度の差はあれ距離が介在するばかりか、その距離が作品の展開してゆく経緯そのものにおいても可変的でありうるようなもうひとつの自己へ、と送り返すのです。作者を現実の作家の側に探すのも、虚構の発話者の側に探すのも同様に誤りでしょう。機能としての作者はこの分裂そのもののなかで、-この分割と距離のなかで作用するのです。(フーコー『作者とは何か?』清水徹・豊崎光一訳)
デリダ、バルト、フーコーを引用したのだ、ドゥルーズ/ガタリからも付記する。

 書くことは〔エクリチュール〕とは意味することとは縁もゆかりもなく、測量すること、地図化すること、来るべき地方さえも測量し、地図化することにかかわるのだ。(『千のプラトー』)
…………


「他者」としての言葉を書き連ねるうちに、突如その細部が艶かしい運動ぶりを示してしまう、筋の持続を散逸させかねない描写の自己増殖、因果論的な意味の開花を超えたイメージの喚起性。訳知らず細部がときならぬ肥大化を見せ、言葉の独走が起ってしまう。もちろん言葉が独走するといっても常に迅速さを齎しわけではない、それは停滞としても、迂回としても、無方向な横滑りとしても起る。

世界を所有するには言語の媒介によるほかないのだが、にもかかわらず言語そのものを所有しみずからに同化し尽くすことはどうしてもできないという逆説的な事態。象徴体系としての言語との関係を生きるにあたって、日々刻々「わたし」を引き裂き続けているのはこのパラドックスである。  言葉を発するとは、しかじかの順序に従って既知の単語を並べてゆくという単調な身振りにすぎない。だが、たかだがそれだけのものでしかないこの日常的な営みは、実のところ「わたし」にとって、そのつど統御しがたい匿名の衝動によってひとたび攪拌され、断片化と拡散の運動による新たな生成を受け入れることなしには切り抜けることのできない困難な試練としてある。発語は、程度の差こそあれそのつどつねに、「わたし」ならざるものへ向かって溢れ出してゆくことを「わたし」に強いるのだ。(松浦寿輝『官能の哲学』より)

ひとは紋切型の発話に終始していないかぎり、書いている最中、《統御しがたい匿名の衝動によってひとたび攪拌され、断片化と拡散の運動》に驚くことはないか。

夏目漱石の『三四郎』におけるエクリチュールを、大根と活塞でみたが、中上健次の文は、その小説だけでなくノンフィクションにおいてでさえ、統御しがたい匿名の衝動の慄きが伝わって来る。

<吉野>に入ったのは夜だった。吉野の山は、闇の中に浮いてあった。吉野の宿をさがして、車を走らせる。道路わきの闇に、丈高い草が密生している。その丈高い草がセイタカアワダチソウなる、根に他の植物を枯らす毒を持つ草だと気づいたのは、吉野の町中をウロウロと車を走らせてしばらく過ってからだった。車のライトを向けると、黄色の、今を盛りとつけた花は、あわあわと影を作ってゆれる。私は車から降りる。その花粉アレルギーをひき起こすという花に鼻をつけ、においをかぎ、花を手でもみしだく。物語の土地<吉野>でその草の花を手にしている。(『紀州』)

まあこういったことは優れた書き手だけに起こることで、われわれ凡人はそんなことは稀にしか起こらず、せいぜい、どこかの文を読んでの無自覚な「要約」を自分の意見として提示したり、あるいは昔からひそかにくり返し暗記していた台詞がふと口から洩れてしまっただけであることが多いのだろう。よくても学者たちのような「自分のパロールを活字にし、公表する者」(バルト)でしかないのであれば、そんな書き物の向うに書き手をみる読者ばかりであっても致し方ない。ヴァレリーでさえ、書き手の生活上の消息に《相当な好奇心を抱くことがある》と書いているわけだから、「勝手にしたらいい」。

またときには、そうせざるを得ない性格をもった書き物だってあるかもしれない。

……私にとっては、或る人間について重要に思われることは彼の生涯における偶発的な諸事件ではなく、彼の生れとか、彼の恋愛事件とか、種々の不幸とか、その他、彼について実地に観察することができる事実の殆どすべては、私には何の役にも立たない。すなわちそれらの事実は、或る人間にその真価を与え、彼と彼以外のあらゆる人間との、また彼と私との決定的な相違を生ぜしめている事柄について、私に何事をも教えてはくれない。

そして私としてもしばしば、この種類の、我々の認識を実質的には少しも深めはしない生活上の消息について、相当な好奇心を抱くことがあるのだが、私の興味を惹く事柄が必ずしも私にとって重要なものであるとは限らないのであって、これは私だけでなく、だれの場合にしても同じことが言える。要するに、我々は、我々を面白がらせることに対して常に警戒していなければならない。(ヴァレリー『ドガ・ダンス・デッサン』 吉田健一訳)