このブログを検索

2011年1月7日金曜日

教育者のパロールとその立場 (ロラン・バルト)

ロラン・バルトが、ラカンのおそらく「四つのディスクール」(参照:ラカン「四つの言説」から「サントーム」へ、あるいは「文学」の顕揚)などを援用してだろう、教育者のパロールやその立場をめぐって書いている(『テクストの出口』「作家、知識人、教師」より)。


【教育者のパロール】
(教育の場で)語ろうとする者は誰でも、自然的な(発声の際の息のような物理的自然に属する)原因の単なる結果として、パロールの使用が彼に課す演技を自覚しなければならない。この演技は次のように展開する。
話し手は、率直に、「権威」の役を選ぶこともできる。この場合、彼は、《うまく話す》、つまり、どんなパロールの中にもある「法」に従って話すだけでいい。繰り返しなしで、適当な速度で、あるいは、明晰に(これこそ、職業的な、よいパロールに要求されるものだ。明晰、そして権威が)。明確な文はまさに判決、すなわち、センティティアであり、刑罰的なパロールである。
話し手はまた、パロールが自分の談話に導入しようとするこうした「法」を窮屈に感ずることもある。彼は、たしかに、(《明晰》を強制する)語り方を変質させることはできないが、語ること(「法」を示すこと)について弁解することはできる。彼は、その時、自分の合法性を乱すために、パロールの不可逆性を利用する。すなわち、彼はいい直し、つけ加え、口ごもる。
彼は言語活動の無限性の中に入り込み、皆が彼から期待している単純なメッセージに、メッセージの観念そのものを破壊するような新たなメッセージを重ね、パロールの流れにつける傷や切屑のきらめきによって、言語活動はコミュニケーションには還元されないということを自分とともに信じるようにわれわれに要求する。「テクスト」の口ごもる語り方に近い、こうしたすべての操作によって、未熟な教師は、話し手というものを、いわば、警官のようにする割の合わない役割を緩和しようとするのである。
しかし、《まずく話す》ためのこうした努力の末、また、ひとつの役割が彼に課される。なぜなら、聴き手(読者とは何の関係もない)は、自分自身の想像物(イマジネール)に捉われて、これらの試行錯誤を弱さのしるしとして受け取り、人間的な、あまりに人間的な、つまり、リベラルな教師というイメージを彼に送り返すからである。
どちらを選んでも、先行きは暗い。几帳面な公務員にせよ、自由な芸術家にせよ、教師は、パロールの舞台からも、そこで演じられる「法」からも逃れられない。というのは、「法」は、述べることの中身においてではなく、語ることにおいて生み出されるからである。「法」を覆すには(単に「法」の網をくぐるだけではなく)、声の語り方、語の速度、リズム、そして、もうひとつのわかりやすさまでも解体する必要があろう。―――あるいは、全然、何もしゃべらないか、である。しかし、それはまた他の役割を背負うことになろう。すなわち、経験豊かな、しかも、多くを語らぬ、寡黙な、偉大な知性の持主という役割か、あるいは、実践の名の下に、無用なおしゃべりを一切放棄する闘士という役割である。どうしようもない。言語活動とはつねに力であり、語るとは権力への意志を行使することなのだ。パロールの空間には、無垢な場所もないし、安全な場所もない。
【教育者の立場】
どうして教師と精神分析者を同一視することができよう。まったく逆だ。精神分析されるのは教師の方である。(参照:ラカンのセミネール、あるいはロラン・バルトの講義出版への考え方)

私が教師だとしよう。私は、しゃべらない者の前で、また、しゃべらない者のために、際限なくしゃべる。私は私と述べるものである。(<人>とか、<われわれ>とか、非人称文でいい変えても同じことだ)。私は、知識を披露する(外に置く)という口実で、言述を提出する(前に置く)者である。それがどのように受け取られるか、私には決してわからない。したがって、私は、私を構成するような、決定的な、しかも、不快でさえあるイメージで安心することが決してできない。人が思っている以上にうまい呼び方だが、発表(外に置くこと)において、披露されるのは知識ではない。主体である(主体はつらい冒険に身をさらすのだ)。鏡は空虚である。鏡は、私の言語活動が展開するままに、それのゆがんだ形しか私に返さない。(……)
何か《洒落た》考察によって聴衆をほほえませるや否や、何か進歩主義的な常套句で聴衆を安心させるや否や、私はこうした挑発の迎合性を感ずる。私はヒステリー的欲動を遺憾に思う。遅まきながら、人に媚びる言述よりいかめしい言述の方が好ましく思われ、ヒステリー的欲動を元に戻したいと思う(しかし、逆の場合には、ヒステリー的に思えるのは、言述の《厳しさ》の方である)。実際、私の考察にある微笑が応じ、私の威嚇にある賛意が応じると、私は、ただちに、このような共犯の意思表示は、馬鹿者か、追従者によるものと思い込む(私は、今、想像上の過程を描写しているのだ)。反応を求め、つい反応を挑発してしまう私だが、私が警戒心を抱くには、私に反応するだけで十分である。
そして、どのような反応をも冷まし、あるいは、遠ざけるような言述を続けていても、そのために自分が一層正確である(音楽的な意味で)とは感じられない。なぜなら、そのときは、私は自分のパロールの孤独さを自賛し、使命を持った言述(学問、真理、等)というアリバイをそれに与えなければならないからである。

【公的なパロールの背負う十字架】
このように、精神分析的記述(ラカンの記述である。語る人なら誰でも、ここで、その洞察の鋭さを確かめ得るだろう)に従えば、教師が聴講者にしゃべる時、「他者」はつねに存在し、彼の言述に穴をあける。そして、たとえ彼の言述が無謬の知性で完結し、科学的《厳密さ》や政治的急進性で武装していても、やはり穴はあけられるだろう。私がしゃべりさえすれば、私のパロールが流れさえすれば、私のパロールは外に流出するのである。もちろん、すべての教師が精神分析の被験者の立場にあるとはいっても、受講する学生が逆の状況を利用できるわけではない。なぜなら、まず第一に、精神分析的な沈黙には、何ら優越する点がないからである。第二に、時折、被験者が殻を破り、こらえることができず、パロールに身を焼き、弁論の淫らなパーティーに加わるからである(たとえ被験者が頑固に押し黙っているとしても、彼はまさに自分の沈黙の頑固さを語っているのだ)。
しかし、教師にとって、受講する学生は、やはり、模範的な「他者」である。なぜなら、彼らはしゃべらないふりをしているからであるーーーしたがって、また、その無言の外見の中から、それだけ一層強く、あなたの中で語るからである。彼らの表に出ないパロールは私自身のパロールなのであるが、彼らの言述が私の中を満たさないだけに一層、私に打撃を与えるのである。
これが公的なパロールというものの背負う十字架である。教師がしゃべるにせよ、聴き手がしゃべるよう要求するにせよ、いずれの場合も、まっすぐ(精神分析用の)長椅子に向かうのだ。教育の関係はその関係によって促される転移以上のものではない。《学問》、《方法》、《知識》、《観念》が群をなしてやってくる。それらは余分に与えられるものであり、剰余である。