資料:主人の言説discour du maîtreをめぐって
◆荻本医院;ラカン勉強会より
sinthomeの最初のセッションで、ラカンは知はdiscour du maître(「主人の言説」とか「主の言説」とか訳されてきましたが、maîtreという語にmaîtriseつまり支配、コントロールという語、これは死の欲動をリビドーが生/性へと方向転換させるに際してのコントロールを含意しますが、このことを意識してこの言説を理解すべきです。生を命じ、死〔去勢によって主体は死つまり有限性を受け入れますが、これは生からの解放である安息としての死です〕を与えず、死しても第二の死、無限地獄、『ジュリエット』に登場するサン・フォンの思い描く死後も続く拷問、つまり生き続けることの苦痛douleur d'existerを命じるのは超自我以外にはありません。signifiant-maîtreによる命令とは超自我の命令と他ならないのではないでしょうか。
Braunsteinはラカンの超自我とフロイトの超自我を混同してはならないと言っています。前者の命令はobéirではなくjouirの命令ですが、jouissanceこそ、フロイトが禁じていた当のものとしています。しかしながら、ラカンのjouissanceはいくつもの異なった事柄をカヴァーする語で、現にBraunstein自身、jouissanceをjouissance de l'être, jouissance phalliqueそしてjouissance de l'Autreに大別して述べています。この三者に3タイプの超自我を当てはめた場合、jouissance de l'êtreに符号する超自我こそ、生を命じる、「猥雑な、獰猛な、限度を弁えない、言語とは異質の、そしてNom-du-Pèreを与り知らない超自我で、これはフロイトの超自我ではないもの」ということになります〔La jouissnce-Un concept lacanien, Nestor Braunstein, Point hors ligne, pp.317-318.〕)において分割されます。この分割はsymbole(le symboliqueではありません)の分割に一致することになります。次いで、ボロメオの輪はle symboliqueの分割、symboliqueの輪とsinthomatiqueの輪に分割されます。これが主体の分割にも影響を与えるのです。
discours du maîtreにおける(死の欲動の)手懐けtempéranceのためです。sinthomeからnom du pèreを得るためです。ボロメオの輪は、厳密にいうとトポロジー的でいう結び目ではありませんが、3つの輪と結び目(ちょうど三つ葉の結び目と同じ構造をしています)から成る、といえます。輪が4つになっても、ラカンは結び目の締め付けserrage(ラカンはpoint de coinçageという言い方もしています。3つの輪は3つのdimensions、基本的には象徴界、想像界、現実界というdimensionsですが、これは、ユークリッド幾何学の3次元空間とは相容れない次元で、区別するため、ラカンはdit-mensionsと表記したりしています。serrageあるいはpoint de coinçageは三次元空間の3つの軸、通常x, y, zで示される軸とは異なり、3軸の交点、1から3次元上で実在する点ではなく、どれほど3つの輪を3方向に引っぱり中心の部分を締め付けても空虚なものは空虚なままです。そしてこの中心がaなのです。)による結び目といった考え方を変えてはいません。