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2014年11月10日月曜日

密封した千の瓶

たとえばこういうことがある。このインドシナの土地では、いま雨季から乾季の変わり目で、これから一ヶ月ほどが一年のうちでもっとも気温が低くなる。とはいえ日中はあいかわらずTシャツと短パンですみ、ただ早朝バイクで走ればウィンドブレーカーが必要となる程度の気温だが。

朝、やや寝過ごしたある日、目が覚めて二階の書斎兼寝室の窓を開ける。室内の気温は当地には珍しく肌寒くなっており、窓を開けた瞬間、日に温められた外気のもわっとした懐かしい感覚に襲われる。このとてつもない懐かしさの快感はどこから生じるのだろうかとしばらく茫然としているのだが、それは、なにかがふとよみがえって、よく耳を傾けてきこう、楽譜にしてみようとつとめる歌のふしに似ている。そうしてしばらくすると、その歌のふしは、日本の五月の初めから五月の半ばにかけての外気を吸ったときの感覚であることがわかってくる。この感覚が訪れるのは一年のうちこの季節だけなのだが、今年もつい先日それにめぐり合った。

三十歳前後、京都の松尾近くに住んでおり、五月にはしばしば自転車で桂川べりをのぼり、嵐山や嵯峨野方面をめぐった。あの窓を開けたときの感覚は、たとえば嵯峨野の大覚寺横の大沢池をさらに東に向かったところにあるれんげ畑をみやったときの快感をも想起させてくれる。






このあたりはと豆腐の老舗森嘉もあり、朝早く行かないと売り切れてしまうので、早朝、季節がよければ自転車で買いに行ったのだが、その豆腐の味まで憶い出す。お揚げさんがことさら美味だった。





もっともこの日本の初夏の感覚は窓からの外気でないこともある。一昨年の十一月十四日の日記にはこう書いている。

「ようやく乾季の訪れか。台所のテーブルに坐って珈琲を啜りつつ開け放たれた窓のむこうの前庭をぼんやり見やれば、花崗岩で組まれた塀のでこぼこした表に、細かく拡がった梢の末の翳を柔らかく描くのは、少し前とは違っておだやかで懐かしい陽射しだ。かすかな風にゆらぐその梢の模様とこがね色の陽光は粘つかず、さらさらと、……《小石ばかりの、河原があって、/それに陽は、さらさらと/さらさらと射しているのでありました》(中也)」

だがこの冷気と暖気、光と影、浮彫と省略、回想と忘却の強い快感を翌日も味わおうとして、朝、窓を開けても、もう前日の快感ほどのものはなくなっている。一年ぶりの感覚の新鮮さがもう翌日その鮮烈さを失ったということもあるだろうが、もっと本質的には、わたくしの構えが、プルーストのいう無意志的なもの/積極的意志の二項対立の後者になってしまっていることによる。

それというのも、フォークの音とかマドレーヌの味とかのような種類の無意識的記憶であれ、私が頭のなかでその意味を求めようと試みていた形象――鐘塔、雑草といった形象が、私の頭のなかで、複雑な、花咲き乱れた、ある魔法の書〔グリモワール〕を編んでいたーーそんな形象のたすけを借りて書かれるあの真実であれ、それらのものの第一の特徴は、私が勝手にそれらを選びだしたのではないということであり、それらがありのままの姿で私にあたえられたということであったからだ。また、それこそが、それらのものの真性証明〔オータンテイシテ〕の極印になるのだと私に感じられた。私は中庭の不揃いな二つの敷石をさがしに行ってそこで足をぶつけたわけではなかった。そうではなくて、不可避的に、偶然に、感覚の出会がおこなわれたという、まさにそのことこそ、その感覚がよみがえらせた過去とその感覚がさそいだした映像との真実に、検印をおすものであった、その証拠に、われわれはあかるい光に向かってあがってこようとするその感覚の努力を感じるのであり、ふたたび見出された現実というもののよろこびを感じるわけなのだ。(プルースト『見出された時』井上究一郎訳 文庫P336)

これは無意識的記憶(無意志的記憶)にかかわる文だが、積極的意志とはプルーストによって「理知」とも書かれる。

また人生が、あるときはじつに美しいものに見えても、結局つまらないもおと判断されたのだったとしたら、そのつまらなさというのは、人生それ自身とはまったくべつのものによって、人生を何一つふくんでいない映像によって、人生を判断し、人生を貶めているからであることを理解するのであった。そしてそれに付随してやっと私が気づいたのは、ざっとこういうことだった、現実の真の印象の一つ一つのあいだをへだてている相違はーー人生の型にはまった一様な描写がとうてい真のものに似るはずがないのは、このたがいの相違によって説明されるんだがーーたぶんつぎのような原因によるのだ、すなわち、われわれが人生のある時期にいったきわめてわずかな言葉とか、ある時期にやったきわめて些細な身振とかは、論理的にすこしもそれとは関係がない諸物にとりかこまれ、その諸物の反映を受けていたが、それらの物を言葉、身振から切りはなしてしまったのは理知で、そうなった以上、理知は、われわれが推理を必要とする場合がきても、それらの物をどこにつなぐこともできなかったのだ。ところが、それらのさまざまな物のまんなかにはーーここには、田舎のレストランの花咲く壁面のばら色の夕映とか、空腹感とか、女たちへの欲望とか、ぜいたくへの快楽とががあり、かしこには、水の女精たちの肩のようにちらちらと水面に浮かびでる楽節の断片をつつみこむ朝の海の青い波の渦巻があるというふうにーーこの上もなく単純な身振や行為が、密封した千の瓶のなかにとじこめられたようになって残っており、その瓶の一つ一つには、絶対に他とは異なる色や匂や気温をふくむものが、いっぱいに詰っているだろう、いうまでもなく、それらの瓶は、われわれが単に夢によってであれ思考によってであれ、たえず変化することをやめないで過ぎてきたその年月順に配列されているのであり、また種々さまざまな高度に位置していて、われわれにきわめて多種多様な雰囲気の感覚をあたえるというわけなのだ。むろんそういう諸変化をわれわれは知らずのうちになしとげただろう。それにしても、突然われわれにもどってくる回想と、われわれの現状とのあいだには、異なる年月、場所、時間の、二つの回想のあいだにおいても同様だが、非常な距離がある、したがって、両者に特有の独自性を問題外にしても、その距離の点だけで、それぞれをたがいに比較できなくするに十分だろう。そうなのだ、回想は、忘却のおかげで、それ自身と現在の瞬間とのあいだに、なんの関係をむすぶことも、どんな鎖の輪を投げることもできなかった、回想は自分の場所、自分の日付にとどまったままだった、回想はいつまでもある谷間の窪道に、ある峰の尖端に、その距離、その孤立を保ってきた、というのが事実であるにしても、その回想が、突然われわれにある新しい空気を吸わせるというわけは、その空気こそまさしくわれわれがかつて吸ったある空気だからなのである。そうした一段と純粋な空気こそ、詩人たちが楽園にみなぎらせようと空しく試みたものであり、その空気は、すでに過去において吸われたことがあって、はじめて、あのように深い再生の感覚をあたえることができるのであろう、けだし、真の楽園とは、人がひとたび失った楽園なのだ。(プルースト『見出された時』P320-321)

 この「積極的意志/無意志的なもの」は、昨日も書いたが、プルースト=ドゥルーズによって、観察/感受性、哲学/思考、反省/翻訳、友情/恋愛、会話/沈黙した解釈》などと言い換えられる。



これらの、「友情/恋愛、会話/沈黙した解釈」の現象のあらわれとして読むことができる小林秀雄の「富永太郎の思ひ出」という短文がある。これも昨年の11月15日の日記にあり、この乾季のおけるプルースト的レミニサンス(無意志的記憶)の時が垂直に立ち上がる刻限の茫然自失から立ち直った後に書かれた文である。

記憶とは、過去を刻々に変へて行く策略めいた或る能力である。富永が死んだ年、僕は彼を悼む文章を書いたが、今それを読んでみて、当時は確かに僕の裡に生きてゐた様々な観念が、既に今は死んで了つてゐる事を確めた。そして、自分は当時、本当に富永の死を悼んでゐたのだらうか、といふ答へのない疑問に苦しむ。

これはまずは次のようなことを言っているはずだ。

(一般に)過去を変えることは不可能であるという思い込みがある。しかし、過去が現在に持つ意味は絶えず変化する。現在に作用を及ぼしていない過去はないも同然であるとするならば、過去は現在の変化に応じて変化する。過去には暗い事件しかなかったと言っていた患者が、回復過程において楽しいといえる事件を思い出すことはその一例である。すべては、文脈(前後関係)が変化すれば変化する。(中井久夫「統合失調症の精神療法」『徴候・記憶・外傷』P264)
 
しかし続いてある次の文の、

・《発熱で上気した頬の上部に黒い大きな隈が出来てゐて、それが僕をハッとさせた。強い不吉な印象であつた。》

・《死は殆ど足音を立てて彼に近付いてゐた。その確かな形を前にしながら、僕は何故、それを瞥見するに止めたのだらうか。其他これに類する強い印象を、彼の姿態から折に触れ、間違ひなく感受し乍ら、何故、それが当時も僕の心のなかで、然るべき場所を占めなかつたのであらうか。》

――これを読むと、《然るべき場所を占めなかつた》のは友情のせいじゃないかと読む(誤読)ことができるように思う。

彼の死んだ年の或る暑い真昼、僕は彼の家を訪ねた。彼は床の上に長々と腹這ひになつて鰻の弁当を食べてゐた。縁側から這入つて行く僕の方を向き、彼は笑つたが、発熱で上気した頬の上部に黒い大きな隈が出来てゐて、それが僕をハッとさせた。強い不吉な印象であつた。彼は最近書いたと言つて、小さな紙切れに鉛筆で走り書きしたものを見せた。"au Rimbaud"といふ詩だつた。彼は、目をつぶつたまゝ"Parmi les flots : les martyrs!"と呟いた。僕は紙切れを手にして、どんな空想を喋つたか、もう少しも覚えてゐない。だが、たつた今僕を驚かせた彼の顔を、もう少しも見てはゐなかつた事は確かである。死は殆ど足音を立てて彼に近付いてゐた。その確かな形を前にしながら、僕は何故、それを瞥見するに止めたのだらうか。其他これに類する強い印象を、彼の姿態から折に触れ、間違ひなく感受し乍ら、何故、それが当時も僕の心のなかで、然るべき場所を占めなかつたのであらうか。それはどんな空想のした業だつたのだらうか。彼が死んだ時に、僕は京橋の病院にゐて手術の苦痛以外に何も考へてはゐなかつた。間もなく僕はいろいろな事を思ひ知らねばならなかつた、とりわけ自分が人生の入り口に立つてゐた事に就いて。

 富永の霊よ、安かれ、僕は再び君に就いて書く事はあるまいと思ふ。(1941年1月、筑摩書房『富永太郎詩集』)

 富永の顔に現われた「黒い大きな隈」、そのシーニュを読みとる小林秀雄は、《観察/感受性、哲学/思考、反省/翻訳、友情/恋愛、会話/沈黙した解釈》における二分法の後者、「感受性=愛」の小林秀雄だったのだが、たちまち「おしゃべりな友人同士のコミュニケーション」によって、前者の「観察=友情」の構えになってしまったのだ。

真実の探求者とは、恋人の表情に、嘘のシーニュを読み取る、嫉妬する者である。それは、印象の暴力に出会う限りにおいての、感覚的な人間である。それは天才がほかの天才に呼びかけるように、芸術作品が、おそらく創造を強制するシーニュを発する限りにおいて、読者であり、聴き手である。恋する者の沈黙した解釈の前では、おしゃべりな友人同士のコミュニケーションはなきに等しい。哲学は、そのすべての方法と積極的意志があっても、芸術作品の秘密の圧力の前では無意味である。思考する行為の発生としての創造は、常にシーニュから始まる。芸術作品は、シーニュを生ませるとともに、シーニュから生まれる。創造する者は、嫉妬する者のように、真実がおのずから現れるシーニュを監視する、神的な解釈者である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』p199)

《誰かといっしょになったり、友人に話しかけたりすると、すぐ私の精神はくるりと向きを変え、思考の方向は、私自身にではなく、その話相手に移ってしまう。》(プルースト『花咲く乙女たちのかげに 二』)

小林秀雄は、話相手にあらわれた己れの「感受性」、「沈黙した解釈」を促すシーニュ(黒い大きな隈)を捨て去り、友情による「会話」、「観察」に移ってしまったのではないだろうか。すくなくとも、わたくしはそう読んでみたい誘惑にかられる。

《彼の姿態から折に触れ、間違ひなく感受し乍ら、何故、それが当時も僕の心のなかで、然るべき場所を占めなかつた》



私はあまりにも多く経験したのだった、私自身の奥底にあるものに、現実のなかで到達するのが不可能なことを。

日本には帰省する気はいまのところないね。過去10年以上のあいだ1年に1度は10日ほど帰っていたのだけれど、そしてこの3年ほど帰っていなくて懐かしいには違いないけれど、毎度のこと《あゝ おまへはなにをして来たのだと……/吹き来る風が私に云ふ》という気分になるからな。それとプルーストのいうような「失望」もあるしね。

…………

旅をするとは、何かを言うためにどこかに出かけて行き、また何かを述べるために帰ってくることにほかならない。行ったきり帰ってこないか、向こうに小屋でも建てて住むのであれば話しは別ですけどね。だから、私はとても旅をしようという気になれない。生成変化を乱したくなければ、動きすぎないようにこころがけなければならないのです。トインビーの一文に感銘を受けたことがあります。『放浪の民とは、動かない人たちのことである。旅立つことを拒むからこそ、彼らは放浪の民になるのだ』というのがそれです。(ドゥルーズ「哲学について」『記号と事件』)

このドゥルーズの《私はとても旅をしようという気になれない》などというものは、プルーストのヴァリエーションにすぎない、《動きすぎないようにこころがけなければならない》というのも同じく。もちろん、ひとがそれを勝手に「誤読」するのは自由である、--と書けば言い過ぎか?

哲学者には、《友人》が存在する。プルーストが、哲学にも友情にも、同じ批判をしているのは重要なことである。友人たちは、事物や語の意味作用について意見が一致する、積極的意志のひとたちとして、互いに関係している。彼は、共通の積極的意志の影響下にたがいにコミュニケーションをする。哲学は、明白で、コミュニケーションが可能な意味作用を規定するため、それ自体と強調する、普遍的精神の実現のようなものである。プルーストの批判は、本質的なものにかかわっている。つまり、真実は、思考の積極的意志にもとづいている限り、恣意的で抽象的なままだというのである。慣習的なものだけが明白である。つまり、哲学は、友情と同じように、思考に働きかける、影響力のある力、われわれに無理やりに考えさせるもろもろの決定力が形成される、あいまいな地帯を無視している。思考することを学ぶには、積極的意志や、作り上げられた方法では決して十分ではない。真実に接近するには、ひとりの友人では足りない。ひとびとは慣習的なものしか伝達しない。人間は、可能なものしか生み出さない。哲学の真実には、必然性と、必然性の爪が欠けている。実際、真実はおのれを示すのではなく、おのずから現れるのである。それはおのれを伝達せず、おのれを解釈する。真実は望まれたものではなく、無意志的である。

「見出された時」の大きなテーマは、真実の探求が、無意志的なものに固有の冒険だということである。思考は、無理に思考させるもの、思考に暴力をふるう何かがなければ、成立しない。思考より重要なことは、《思考させる》ものがあるということである。哲学者よりも、詩人が重要である。ヴィクトル・ユゴーは、初期の詩の中で哲学を形成している。なぜならば彼は、《自然のように、思考させることで満足するのではなく、また、みずから思考している》からである。しかしユゴーは、本質的なものは、思考の外側、思考を強制するものの中にあると教える。「見出された時」のライトモチーフは、forcer〔強制する〕ということばである。たとえば、われわれに見ることを強制する印象とか、われわれに解釈を強制する出会いとか、われわれに思考を強制する表現、などである。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「結論 思考のイマージュ」より p196)

強制するについては、次のように引用することもできる。

真実の探求者とは、恋人の表情に、嘘のシーニュを読み取る、嫉妬する者である。それは、印象の暴力に出会う限りにおいての、感覚的な人間である。それは天才がほかの天才に呼びかけるように、芸術作品が、おそらく創造を強制するシーニュを発する限りにおいて、読者であり、聴き手である。恋する者の沈黙した解釈の前では、おしゃべりな友人同士のコミュニケーションはなきに等しい。哲学は、そのすべての方法と積極的意志があっても、芸術作品の秘密の圧力の前では無意味である。思考する行為の発生としての創造は、常にシーニュから始まる。芸術作品は、シーニュを生ませるとともに、シーニュから生まれる。創造する者は、嫉妬する者のように、真実がおのずから現れるシーニュを監視する、神的な解釈者である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』p199)
『失われた時を求めて』は、一連の対立の上に築かれている。プルーストは、観察には感受性を対立させ、哲学には思考を、反省には翻訳を対立させる。知性が先にたち、《全体的な魂》というフィクションの中に集中させるような、われわれのすべての能力全体の、論理的な、あるいは、連帯的な使用に対して、われわれがすべての能力を決して一時には用いず、知性は常にあとからくることを示すような、非論理的で、分断されたわれわれの能力がある。また、友情には恋愛が、会話には沈黙した解釈が、ギリシア的な同性愛には、ユダヤ的なもの、呪われたものが、ことばには名が、明白な意味作用には、中に包まれたシーニュと、巻き込まれた意味が対立する。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「アンチ・ロゴスと文学機械」の章  P118

ここにある二項対立、観察/感受性、哲学/思考、反省/翻訳、友情/恋愛、会話/沈黙した解釈などが、「動きすぎれば」前者となってしまうということだ。それは積極的意志/無意志的なものの二項対立でもある。ようするにこれらは、《ふと何ごとかが起こりそうな気配を察知し、到来すべき「シーニュ」の予兆に身をまかせ》ること(蓮實重彦)にかかわる。「ギリシア人になる」とは、前者を捨てて、後者を取ることだ(「ギリシャ人を装うこと」)。

……自分を煽りたてていた構造主義的な熱病にすっかりいやけがさして『テクストの快楽』や『恋愛のディスクール・断章』に逃れたなどといってみても、事情は変わらない。快楽も、愛も、好奇心から生まれるものでないという点が重要なのだ。好奇心とは、好奇心とは、特権的な感覚器官を粗雑なままに特権化し、主体を拡散と断片化の力学にさからわせようとする、知性の、独断的で退屈な拒絶の儀式にほかならない。ことによると、それは、無自覚なまま先取りされた死の実践であるかもしれぬ。自分に対しても、他者に対しても、いたわりを欠いた振舞いであるが故に、それは独断的なのだ。好奇心とは別の文脈に生きること。中庸の記号たるバルトの真の美しさは、そうした願望を、決定的な実現へと導くことなく、退屈と倦怠のよるべなさと戯れさせた点にある。それが彼自身の生の倫理だ。(蓮實重彦 「倦怠する彼自身のいたわり」)

この文でさえ、プルーストの変奏として、あるいはまた「動きすぎてはいけない」の変奏として読むことができる。好奇心の次元とは、上記の二項対立、「積極的意志/無意志的なもの」などの前者に属するのはいうまでもない。退屈と倦怠のよるべなさとは、ロラン・バルトの「動きすぎてはいけない」だ。

というわけでプルーストを引用しよう。

単なる過去の一瞬、それだけのものであろうか? はるかにそれ以上のものであるだろう、おそらくは。過去にも、そして同時に現在にも共通であって、その二者よりもさらにはるかに本質的な何物かである。これまでの生活で、あんなに何度も現実が私を失望させたのは、私が現実を知覚した瞬間に、美をたのしむために私がもった唯一の器官であった私の想像力が、人は現にその場にないものしか想像できないという不可避の法則にしばられて、その現実にぴったりと適合することができなかったからなのであった。ところが、ここに突然、そのきびしい法則の支配力が、自然のもたらした霊妙なトリックによって、よわまり、中断し、そんなトリックが、過去と現在とのなかに、同時に、一つの感覚をーーフォークとハンマーとの音、本のおなじ表題、等々をーー鏡面反射させたのであった。そのために、過去のなかで、私の想像力は、その感覚を十分に味わうことができたのだし、同時に現在のなかで、物の音、リネンの感触等々による私の感覚の有効な発動は、想像力の夢に、ふだん想像力からその夢をうばいさる実在の観念を、そのままつけくわえたのであって、そうした巧妙な逃道のおかげで、私の感覚の有効な発動は、私のなかにあらわれた存在に、ふだんはけっしてつかむことができないものーーきらりとひらめく一瞬の持続、純粋状態にあるわずかな時間――を、獲得し、孤立させ、不動化することをゆるしたのであった。あのような幸福の身ぶるいでもって、皿にふれるスプーンと車輪をたたくハンマーとに同時に共通な音を私がきいたとき、またゲルマントの中庭の敷石とサン・マルコの洗礼堂との足場の不揃いに同時に共通なもの、その他に気づいたとき、私のなかにふたたび生まれた存在は、事物のエッセンスからしか自分の糧をとらず、事物のエッセンスのなかにしか、自分の本質、自分の悦楽を見出さないのである。私のなかのその存在は、感覚機能によってそうしたエッセンスがもたらさえない現在を観察したり、理知でひからびさせられる過去を考察したり、意志でもって築きあげられる未来を期待したりするとき、たちまち活力を失ってしまうのだ。意志でもって築きあげられる未来とは、意志が、現在と過去との断片から築きあげる未来で、おまけに意志は、そんな場合、現在と過去とのなかから、自分できめてかかった実用的な目的、人間の偏狭な目的にかなうものだけしか保存しないで、現在と過去とのなかの現実性を骨ぬきにしてしまうのであるところが、すでにきいたり、かつて呼吸したりした、ある音、ある匂が、現在と過去との同時のなかで、すなわち現時ではなく現実的であり、抽象的ではなく観念的である二者の同時のなかで、ふたたびきかれ、ふたたび呼吸されると、たちまりにして、事物の不変なエッセンス、ふだんはかくされているエッセンスが、おのずから放出され、われわれの真の自我がーーときには長らく死んでいたように思われていたけれども、すっかり死んでいたわけではなかった真の自我がーーもたらされた天上の糧を受けて、目ざめ、生気をおびてくるのだ。時間の秩序から解放されたある瞬間が、時間の秩序から解放された人間をわれわれのなかに再創造して、その瞬間を感じうるようにしたのだ。それで、この人間は、マドレーヌの単なる味にあのようなよろこびの理由が論理的にふくまれているとは思わなくても、自分のよろこびに確信をもつ、ということがわれわれにうなずかれるし、「死」という言葉はこの人間に意味をなさない、ということもうなずかれる。時間のそとに存在する人間だから、未来について何をおそれることがありえよう?(プルースト「見出された時」P324-326 井上究一郎訳 文庫)

これだけではピンとこないかもしれないので、次ぎの文をもつけ加えておこう。

――私は、ヴェネチアの、とりわけ私には春の、水路めぐりに行くことは、季節の関係で、むりだとしても、すくなくともバルベックにふたたび行ってみたい、という誘惑に駆られはした。しかし私は、そうした考に、一瞬間とはとどまれなかった。それは私がつぎのことを知っていたからだ、――土地はその名が私に描きだすようなものではもはやなく、またある土地が、人に見られ人にふれられる共通のものから判然と区別された純物質でつくられて、私のまえに横たわるのは、いまはもう私が眠っている夢のなかでしかないし、人々に共通のそのようなものも、純物質でつくられていたのは、私がそれらを想像に描いているときのことでしかなかった、ということを。そして単にそれだけではなく、さらに、土地の名が描きだすものとは別種の映像、回想の映像に関しても、私はつぎのことを知っていたからだ、――バルベックの美は、一度その土地に行くともう私には見出されなかった、またそのバルベックが私に残した回想の美も、もはやそれは二度目の逗留で私が見出した美ではなかった、ということを。私はあまりにも多く経験したのだった、私自身の奥底にあるものに、現実のなかで到達するのが不可能なことを。また、失われた時を私が見出すであろうのは、バルベックへの二度の旅でもなければ、タンソンヴィルに帰ってジルベルトに会うことでもないのと同様に、もはやサン・マルコの広場の上ではないということを。また、それらの古い印象が、私自身のそとに、ある広場の一角に、存在している、という錯覚をもう一度私の起こさせるにすぎないような旅は、私が求めている方法ではありえない、ということを。またしてもまんまとだまされたくはなかった、なぜなら、いまの私にとって重大な問題は、これまで土地や人間をまえにしてつねに失望してきたために(ただ一度、ヴァントゥイユの、演奏会用の作品は、それとは逆のことを私に告げたように思われたが)、とうてい現実化することが不可能だと思いこんでいたものにほんとうに自分は到達できるのかどうか、それをついに知ることであったからだ。それゆえ私は、無益におわると長いまえから私にわかっている手にのって、また一つよけいな経験を試みようとはしなかった。私が固定させようとつとめているいくつかの印象は、その場の接触でじかにたのしもうとすると、消えうせるばかりであり、直接のたのしみからそれらの印象を生まれさせることができたためしはなかった。それらの印象を、よりよく味わうただ一つの方法は、それらが見出される場所、すなわち私自身のなかで、もっと完全にそれらを知る努力をすること、それらをその深い底の底まであきらかにするように努力することだった。これまで私は、バルベックにいることの快感をその場では知ることができず、アルベルチーヌと同棲することの快感をそのときには知ることができなかった、快感は事後でなくては私に感知されなかったのであった。ところで、これまで生きてきたかぎりにおける私の人生の失望は、私に、人生の現実は行動にあるのではなくてもっとほかのところにあるにちがいないと思わせたのだが、そんな失望をいま私が要約するとなれば、それぞれちがった落胆を、単なる偶然のなりゆきでむすびつけたり、私の生存の状況にしたがって関連づけたりするわけには行かなかった。私がはっきり感じたのは、旅行の失望も、恋の失望も、別段ちがった失望ではなくて、おなじ失望の異なる相であり、われわれが肉体的な享楽や実際的な行動で自力を十分に発揮できなかったときのその無力感が、旅行とか恋とかいう事柄にしたがって、そういう異なる相を呈する、ということだった。そして、あるいはスプーンの音、あるいはマドレーヌの味から生じた、あの超時間的なよろこびをふたたび考えながら、私は自分にいうのだった、「これであったのか、ソナタの小楽節がスワンにさしだしたあの幸福は? スワンはこの幸福をあやまって恋の快感に同化し、この幸福を芸術的創造のなかに見出すすべを知らなかったのであった。この幸福はまた、小楽節よりもいっそう超地上的なものとして、あの七重奏曲の赤い神秘な呼びかけが私に予感させた幸福でもあった。スワンはあの七重奏曲を知ることができないで死んだ、自分たちのために定められている真実が啓示される日を待たずに死んだ多くの人たちとおなじように。といっても、その真実は彼には役立つことができなかっただろう、なぜならあの楽節は、なるほどある呼びかけを象徴することはできたが、新しい力を創造する、そして作家ではなかったスワンを作家にする、ということはできなかったから(同P331-334)

この文のヴァリエーションとして中井久夫もこう書いている。

時々さういふことがある。その人にとって重要な意味を持ってゐるかに見える場所へ行ってゐないといふことである。その理由はさまざまである。

たとへばフランスの詩人ポール・ヴァレリーであるが、ギリシャと結び付けられること多く、実際、ギリシャの建築家の登場する対話編『エウパリノス』、ギリシャ建築を讃えた詩「円柱の歌」デルフォイの巫女に仮託した狂気の詩「巫女」などを書いたこの詩人はつひにギリシャの土を踏んでいない。

私はある時そのことを知って、いささか意外であった。

彼が何度も足を運んでゐるのは英国である。実際、二十歳の精神的危機以後の重要な人格形成と再編成は二十四歳までの二回に及ぶ英国滞在中になされた。二十八歳の彼が選んだ新婚旅行先はオランダである。後年の講演旅行先も、ジュネーヴ、ブタペスト、ストックホルム、そしてまた、何度も英国である。そして彼は語らないが、英詩に詳しい。

南仏出身のヴァレリーには実は強い北方指向性がある。他方、北方出身の親友ジッドには青年時代のホメロス味読があり、北アフリカが個人的にも文学作品でも重要な位置を占めてゐる。ジッドの第一作『アンドレ・ワルテルの手記』に恋人と二人でホメロスを読む段があるが、あれほど共感的にホメロスが読めるのは若い私には驚異であった。

ヴァレリーには「ギリシャに行かざるの弁」を述べてゐないやうだが、『源氏物語』の有名な英訳者アーサー・ウェーリーは、明治・大正の日本に何度も招かれながら、つひに招待を断り通した。彼は「私の行きたいのは王朝時代の日本であって今の日本ではない」と答へつづけた。私には彼の気持ちがわかる。現代ギリシャ詩を量だけは相当翻訳してゐる私も、実はギリシャに行ったことがない。私の現代ギリシャは詩が呼び覚ます想像の土地である。その想像がギリシャ詩の翻訳を生む腐葉土になってゐる。この非在の肥料によって閉じられた円環が私の翻訳を成り立たせてゐる。ヴァレリーもである。私と彼との縁は十代に始まる。三十二歳で始めた精神医学より遥かに古い。偶然がリルケの独訳からヴァレリーの詩に私を導いた。邦訳の入手は遥かに後であり、実はさほど読み込んでゐない。この偶然が私を長くヴァレリーに繋ぎとめたのかもしれない。

だが、私はヴァレリーの誕生の地であり「海辺の墓地」のあるセットには行ってゐない。いかうとすると何か故障が起こる。ほんたうに私はセットに行きたいのだろうか。自問すると答へは曖昧である。錯覚であるが、もう行ったやうな気もする。

ある時、「ああ、さうか」と思った。フランス留学中であった若い精神科医9.白川美也子から1946年版のヴァレリー画集を贈られた。敗戦直後の出版であり、珍しい資料だということで一部をみすず版の『若きパルク/魅惑』(1995年)に掲載した。

しかし、私はひそかな失望を味はっていた。詩人描くところの『若きパルク』の挿絵、とりわけ最後の、パルクが朝の太陽を迎へる絵である。私は、ずんぐりした女性が森の間から花束を小さく色薄い太陽に向かって振ってほしくなどなかった。私が原詩から得てゐたものは、はるかに絢爛、はるかに多重、はるかに多声、はるかにリアルであった。私は、長き欲望の地をつひに踏んだ時にしばしば起こる「興ざめ性」と同じものをしたたかに味はった。

アーサー・ウェイリーの日本非訪問は、この「興ざめ性回避」に違ひない。ヴァレリーがギリシャを訪れないのにも、それがあったらう。(「「その地」を訪れざるの記」『関与と観察』中井久夫)



2014年11月9日日曜日

Swingle Singers&ボビー・マクファーリン バッハAir

……後年六人組やストラヴィンスキーに影響を与えたミュージック・ホールやジャズの好みをさきどりした《ミンストレル》とか《風変わりなラヴィヌ将軍》は、とびはねるようなリズムを生命とする《パックの踊り》やユーモラスな《ピックウィック殿礼賛》らとともに特別の私の好みというのでもない。同じようなことは《亜麻色の髪の娘》についてもいえる。これはまた、それにヴァイオリン独奏用に編曲されたりして感傷的にひかれすぎ、あまりにも通俗化されすぎてしまった。「名曲」の悲しい運命である。ちょうどショパンの《幻想即興曲》とか、モーツァルトの《Eine Kleine Nachtmusik》のように。こうなると、耳を新しくしてきき直すといっても、実際はちょっとやそっとのことでやれるものではない。というのは、曲自体の方にもーーいかに簡潔は芸術の美徳とはいえーー何かの原因があって、やたらと野外の公園や、家庭音楽会や通俗名曲の夕べでひかれすぎるようになる要素が存在しているのだ。(吉田秀和「ドビュッシー《前奏曲集》」『私の好きな曲』)

バッハのAirも、モーツァルトの《Eine Kleine Nachtmusik》と同じように、名曲の悲しい運命に遭遇したといってよいだろう。


まずSwingle Singers、あるいはMJQとのバッハのAirを貼りつけよう。


◆les swingle singer - JAZZ SEBASTIEN BACH 3/23 - Aria dalla Suite n°3 in ReM BWV 1068 (1963)




◆Bach:The Swingle Singers The Modern Jazz Quartet Air For G String1]




そして1990年の水戶室內管弦樂團との小澤征爾。




ーー小澤征爾は、カラヤン追悼1989でもWiener Philharmoniker で、この曲を演奏している。上の一年後の演奏は、日本におけるカラヤン追悼であるだろう。

◆Herbert Von Karajan - Johann Sebastian Bach - Air on the G String





だが、名曲の悲しい運命なんていっても、オレもバッハのAIRはSwingle Singers&MJQで最初に出会ったんだしな。気軽にきける曲だっていいさ。Bobby Mcferrinなんかその名曲の悲しい運命に抵抗した味わいだしてるしな。

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◆Air. J.S. Bach Bobby Mcferrin



◆Bach - Air on G String by Yo Yo Ma and Bobby Mcferrin