以下、蓮實重彦/柄谷行人対談集『闘争のエチカ』(1988)より抜粋。
◆国際化時代といわれたりしているけど、情報といわれているもののほとんどは、国内的に消費されるものばかりです。また、発信者のほうでも、そのつもりで記号を送っている。その意味じゃ非常に政治化されやすい情報ばかりが流通していますね。
僕が批評家として位置しているコミュニケーション空間にあるのは、情報交換とは違う運動です。さっきもちょっといったけど、日米経済摩擦にしても、国内的な情報としてしか交換されていないし、けっしてコミュニケーションとして体験されていない。つまり、物語として共同体的に消費されているだけ(蓮實)
◆さっき僕は、情報空間とコミュニケーション空間を区別したんだけど、その情報空間というのが共同体としての日本にあたるわけです。それは、また文学対言語にあたるものです。そして、前に挙げた区別をまた使えば、情報空間はイメージを介した物語の領域だといってもよい。その意味で、他の書物で「説話論的磁場」と呼んだものに相当しています。それに対して文学というのは、イメージを欠いた差異の世界であり、文壇といった共同体のことではなく、作品という表層のことです。だから、ここでの階級闘争は、言語対文学だというべきかもしれない。言語は、作品を自分の中に閉じ込めようとする。作品はその外に出ようとする。そして、批評が、その外に出ようとする力を活気づけるとき、コミュニケーションが起こる。つまり、そこで初めてインターテクストの問題が語りうるわけです。(蓮實)
◆インターナショナルが共同体の外で問題であるように、インターテクストも言語の外の問題なんです。インターナショナルというのは、複数の国家の集合ではなく、そのいずれにとっても外にある現象でしょう。インターテクストというのも同じですよね。だから、インターテクストは作品についてしか語りえず、言語の問題ではない。批評とは、そうした意味でのコミュニケーションに加担することでしょう。(つまり、ここでのインターナショナルは、柄谷行人が後年使用する「トランスナショナル」であり、そしてここで語られている「批評」が、トランスクリティークであるだろう。;引用者)(蓮實)
◆たぶんスピノザの『エチカ』(倫理学)は、認識そのものの倫理性をいったのだと思うんです。人間がたえず表象(想像)にとらわれていること―――「自由意志」もまた想像物です―――に対して、徹底的にその「原因」を探ろうとする態度、それがスピノザの倫理です。スピノザにとっては、道徳、つまり善悪の区別も、想像物なのですね。マルクスは、スピノザが「表象」とよんだものを、「イデオロギー」とよんでいる。そして、彼は、人間の考えることはすべてイデオロギーだと考えている。それに対して可能なのは、別の真理(イデオロギー)を立てることではなくて、この「表象」をもたらす「原因」を見出そうとすることだけだと考える。そこから彼の徹底性が出てくる。そこから彼の徹底性が出てくる。そういう徹底性が彼の倫理なのですね。『資本論』の序文で、彼は自分は「自然史的立場」、いわば「善悪の彼岸」に立つといっていますけれど、まさに、それが彼の倫理性ではないかと思うんです。(柄谷)
※参照:柄谷行人『探求Ⅱ』
スピノザは、身体からくる受動感情(情念)を”意志”によって克服しようとする姿勢を否定する。感情に対しては、われわれはその原因を知ろうと努めることしかできない。感情にとってかわるのは、意志ではなく、もう一つの感情である。いいかえれば、意志そのものが、われわれが複雑すぎるがゆえにその原因を知らないところの欲望(意識された衝動)にほかならない。くりかえしていうが、スピノザはそのような感情や欲望の不可避性を承認しようとするのであって、それを理性や意志によって克服しようとする態度を否定するのである。
《感情は、それと反対の、しかもその感情よりもっと強力な感情によらなければ抑えることができない》(『エチカ』)。これは、ある意味で、フロイトが宗教についていったことを想起させる。フロイトの考えでは、宗教は集団神経症である。神経症を意志によって克服することはできない。が。彼は、ひとが宗教に入ると、個人的神経症から癒えることを認めている。それは、ある感情(神経症)を除去するには、もっと強力な感情(集団神経症)によらねばならないということである。むろんフロイトは、神経症を集団神経症によって癒すことに反対である。困難であるとしても、個人的・集団神経症に対して立ち向かう方法がひとつある。それはスピノザのいったつぎのことである。
《受動の感情は、われわれがその感情についての明瞭・判明な観念を形成するば、ただちに受動の感情ではなくなる》(『エチカ』)。
つまり、それについて「明瞭・判明な観念」をもつこと以外には、受動性のなかにある状態から出られないと、スピノザはいうのだ。この場合、彼は感情のみについて語っているけれども、「受動性」はすべての「意識」についてあてはまる。真理の意識さえでも表象であり、受動性においてある。真理としてのイデオロギーを越えるのは、いつも別の真理のイデオロギーである。
こ こで、すでに示唆してきたように、いくつかの疑問が生じる。それは先ず、真理の意識そのものを表象とみなす「観念」は、それ自体意識ではないのか、という ことだ。これはつぎのようにもいいかえられる。われわれが自然史のなかにあり、受動性=表象のなかにあって、それを超越しうるという考えそのものが表象に すぎないとするならば、そのようにいうこと自体は超越なのではないか、と。あるいは、個としての主体を受動的な表象とみなすとき、なおそれをそのようにみ なす主体があるのではないか、と。
説話論的磁場。それは、誰が、何のために語っているのかが判然としない領域である。そこで口を開くとき、人は語るのではなく、語らされてしまう。語りつつある物語を分節化する主体としてではなく、物語の分節機能に従って説話論的な機能を演じる作中人物の一人となるほかないのである。にもかかわらず、人は、あたかも記号流通の階層的秩序が存在し、自分がその中心に、上層部に、もっと意味の濃密な地帯に位置しているかのごとく錯覚しつづけている。
近代、あるいは現代と呼ばれる同時代的な一時期における自我、もしくは主体とは、この錯覚に与えられたとりあえずの名前にすぎない。
(……)
わ れわれは、説話論的な磁場の生成(……)があたかも自然現象であるかにみなされる世界に暮らしている。もっとも、その無自覚なさまを、たとえば「イデオロ ギー」と呼ぶことで覚醒させようとした試みがなかったわけではない。しかし、説話論的磁場にあっては、この概念すらがたちどころに自然化されて、過剰なる ものの隆起として人を戸惑わせる力を失ってしまう。それはおそらく、同時代にふさわしい戦略性がそこに欠落していたからであろう。
※参照3:柄谷行人『トランスクリティーク――カントとマルクス――』
カントは一般性と普遍性を鋭く区別していた。それはスピノザが概念と観念を区別していたのと同様である。普遍性は或る飛躍なしには得られない。最初に述べ たように、認識が普遍的であるためには、それがア・プリオリな規則にもとづいていることではなく、われわれのそれとは違った規則体系の中にある他者の審判 にさらされていることを前提している。これもで私はそれを空間的に考えてきたが、むしろそれは時間的に考えられねばならない。われわれが先取りすることが できない他者とは、未来の他者である。というより、未来は他者的であるかぎりにおいて未来である。現 在から想定できるような未来は、未来ではない。このように見れば、普遍性を公共的合意によって基礎づけることはできない。公共的合意はたかだか現在のひとつの共同体――それがどんなに広いものであれ――に妥当するものでしかない。