以下、『闘争のエチカ』(蓮實・柄谷対談集 1988)からの抜粋。ここでは蓮實重彦の発言のみをいくつか拾う。
【無謀な列挙】
僕がやっている批評のほとんどは無駄に近い列挙なんです。これもありますよ、これもありますよ、というようなものでね。こっち見てごらんなさい。夏目漱石、こんなことを書いていますよ。またこっちではこんなことを書いていますよ、という愚鈍なまでの列挙なんです。その意味では批評というより事項が並んでいるだけなんです。ところがいまの若い人たちは列挙しないんですね。非常に優雅に自分の言葉に置き換えちゃっている。(……)
僕の無駄というのは、その無謀な列挙にある。なぜ列挙するかというと、列挙することそのものがかろうじて根拠たりうるようなものしか論じないからです。たとえば、ジョン・フォードには太い大きな幹が出てくる。僕は、それを美しいと思う、というよりそのことに理由のない恐れをいだく。しかしそれには何の意味もない。ただ、太い樹木の幹が見えるというだけなんです。だから『静かなる男』にもあった、『タバコロード』にもあった、『我が谷は緑なりき』にもあったと際限なく羅列してゆくしかない。
【批評の役割、あるいは解釈の始まる現場「表層」】
……みんな、批評というものを解釈だと勘違いしてしまったんですよ。解釈といったって、形式を読むこともしなければ、ましてや魂の唯物論的な擁護などと思ってもみない。共同体が容認しうるイメージへと作品を翻訳することを意味の解釈だと思っちゃった。(……)
批評の第一の役割は、作品の意味が生成される可能性を思い切り拡げることであり、それを閉ざすことではない。ところが、みんな、無意識に意味生成の場を狭めればそれが主体的だと思ってるんです。僕はそれを可能な限り豊かなものにすることを一貫してやってきた。べつに、意味を無視したわけじゃあないんです。読むことって、無数の意味の闘いでしょ。表層というのは、その闘いの現場であるわけです。解釈が始まるのは、その闘いの現場を通過してからの話でなければいけない。
【「分析の言説化」と「言説化のためのみの分析」】
意味生成の可能性をとことん拡げてその一つひとつのケースを検討するということがないから、分析の言説化ではなく、言説化のための分析しか行われない。要素に分解すること、その諸要素の組み合わせが示す表情をくまなく記述するという、ごく古典的な論述形式さえ定着していない。
【唯一、思考の始動させるものとしての表象不能なものへの驚き】
「観念」というものはいつでも表象可能であり、それは当然なことですが、まさに思考とは表象作用とはまったく別のものであり、であるがゆえに、われわれはイメージなき思考というドゥルーズ的な命題の前に立ちどまりもするわけです。そもそも僕は、人間だけが本能を欠落させた動物だとか、外部を発見したことで人間と動物との差異が生じたといった議論はまったく不毛だと思う。人間は動物になることが可能なんです。愚鈍さというのがその状態であり、これは自然への回帰などといったこととはまるで異質の体験です。愚鈍さといっても、多くの場合、比喩的なものではあるのですが、表象不能の何かを前にした驚きなしに思考は始動しないわけです。そんなことは、人類がなぜ狂者とともに生きてきたかを考えれば明らかでしょう。
【魂の唯物論的擁護】
魂の唯物論的な露呈をさまたげているもの、それはイメージです。観念といってもよい。つまり、表象可能なものによってしか批評が支えられていない。ここで魂というのは、いささかも宗教的な意味はないし、また、プラトニズム的な色彩も含んではいないものです。むしろ、ドゥルーズのいうアンタンシテ(強度)に触れて具体的に他となる部分が魂であって、唯物論的というのは、たんなる物質というのではなく、肉体的な運動、つまりアクションを必然化するものなのです。宗教やプラトニズムの残滓が、魂の唯物論的な露呈をさまたげているというべきなのです。その意味で、現代の批評は、宗教的でプラトニズム的だとさえ言えると思う。
僕が表層批判ということを、あえて誤解を覚悟でいったのは、そうした現状にいらだってのことです……。
【魂が露呈する場としての表層】
魂が露呈されるのは、表層なんです。何かの表面とかそういうものでもなく、柄谷さんのことばで言えば交通空間ということになるのかもしれないけれど、これまでの僕の言葉でいうなら、イメージのない差異、あるいは無根拠な根拠ということにある。しかし、このイメージのない差異があって可視的な差異が体系化されるといった、始まりの根拠づけとしてそれがあるんじゃあない。表層というやつを、ひとはすでに知っているんです。それは未知のものではなく、だから既知というのでもないけれど、それと出会えばわかるんです。そしてそうして表層で魂と遭遇するとき、それにイメージを与えることなく肯定することがわれわれにはできる。もう、直接的にそれとわかって肯定してしまう。それに、「美しい」という共同体的なタームを与えることはイメージ化の危険をたえず伴っているわけですが、それをも恐れずに肯定しうる何かがその魂にはそなわっている。それが「記号」なのであって、しるしでもあるわけです。(……)人類はそうした「記号」を抑圧するために発見されたことになるでしょう。それに、あえて唯物論的という形容詞をつけるのは、イメージの側に回収させてはならないという意図からにすぎません。
【反復を抑圧する要約】
流通するのは、いつも要約のほうなんです。書物そのものは絶対に流通しない。ダーヴィンにしろマルクスにしろ、要約で流通しているにすぎません。要約というのは、共同体が容認する物語への翻訳ですよね。つまり、イメージのある差異に置き換えることです。これを僕は凡庸化というのだけれど、そこで、批評の可能性が消えてしまう。主義者が生まれるのは、そのためでしょう。書物というのは、流通しないけど反復される。ドゥルーズ的な意味での反復ですよね。そして要約そのものはその反復をいたるところで抑圧する。批評は、この抑圧への闘争でなければならない。
言語ゲーム(ヴィトゲンシュタイン)のなかでは、間違いとか、誤りとかいう話がなくなるでしょう。もちろんシステムとしての言語だったら、間違いが出てくるし、それは修正しうるし、それを説得できる(……)。
システムのなかでしか考えられない人々は書物が流通しない、書物は差異として反復されるという体験のない貧しい連中だと思う。
【小説と物語】
さっき、書物は流通しない、差異として反復されるしかないと言ったけれど、小説というものも流通しないんです。物語のほうは、無限に流通して行きます。差異としてではなく、類似のヴァリアントとして反復される。それは、相対的な差異のイメージとして流通するということの意味でしょう。だから、小説を読むことと物語を読むこととは、まったく別の体験になる。しかし、その別種の体験が、最後まで別のものだったら、小説がこれほど読まれることはないだろう。ニューズを掘り下げると物語に吸収されて行くと言われたけれど、掘り下げるというのは、一種の凡庸化でしょう。そして、小説を書く限り、この凡庸化に期待せざるをえないというのが、小説の自己撞着であるわけです。これに対して、小説家は倒錯的な形でしか対応できない。
(引用者注:柄谷行人の発言、「古い新聞を読むと面白いけど、古い週刊誌はまことにつまらない」受けて。)
【同時代の批評家の義務】
僕は、同時代の批評家の義務は、時代を先導しつつある作家を殺すことにあると思う。つまりその物語を解体するということですね。
【再度、小説と物語】
物語というのは、さっき「それから?」という話が出たけれども、全部読まなければだめなんですよね。全部聞かなきゃいけない。知っているけれども全部聞かなければいけない。中断というのはいけないわけです。
小説というのは、僕は形式的に中断できると思う。読み方においても中断できるし、書き方においても中断できる。(……)
小説が、何にいちばん似ているかと言うと、僕は百科事典に似ていると思う。どこのページから読みはじめてもかまわないのが小説だという意味で似ているのであり、それは物語に対する逆らい方でもあるわけだけれども、実際に面白い小説ってそうでしょう。どこを読んだっていいわけです。
(……)
たとえば夏目漱石の『猫』なんて、連載されたときは、みんな順を追って読んだかもしれないけれど、いま、はじめから律儀に読んで読み終わって、ああ面白いと思うやつはバカだと思う。そもそもそうした読まれ方にふさわしい構成を持っていないのだからあれはちょっと見ればいいわけです。いずれにしても、断片的かつ局部的な読み方のほうが生産的なんです。プルーストの『失われた時を求めて』にしたって、あれを読了して感動したというやつはバカだと思う。何回も読んだという人もいますけれどね、あれは断片で充分なものであって……。
※参照1:ドゥルーズ『差異と反復』より
差異は、表象=再現前化の諸要請に服従させられているかぎり、それ自身において思考されていないし、それ自身において思考される可能性もない。<差異は「つねに」それらの諸要請に服従させられていたのか、そうだとすればどのような理由で>という疑問は、当然注意深く検討してみるべきものである。しかし、純然たる齟齬するものたちが、わたしたちの表象=再現前化的な思考には近づくことのできない或る神的な知性の天上の彼岸を、あるいは非類似の 《大洋》の、わたしたちには測深できない手前にある冥府を形成しているということも明らかである。いずれにせよ、それ自身における差異は、その差異を思考 されうるものに仕立てあげてしまうような、異なるものと異なるものとのあらゆる関係を拒絶するように思われる。まさしく思考されうるものへと、それ自身に おける差異が生成するのは、飼い馴らされる場合、すなわち、表象=再現前化の四重の首伽〔諸要請〕──概念における同一性、述語における対立、判断におけ る類比、知覚における類似──に服従される場合でしかないと思われる。
※参照2:柄谷行人『探求Ⅱ』―――「他者」との交通
「他者」は、異者が実は内在的であるに対して、外在的(超越的)である。それは超越者ということを意味するのではなく、いかなる意味でも自己または共同体 に対して異質であり、後者の“疎外”や“理想化”として在るのではないということを意味している。「他者」は聖なるものではないし、不気味なものでもな い。だが、親密でもない。「他者」との交通には、ひとつの“飛躍”がともなう。だが、それはエクスタシーの如きものではない。たとえば、「神との合一」と いう神秘主義的な体験は神と人間との本来的な“同一性”を前提としているが、異質なものとしての「他者」については合一などありえないからだ。 extasyは、自己同一性のなかに回帰することである。しかるに、「他者」との関係における実存existenceは、自己同一性から出ることである。
※用語:「他者」と「異者」
異者は、共同体の同一性・反復のために要求される存在であり、共同代の装置の内部にある。共同体は、スケープゴートとしてそのような異者を排除するし、またそれを「聖なるもの」として迎えいれる。
異者も他者も、私にとって異質な存在である。異者と他者の違いは、他者が単独性において見られるのに対し、異者が一般性(類型)においてみられること。怪 物、鬼畜、でぶ、ちび、奇形、外人、毛唐、―――。異形なるもの、異様なるものが、そういわれるのとは逆に陳腐なまでに類型的。(同上)
※参照3:ウィトゲンシュ タイン「数学の基礎」より
証明の背後にある何かが証明するのではなく、証明が証明するのである。…数学はいつも新しい規則をつくり続け、いつも新しい交通路をつくっている、古い 道路網をひろげることによって。/数学者は発明家であり、発見家ではない。/数学者はいつも新しい表現形式をつくりだす、といえよう。