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2013年6月4日火曜日

フロイトのナルシシズム的強迫型をめぐって

フロイトは、『ナルシシズム入門』(1914)で、二つの根源的な対象選択、つまり性愛の対象選択として、ナルシシズム型と依存型に分かれるとはしているが、すぐさま《すべての人間は一次的ナルシシズムをそなえており、これが場合によっては対象選択のさいに優勢に顕れてくることがあるかもしれない、と仮定するのである》(著作集3 p121、とつけ加えることを忘れない。

フロイトは、愛の対象選択として、

ナルシシズム型は、(a)現在の自分、(b)過去の自分、(c)そうなりたい自分、(d)自己自身の一部であった人物(子供)

依存型は、(a)養育してくれる女性、(b)保護してくれる男性

としている。

この二つの型は、たとえばラカン派ではしばしば語られ、たとえばラカンの娘婿でもあるジャック=アラン・ミレールは次のような例を挙げている。

It’s very much in evidence in love at first sight. The classic example, commented on by Lacan, is in Goethe’s novel, the sudden passion of young Werther for Charlotte, at the moment he sees her for the first time, feeding the rabble of kids around her. Here it’s the woman’s maternal quality that sparks off love. Another example, taken from my practice, is the following: a boss in his fifties is seeing applicants for a secretarial post; a young woman of twenty comes in; straight away he declares his love. He wonders what got hold of him and goes into analysis. There, he uncovers the trigger: in her he met traits that reminded him of what he had been at the age of twenty, when he went for his first job interview. In a way, he’d fallen in love with himself. In these two examples we see the two sides of love distinguished by Freud: either you love the person who protects, in this case the mother, or you love a narcissistic image of yourself.(Jacques-Alain Miller: On LoveーーWe Love the One Who Responds to Our Question: “Who Am I?”)

このふたつの型のうちの依存型も、第一次ナルシシズムをそなえている、とフロイトは書いているわけだ。つまり、すべての人間は自己愛者(ナルシシスト)であると言っているとしてよいだろう。

依存型の対象としての養育してくれる女性と保護してくれる男性というのは、例外はあるにしても、「母」と「父」とすることができる。この「両親」たちの幼児に向けての養育と保護の振舞いそのものが彼ら自身のナルシシズムであるとされている。

ものやさしい両親が子供たちにとっている態度を注意してみると、それがもうとっくに放棄された自己のナルシシズムの復活であり再生にほかならないことを認めないわけにはいかない(同 p123

そして、幼児的第一次的(原初的)ナルシシズムは、親のナルシシズムの投影から生まれる。ここで何が生じるのかといえば、親の側から不断に語りかけられ、ナルシシズムを投影された幼児は、<他者>の欲望に対する反応――<他者>は何を欲しているかという問いに応答することーーなのであり、この<他者>はイマジネールな小文字の他者ではなく象徴的な大文字の他者である。

「彼(彼女)は、私に話しかけることで、何を欲しているのか?」ラカンによれば、この<他者>の呼びかけを欲望として、そして自らへの「問いかけ」として引き受けるとき、象徴化が既に生じている(ラカンは、幼児にとっての、この「問い」の理解しがたさを「欠如(manque,lack)」と呼ぶ。(比嘉徹徳『ナルシシズムと<他者>』2003ーー参照:「うぬぼれとナルシシズム

こうして比嘉徹徳は、《自己愛の核には根源的な他者性が刻まれているというフロイト的ナルシシズムの論理に他ならない》と書いている。

《自己が対象を愛するのは、その対象の中に他ならぬ自己を見出すからだ》、とするフロイトの説明がこのように読まれるならば、その愛の対象は、想像的(鏡像的)な小文字の他者ではない、ということになる。

フロイトのナルシシズム概念は、一般に抱かれがちな観念、つまり、ナルシシズムとは自己像への病的な愛着であり、他者の視線を欠いている云々とは異なっている。それはフロイトにとって、せいぜい「二次ナルシシズム」をしか意味していない。他方、一次(=原初的)ナルシシズムは、他者を組み込んだ運動そのものを指している。(同比嘉徹徳)

比嘉徹徳によるフロイト解釈では、いわゆるナルキッソスの神話のナルシシズムは、根源的なナルシシズムではなく、第二次ナルシシズムに過ぎないとされているわけだ。

ギリシャ神話は、鏡に写る自分自身の姿以外の何物も気に入らなかった若者、そして同じ名の美しい花に姿を返られてしまった若者をナルキッソスと呼んでいる(フロイト『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出』)

この主張は、ラカン、すくなくとも前期ラカン、セミネール一巻のフロイトの『ナルシシズム入門』の読解やら、セミネール三巻の次のようなラカンの発話に反する。

私達はナルシシズムの関係を対人関係の中心をなす想像的関係と考えています。…(中略)…。それは、実際は、一種の性愛的関係なのです。すべての性愛的同一化、つまり性愛的魅了という関係の中で、イマージュによって他者を捉えることはすべて、ナルシシックな関係という方法を介して行なわれます。また、それは攻撃的な緊張の基礎でもあるのです。(ラカン『精神病セミネール』)

わたしたちの通念としても、ナルシシズムは否定的な色調を帯びて使われることが多い、つまり「自己像への病的な愛着」として。そうでない自己愛が根源的なものだとする比嘉徹徳のフロイト読解による主張は、ナルシシズム概念に新しい光を照射しているとしてよいだろう。


…………


ところで、ルソーは自己愛amour-de-soiと利己愛 amour-propreとを次のように分けている。
素朴な情念はすべて直接にわれわれの幸福をめざしているので、それに関係のある目標しかわれわれをかかわらせず、自己愛amour-de-soiのみを原理としているので、本質的にまったく優しく穏やかなものなのです。しかし障害によって目標からそらされると素朴な情念は到達すべき目標よりも避けるべき障害のほうにかかずらって性質を変えてしまい、怒りっぽく憎しみに満ちた情念になる。まさにこのようにして、善なる絶対感情である自己愛amour-de-soiが、利己愛 amour-propre、すなわちたがいを比較させ選り好みさせる相対感情になるわけです。利己愛のもたらす喜びはただただ否定的なもので、利己愛はもはやわれわれ自身の幸福によってではなく、他人の不幸によってのみ満足させられるのです。(『ルソー、ジャン=ジャックを裁く--対話』)

このルソーの文に注目しつつ、ジジェクは、『Less Than Nothing(2012)の最終章で、《邪悪な輩は、自己愛者=エゴイストのことではない、なぜならエゴイストは自らの関心/利益にのみ注意を払うことに忙しく、他人の不幸などにかまっているほど余裕はないのだから。本当に厄介な「悪人」とは、自身へよりも他人への関心に没頭してしまう連中だ》という意味合いのことを語っている。
An evil person is thus not an egotist, "thinking only about his own interests." A true egotist is too busy taking care of his own good to have time to cause misfortune to others. The primary vice of a bad person is precisely that he is more preoccupied with others than with himself.A modest plea for enlightened catastrophism Slavoj Zizek


ここでの、ルソーの自己愛amour-de-soiを「第一次ナルシシズム」に近似するもの、利己愛 amour-propreを「第二次ナルシシズム」に近似するものとしてよいのかもしれない。

もっともルソーによって、自己愛amour-de-soiの情念の様相が、《本質的にまったく優しく穏やかなもの》とされており、比嘉氏により《自己愛の核には根源的な他者性が刻まれている》とされる第一次ナルシシズムが、必ずしもそうであるとは限らないだろう。だが、ナルシシズムが自己のなかの根源的な他者性に向うのなら、それは「隣人」にたいしては、「優しく穏やかなもの」であり得る。

他方、利己愛 amour-propreは《たがいを比較させ選り好みさせる相対感情》なのであれば、それは鏡像的な「第二次ナルシシズム」とほぼ同様な意味をもっているように思える。「私に似た」他の人々、競争や相互承認といった鏡像的関係を結ぶ私の同類たち、《私の似姿、鏡像としての隣人》(ジジェク)との相互感情。

そしてわたしたちが「ナルシシズム」を否定的な意味合いで使うとき(あいつは、たんなるナルシシストに過ぎないよ、などと)、それは「利己愛」のことだろう。

…………

そもそもわたしたちの社会通念では、ナルシシストは、愛するより愛されることを願う存在だとされているはずである。

フロイト自身、女性のナルシシズムについての箇所だが、次のように書いている。
……とくに美しく発育してゆくような場合には女性の自己満足が生じてきて、これが女性のために社会的に侵害された対象選択の自由の贖いをするのである。このような女性は厳密にいうならば、男性が彼女を愛するのと同じような強さをもって自分自身を愛しているにすぎない。彼女が求めているものは、愛することではなく、愛されることであり、このような条件をみたしてくれる男性を彼女は受け入れるのである。(『ナルシシズム入門』 p122

ところでこの1914年に書かれた『ナルシシズム入門』からかなり後の『リビドー的類型について』(1931)という小論では、ナルシシズム類型について、《主な関心は自己保存に向けられていて、自主的で、物おじするということはほとんどない。自我はいつでも大量の攻撃性を思いのままにすることができるのだが、これはいつでも行動に移りうることのなかにもよく表れている。愛情生活では、愛されることよりも愛することのほうが優位をしめる。》とまるで正反対のことが書かれることになる。これは、ルソーの自己愛amour-de-soiに近いことを語っているとしてよいのだろうか(その判別は保留して、まずなによりも、ルソーの自己愛は分裂病的なものだろう(注1)ーーそして、フロイトは当初、精神分裂病を自己愛神経症と呼んでいたことをも思い出そう(『本能とその運命』p65)。


心的装置の諸領域がどこでリビドーがおもに消費されるかにしたがって、三つのリビドー的類型を区別することができる。これに命名するのはそう簡単なことではない。われわれの深層心理学をたよりとして、私はエロティック型、ナルシシズム型、および強迫型と名づけることにしたい。

エロティック型はたやすく性格づけることができる。エロティック型の人というのは、そのおもな関心――そのリビドーの相対的に最大の量――が愛情性格にむけられているような人物である。愛すること、しかしとくに愛されることが、彼らにとってはもっとも重要なのである。彼らは愛を失うことに対する不安に支配されており、それゆえとくに、自分たちを愛してくれなくなるかも知れないようなおそれのある他のひとびとに左右されやすい。このような類型は純粋な形のままでも、よく見られる。これらの変種は、他の類型との混同や、同時にふくまれている攻撃性の度合にしたがって、生じてくる。社会的にも文化的にも、この類型はエスの要素的な欲動的要求を代表しており、その他の心的な要請はこのエスのいいなりになっているのである。

私がさしあたり強迫型というなじみのない名前をあたえた第二の類型は高度の緊張のもとに自我から分離してゆく、超自我の優勢ということで際立っている。この類型は愛の喪失に対する不安のかわりに良心の不安によって支配され、外への依存性のかわりにいわば内への依存性をしめしており、高度の独立性を展開して、社会的には、文化のどちらかといえば保守的な真の担い手となるのである。

第三の、正当にもナルシシズム的と名づけられた類型は、本質的には否定的な特性をもっている。自我と超自我とのあいだにはいかなる緊張もなくーーこの類型からは、超自我というようなものを設定することにはほとんどならなかったであろうーーエロティックな欲求の優越ということもなく、主な関心は自己保存に向けられていて、自主的で、物おじするということはほとんどない。自我はいつでも大量の攻撃性を思いのままにすることができるのだが、これはいつでも行動に移りうることのなかにもよく表れている。愛情生活では、愛されることよりも愛することのほうが優位をしめる。この類型のひとびとは「人格者」として、他の人たちに畏敬の念を起させるが、とくにふさわしいのは、他のひとびとのためによりどころとなってやることであり、文化の発展に新たな刺激をあたえたり、既成のものを打ちこわしたりする、指導者の役割を引き受けることである。

これら純粋な類型は、リビドー理論から導きだされたものではないかという疑惑をのがれるわけにはいかないだろう。しかし、純粋型よりもいっそう頻繁に観察される混合型に目を向けるならば、自分が経験というしっかりした地面の上に立っているのが感じられる。これらの新しい類型、つまりエロティック・強迫型、エロティック・ナルシシズム型、およびナルシシズム的強迫型は、事実われわれが分析学によって知った個々人の心的構造を、うまくとりおさめているように思われる。ずっと前からよく知られているもので、この混合型を追及してゆくさいに行きあたるような性格像がある。エロティック強迫型では欲動生活の優越が超自我の影響によって制限をうけているように見える。身近な人間的な対象に対する依存症と同時に、両親の遺物や教育者や模範などに対する依存症も、この類型では最高度に達する。エロティック・ナルシシズム型はおそらくこれに属するという判定がいちばん多く下されるに違いない類型である。これはそのなかで互いに緩和しあうことができるようないくつかの対立を合一している。これを他のエロティック型の類型と比較してみれば、攻撃性と活動性とがナルシシズムの優位と協力しているのを、知ることができる。最後に、ナルシシズム的強迫型は、外的な自立性と良心の要請への顧慮にさらに協力な活動への能力を付加し、こうして自我を超自我に対して強化することによって、文化的にもっとも価値の高い変種を生み出す。

(……)エロティック型が罹患すると、強迫型が強迫神経症となるように、ヒステリーになるということは容易に推量できるように思われるが、しかしこれは最後に強調しておいたような不確実性とも関わりをもっている。ナルシシズム型は、その平正の非依存性によって外界から拒否される機会にされされており、犯罪を犯しやすいという本質的な条件をそなえていると同時に、精神病への特別な素因をふくんでいる。(フロイト「リビドー的類型について」(1931)

ここでの三つの類型は、フロイト自身、《これら純粋な類型は、リビドー理論から導きだされたものではないかという疑惑をのがれるわけにはいかないだろう》と書いているように、明らかに、エロティック型=エス型、および強迫型=超自我型、ナルシシズム型=自我型とすることができる(『自我とエス』1923Das Ich und das Es)の後に書かれた論文であることを思い出そう)。

そして混合型のそれぞれ、エロティック・強迫型、エロティック・ナルシシズム型、およびナルシシズム的強迫型は、「自我の弱い型」、「超自我の弱い型」、「エスの弱い型」とすることができる。

フロイトが、この混合型なら、《自分が経験というしっかりした地面の上に立っているのが感じられる》と書いているように、いくらか血液型判定のような気味合いがないでもないが、まあここでは何が言いたいかと言えば、これだけ見ても、フロイト自身、「ナルシシズム」をめぐって大きく揺れ動いているということだ。


で、フロイトが、すでに1931年の時点で《エロティック・ナルシシズム型はおそらくこれに属するという判定がいちばん多く下されるに違いない類型である》と書いているが、現在、「父なき世代」(中井久夫)であるならば、つまり超自我なき世代ならば、この類型のひとびとが跳梁跋扈しているということになるのだろう。

それは二〇世紀の「神経症の時代」から、二一世紀の「ふつうの精神病の時代」というラカン派(ミレール派)の言明とも一致する。

このエロティック・ナルシシズム型は、エス・自我型とすることができる。フロイトは、《攻撃性と活動性とがナルシシズムの優位と協力しているのを、知ることができる》としているが、この攻撃性とナルシシズムが、現代の人々の特徴ということになる。『自我とエス』から奔馬と騎手の比喩を抜き出しておこう。

自我の、エスにたいする関係は、奔馬を統御する騎手に比較される。騎手はこれを自分の力で行なうが、自我はかくれた力で行う、という相違がある。この比較をつづけると、騎手が馬から落ちたくなければ、しばしば馬の行こうとするほうに進むしかないように、自我もエスの意志を、あたかもそれが自分の意志ででもあるかのように、実行にうつすことがある。(『自我とエス』p274 ―――同じ比喩が『夢判断』のなかにもある)

…………


ここで前半に書かれた比嘉徹徳によるフロイトの読解に僅かながらでも戻るならば、《自己愛の核には根源的な他者性が刻まれているというフロイト的ナルシシズムの論理》とは、すなわち「超自我=自我理想」の復権とされており、フロイトが『リビドー的類型について』で書く「ナルシシズム的強迫型」の復権に向けての「ナルシシズム」概念への新しい光の照射と繰り返しておく(いまは、超自我のない形のルソーの「自己愛」の議論については保留しつつ)。


ナルシシズム的強迫型、すなわち、《外的な自立性と良心の要請への顧慮にさらに協力な活動への能力を付加し、こうして自我を超自我に対して強化することによって、文化的にもっとも価値の高い変種を生み出す。》

ーーもっとも、このナルシシズム的強迫型は、エスの弱い型とされるのだから、芸術型気質のひとには受け容れがたいのであり、まあなんというのか…芸術への愛着をもつ<わたくし>は、そんな類型であるのは御免蒙ると言いたいところがあるな…


※ここでは超自我=自我理想とする比嘉徹徳論文の問題については、ーーいや仮にあるとしてだが、フロイト自身『自我とエス』の段階でさえ、このふたつの間に等号をおいているーー、ラカン派の異議については触れていない。

In Freud’s writings it is difficult to discern any systematic distinction between the three related terms ‘ego-ideal’ (Ich-ideal), ‘ideal ego’ (Ideal Ich), and superego (Über-Ich), although neither are the terms simply used interchangeably. Lacan, however, argues that these three ‘formations of the ego’ are each quite distinct concepts which must not be confused with one another.(An Introductory Dictionary of Lacanian Psychoanalysis Dylan Evans)

超自我の或る側面が自我理想=象徴界のものではなく、現実界のものであるという議論(母なる超自我ほか)、少なくともその二面性をめぐっては、[PDF]The Archaic Maternal Superego-Leonardo S. Rodriguez - Jcfar.orgにフロイト、ラカンやミレールの言葉を引用しつつ、いくらか詳細に書かれている。


…………

注)
この野蛮の時代は黄金時代であった。というのは人々が団結していたからではなくて、離れていたからである。おのおのが万物の主人だと思っていたという。そうかもしれない。しかし誰も自分の手のとどくものしか知らなかったし、欲しがらなかった。彼の要求は彼をその同胞に近づけないで、遠ざけるのであった。人々は出会えば、お互いに相手を攻撃したといってもよい。しかし彼らはめったに出会いはしなかった。いたるところ戦争状態が支配していたが、地上はすべて平和であった。(ルソー『言語起源論』)

ーー柄谷行人は、この文を引用して次のように説明している。


孤立と自足が「自然人」のイメージである。そこでは、他者の欲望、あるいは他者に媒介された欲望(ジラール)などはない。基本的に、彼らは他人に無関心である。フロイト的にいえば、「感情転移能力」をもたない。いわば、分裂病的なのである。しかし、この場合、感情転移能力をもたないということは、たんに他人への愛と憎悪のアンビヴァレントな固着関係をもたないということでしかない。というのは、彼らは(……)動物をふくむ他者への「同情」をもっているからだ。したがって、「いたるところ戦争状態が支配していたが、地上はすべて平和であった」といいうるのである。

中井久夫は、狩猟民は分裂病的であったといっている。農耕社会に入ってから、人間は強迫神経症的になり、それは産業資本主義にいたってもかわっていない。分裂病者を治療することは、事実上、彼らを強迫神経症なタイプに変えることを意味している。だからこそ、彼らの「社会復帰」は困難であり、彼らは、産業資本主義的でないしょうな社会では、あるいは過去の段階では、とくに病人とみなされない。(『分裂病と人類』)(『探求Ⅱ』 p237~)





2013年6月2日日曜日

妻女と子供の共有ーープラトン『国家』より

「最もすぐれた男たちは最もすぐれた女たちと、できるだけしばしば交わらなければならないし、最も劣った男たちと最も劣った女たちは、その逆でなければならない。また一方から生まれた子供たちは育て、他方のこどもたちは育ててはならない。もしこの羊の群れが、できるだけ優秀なままであるべきならばね。そしてすべてこうしたことは、支配者たち自身以外には気づかれないように行わなければならないーーもし守護者たちの群がまた、できるだけ仲間割れしないように計らおうとするならば」

(……)
「さらにまた若者たちのなかで、戦争その他の機会にすぐれた働きを示す者たちには、他のさまざまの恩典と褒賞とともに、とくに婦人たちと共寝する許しを、他の者よりも多く与えなければならない。同時にまたそのことにかこつけて、できるだけたくさんの子種がそのような人々からるつくられるようにするためにもね」
(……)

「で、ぼくの思うには、すぐれた人々の子供は、その役職の者たちがこれを受け取って囲い〔保育所〕へ運び、国の一隅に隔離されて住んでいる保母たちの手に委ねるだろう。他方、劣った者たちの子供や、また他方の者たちの子で欠陥児が生まれた場合には、これをしかるべき仕方で秘密のうちにかくし去ってしまうだろう」

(……)
「またこの役目の人たちは、育児の世話をとりしきるだろう。母親たちの乳が張ったときには保育所へ連れてくるが、その際どの母親にも自分の子がわからぬように、万全の措置を講ずるだろう。そして母親たちだけでは足りなければ、乳の出る他の女たちを見つけてくるだろう。また母親たち自身についても、適度の時間だけ授乳させるように配慮して、寝ずの番やその他の骨折り仕事は、乳母や保母たちにやらせるようにするだろう」


――プラトン『国家』藤沢令夫訳 岩波文庫 上 第5巻「妻女と子供の共有」p367-369

…………

以下は上記のプラトンとは直接係らない。


先ずはマルクスを引用する。

《売春、労働者普遍的身売りの特殊形態にすぎない》(マルクス『経済哲学草稿』)“Prostitution is only a specific expression of the general prostitution of the labourer”


そしてほとんど無知の分野であるフェミニズムをめぐっては、次の記事より(フェミニズム(Feminism))。


3)マルクス主義フェミニズム

エンゲルス『家族、私有財産、国家の起源』
マルクス主義では、労働は自己実現であり人間の本質であると考えられる。(しかし、それを売らなければ生きることが出来ないのが資本主義社会における労働者だ。労働が「商品」であることによって、労働者は自己の本質から疎外される。)

伝統的に、女性には、家事と育児という役割が与えられてきた。
家事と育児は労働を再生産する仕事である。夫の世話をしその労働力をリフレッシュする仕事、そして新たな労働力として子どもを産み育てるという仕事だ。
しかし家事と育児は「交換価値」を持たない(任意の誰かと「交換する=売る」ことが出来ない)ので、資本主義社会においては、女性は従属的な地位に置かれざるを得ない。
父権は、妻を夫の所有物とし、「女性」を「母性」へと限定しようとする。


歴史的に見れば、一夫一妻制は、私有財産を自分の正統な子どもに残すことが出来るように、作られたシステムである。

1)野蛮時代においては、結婚は「群婚」という形態であった。乱婚であるから、男にとってはどの子が自分の子なのか分らない(また子どもも自分の父親が分らない)が、産んだ母親は自分の子が分る。従って、女性中心の家族形態である女系制、そして「母権制」の形態が古代社会においては支配的となる。

2)未開社会においては、結婚は「対偶婚」という形態をとる。これは固定的でない一夫一妻の形態である。生産手段の発達が、財産の蓄積を可能にし、母権制から父権制への移行を促す。

3)文明社会において、一夫一妻制という妻を夫の所有物として囲い込む制度が、結婚の支配的な形態となる。
それは、その必然的な補完物として、売春や不倫を伴なう。


「家族史は、1861年に出版された、バッハオーフェンの『母権制』から始まる。ここで著者は、次のように主張している。

(1)人間は当初、「娼婦制」という不当な名前で呼ばれている、縛られることのない性生活を送っていた。

(2)このような交わりは、父性を見分け難くするので、血統は、女系において、母権によってしか辿りえなかった。…

(3)その結果、女性は、子どもにとって確認できる唯一の親である母親として、高い敬意と尊敬を払われ、著者の見解によれば、それが完全な女性支配にまで高まっていた。

(4)女性が一人の男に属する単婚への移行は、太古の宗教的な戒律の侵害を意味していた。…」

「一夫一妻制が決定的な勝利を手にすることは、文明期が始まりつつあることの指標である。それは、誰が父であるか争う余地のない子どもを産むという明白な目的を持って、男性支配の上に築かれている。そして、こういう父の確実性が要求されるのは、その子どもが血の繋がった相続人として、父親の財産を相続することになっているからである。一夫一妻制と対偶婚とが違う点は、結婚の絆が遥かに強固になっており、双方の意のままには解消できないことである。今や結婚を解消し妻を離縁できるのは、原則として夫の側だけである。」(エンゲルス『家族、私有財産、国家の起源』)


「シャドウ・ワーク(shadow work)」という概念(イヴァン・イリイチ)

産業化社会は、個人生活の自立の基礎を破壊し、その自律性を奪い取る傾向を持つ。
「労働」、特に近代の「賃労働」は、それ自体が疎外された労働であるが、それだけでなく、それを支える影の部分に、様々な種類の「不払い労働」を抱えている。女性の家事労働がその典型だ。

「<影の経済>が起こるとともに、賃金も支払われず、かといって家事が市場から自立することに役立つわけでもない、一種の労役が出現する。この新しい種類の活動の最もよい例は、人間生活の自立に無関係な、新しい家事という領域において行なわれる、主婦による<シャドウ・ワーク>である。」(イリイチ『シャドウ・ワーク』玉野井芳郎・栗原彬訳、から一部変更して引用)

「賃労働を補完するこの労働を、私は<シャドウ・ワーク>と呼ぶ。これには、女性が家やアパートで行なう大部分の家事、買物に関する諸活動、家で学生たちがやたらにつめこむ試験勉強、通勤に費やされる骨折りなどが含まれる。押し付けられた消費のストレス、施療医へのうんざりするほど規格化された従属、官僚への盲信、強制される仕事への準備、通常「ファミリー・ライフ」と呼ばれる多くの活動なども含まれる。」(同上)


4)「母性」という神話

フロイトが理論化したように、「母性」と「父性」は、子どもが健康に育つ上で不可欠な二つの要素である。しかし、女性が生得的に母性の持ち主であり、育児に適しているという考え方は、誤謬である。

エリザベート・バダンテール(Elisabeth Badinter)『母性という神話(L'Amour en Plus)』(鈴木晶訳)

「数多くの資料によれば、里子の習慣がブルジョワジーのあいだに広まったのは十七世紀のことである。この階級の女たちは、子育てのほかにすることがたくさんあると考え、そう公言してはばからない。
だが、里子の習慣が都会のすべての階級に浸透するのは十八世紀になってからである。

パリは、例によって、その典型である。子どもたちはパリからはるか遠くへ、時には五十里も離れた、ノルマンディーやブルゴーニュやボーヴェジに送られた。警視庁長官ルノワール氏がハンガリーの女王に送った報告書は貴重である。一七八〇年、首都パリでは、一年間に生まれる二万一千人(総人口は八十万から九十万である)の子どものうち、母親に育てられるものは千人に満たず、住み込みの乳母に育てられるのは千人である。他の一万九千人は里子に出される。」

「一七六〇年頃から、母親にたいして、自分で子どもの世話をするように勧め、子どもに授乳をあたえるように「命ずる」書物が数多く出版された。それらは、女はまず何よりも母親でなければならないという義務を作りだし、二百年後の今日でも根強く生きつづけている神話を生んだ。それは、母性本能の神話、すなわち、すべての母親は子どもたちにたいして本能的な愛を抱くという神話である。」

「著者がいわんとしていることはこうだ――いわゆる母性愛は本能などではなく、母親と子どもの間で育ってゆくものであり、母性愛を本能だとするのは一つのイデオロギーである。このイデオロギーは女性が自立した人間存在であることを認めようとせず、母親の役割だけに押し込める。さらには、子どもにたいして母親としての愛情を感じることのできない女性を「異常」として社会から排除しようとする。」(鈴木晶「あとがき」ちくま学芸文庫)


ところで、ジジェクは『Less Than Nothing』(2012)のなかで、上にも引用されている仏国の女流歴史家かつ哲学者であるÉlisabeth Badinter (1944~)――彼女はフランスで最も裕福な人物の序列で2011年、第58位に入ったひとでもあるらしいーーに言及している。
Badinter is at a certain level right to point out that the true social crisis today is the crisis of male identity, of “what it means to be a man”: women are more or less successfully invading man's territory, assuming male functions in social life without losing their feminine identity, while the obverse process, the male (re)conquest of the “feminine” territory of intimacy, is far more traumatic. While the figure of publicly successful woman is already part of our “social imaginary,” problems with a “gentle man” are far more unsettling.

――もっともこの文は1998年の論文”Cogito and the Unconscious“に既に同様な文が見られ、ジジェクはそれを繰り返していることになる(ジジェクが引用しているのは、Badinter ”On Masculine Identity, New York: Columbia University Press 1996. “)。また、”at a certain level right“と書かれているようにジジェクは、Badinter自身、家庭から離れて成功したのであり、「男性的ポジション」から語っているのではないかと批評=吟味しているのだがその詳細はここでは触れない。


Badinterは最近の著書“Le Conflit: la femme et la mère” (“Conflict: The Woman and the Mother”)で次のように語っているようだ。

“A revolution has taken place in our conception of maternity, almost without our realizing it,” she writes. And that revolution, in Ms. Badinter’s view, has reduced women’s freedom and damaged their professional prospects.
(……)
the baby has now become “the best ally of masculine domination.”

Badinterは、知らぬ間に男性的な支配が復権してしまっている、と語っているわけだが、その原因が三つ掲げられる。

First is what she sums up as “ecology” and the desire to return to simpler times; second, a behavioral science based on ethology, the study of animal behavior; and last, an “essentialist” feminism, which praises breast-feeding and the experience of natural childbirth, while disparaging drugs and artificial hormones, like epidurals and birth controlpills.

――このあたりは多くの議論・反論があるだろうし、彼女の著書を読んだわけでもなく、フェミニズムには全く詳しくないので、ここで、彼女の見解の正否を指摘するものではないし、また仏国と日本では大きく状況が異なるだろう。


…………

最近、『日本の男を喰い尽くすタガメ女の正体』の書評を面白く読んだ。

筆者の主張を簡単に言えば、「高度経済成長期以降に増えてきた男性の自殺、離婚、DV、ネグレクト、晩婚化・非婚化の要因は、結婚が専業主婦やそれを志向する女性にとって、生存競争を生き抜くために「幸福の擬装工作」までして男性を”搾取”するシステムとなってしまっているからだ。物質的・経済的な条件に左右される「幸福の指標」は『箍』となって、男性だけでなく女性自身をも呪縛し、今日の日本社会の閉塞状況を引き起こしている。これは、戦後のアメリカ的価値観を無批判に受け入れ、それを「常識」としてきた結果招かれた『魂の植民地化』である」。
(……)
エリートサラリーマンとの「安定」した結婚を望み、結婚したら郊外の一戸建てかマンションのローンを組んで夫を縛り付け、ママ友の間での見栄の張り合いとデパートのブランドショッピングに精を出し、自分が家事をいかに頑張ってるかをアピールし、イベントと「約束」とディズニーランドが大好きで、投資より定期貯金に励みスマホは苦手な「タガメ女」。

もっとも書評されている大野左紀子氏は、《この類型化には、若干の古臭さを感じないでもない。》とつけ加えることを忘れない。

この書評から窺われるこの書の面白いところは、男性が搾取されているとしているところだ。
つまり、《結婚をめぐって従来のフェミニズム的認識とは逆さまの男女の支配関係(女>男)を戯画的に描いて》いるらしい。

そして、大野氏は、《筆者の言うように、「タガメ女」と「カエル男」が多数派だとしよう(自分がこの10年、大学のジェンダーの講義で見てきたささやかな範囲でもそれは感じる)》としている。


…………

附記:ソレルス『女たち』(鈴木創士訳 せりか書房)


恐るべき家族の神秘…おびえて、疲れ果てて、のべつ調子外れで、女性化され、虚弱化され、干からびて、女々しく、飼い馴らされ、母性化された男たちの眼差し、ぶよぶよのオッパイ  p31
ぼくは、いつも連中が自分の女房を前にして震え上がっているのを見た。あれらの哲学者たち、あれらの革命家たちが、あたかもそのことによって真の神性がそこに存在するのを自分から認めるかのように …彼らが「大衆」というとき、彼らは自分の女房のことを言わんとしている ……実際どこでも同じことだ …犬小屋の犬… 自分の家でふんづかまって …ベッドで監視され…p98
「女」が「父」に取って代わる …つねにしまりがなく、とらえどころがなく、小説の永遠の流れのなかで重きをなしていない父 …いつまでも繰り返し殺害されつづけ、身を落とし、名前をけがされ、かつがれ、ロマンスと小細工のなかでよろめいている父 … p155
問題となるのは死だ。世界は死である。そして彼女たちが死をもたらすのだから、世界は女たちのものだ、彼女たちは生ではなく、死をもたらす …これ以上に基本的な真実はない …これ以上に体系的に隠蔽され、認められていない明証性はない …きみたちはせいぜいこいつをぼくから書き写すがいい …空しく… なんて奇妙なことだろう …盗まれた手紙… 鏡のなかの自分の姿を見たまえ …いや、きみたちは自分を見たりはしない …いや、きみたちは自分たちの生まれながらのひきつった笑いに気づかない …きみたちにショックに耐えるチャンスがあるのは、時には夢の一番どん底にいるとき、あるいはあっという間のことだが目覚めたときなんだ …十分の三秒… それさえない …きみたちは自分に、自分の中味につまずく …虚無の唾… 諸世紀の鼻汁 …究極の糞… 時間の膿 …持続の血膿… ページの下の汚いどろどろの液 …累積… 没落…幕 …もしきみたちががつがつ詰め込んだ、腐った個人的なやり方に何の口出しもしなかったのなら、黙ってろ …沈黙あるのみだ、この荘厳な穹窿の下では、ぼくは震えながらそこにきみたちを通してやる! …p177

……だからこうして夜になると、パパとママは仲良く腕を組んでお家に帰ってくる、少しばかり千鳥足で。パパが階段でママのスカートをめくる夜 …昔のようにパパがママとセックスする夜、無我夢中で、経験豊かな放埓さをもって …ママが呻き、優しくも淫らな言葉を思わず洩らし、身をよじり、反撥し、寝返りをうって、体の向きを変えて、パパにお尻を差し出す夜 … (…… )自分の家でエロティックであること。自分の女房を享楽し、彼女を悦ばせること、はたしてこれ以上に鬼畜のごとき悪趣味を想像できるだろうか? これこそこの世の終わりだ! 小説の滅亡!  P181

「男は、ひとりの女の振舞いのすべてを分別をもって理解することはできない」、とアントニオーニは言う。「私はスタンダールではないが、二つの性のあいだの関係はつねに文学の中心的課題でした …人々が別の惑星へ行って暮らすようになっても、相変らず事情は同じでしょう! 私のとって、女性は、おそらく男性の知覚よりも深いそれをもつものです。たぶんそれは次のことのよるのでしょうーーでも私の言っているのは愚かなことですーー、つまり彼女は、自分のうちに男性を迎え入れるように物事を受けとることに慣れていて、彼女の快楽はまさにそれを受け入れることにある、ということです。彼女は現実を受け入れるつもりでいる、あえて言うなら、完全に女性的な同じ姿勢のうちに。彼女は、男性以上、場合に応じて、ぴったり合った解答を見つける可能性をもっているのです」


「完璧だ!」、ぼくが言う。「言うことなし! 一等賞! オスカー! 金の棕櫚! 銀のペニス! プラチナのクリトリス! ブロンズのアヌス! 彼は目録に載せられる …総括的レジュメ!…」 ( ……)『ギャッピー』(……)「彼女の不正直にはつける薬がなかった。彼女は自分が不利な立場にあると感じることにさえ我慢できなかった …そんなことはぼくにはどうでもよかった。ひとりの女のうちにある不誠実は、けっして深くとがめられることではない。この女の場合も、ぼくはそれを遺憾なことだとついでに思っただけで、すぐに忘れてしまっていた」 …P327
フェミニズムというのは一種のユダヤ嫌悪じゃないか、という …あほらしい!… そんなことは火を見るよりも明らかだったが、もっと若くて、もっと知識があって、もっと大胆な幾人かのユダヤ女性たちはそいつが耳障りになりだしたにちがいなかった  P410
彼女は反ユダヤ主義者ではない、ちがうさ、いやはや、でもやっぱり聖書によって踏みつぶされたのが何かを見出すべきだろう …別のこと… 背後にある …もうひとつの真実を…

「それなら、母性崇拝よ」、デボラが言う、「明らかだわ! 聖書がずっと戦っているのはまさにこれよ …」


「そうよ、それに何という野蛮さなの!」、エドウィージュが言う。「とにかくそういったことをすべて明るみに出さなくちゃならないわ …」

「結局のところ」、彼女の夫が諦め顔で言う、「フェミニズムは反ユダヤ主義じゃないが、ユダヤ教をそれ自身から救うことを提案しているんだろ?」 P476


そしてニーチェの『この人を見よ!』から。

ここでついでに、わたしは女というものが何かをよく知っていると、あえて仮説的に主張してようだろうか? この知識は、ディオニュソスがわたしに持ってきてくれた財産の一端である。ことによったら、私は、「永遠の女性」の本質に通じた最初の心理学者なのかもしれない。女という女はわたしを愛するーーいまさらのことではない。もっとも、かたわになった女たち、子供を産む器官を失った例の「解放された女性群」は別だ。 ――幸いにしてわたしには、八つ裂きにされたいという気はない。完全な女は、愛する者を引き裂くのだ ……わたしは、そういう愛らしい狂乱女〔メナーデ〕たちを知っている ……ああ、なんという危険な、足音をたてない、地中にかくれ住む、小さな猛獣だろう! しかも実にかわいい! ……ひとりの小さな女であっても、復讐の一念に駆られると、運命そのものを突き倒しかねない。 ――女は男よりはるかに邪悪である、またはるかに利口だ。女に善意が認められるなら、それはすでに、女としての退化の現われの一つである ……すべての、いわゆる「美しき魂」の所有者には、生理的欠陥がその根底にあるーーこれ以上は言うまい。話が、医学的(半ば露骨)になってしまうから。男女同権のために戦うなどとは、病気の徴候でさえある。医者なら誰でもそれを知っている。 ――女は、ほんとうに女であればあるほど、権利などもちたくないと、あらがうものだ。両性間の自然の状態、すなわち、あの永遠の戦いは、女の方に断然優位を与えているのだから。 ――わたしがかつて愛にたいして下した定義を誰か聞いていた者があったろうか? それは、哲学者の名に恥じない唯一の定義である。すなわち、愛とはーー戦いを手段として行なわれるもの、そしてその根底において両性の命がけの憎悪なのだ。 ――いかにして女を治療すべきかーー「救済」すべきか、この問いに対するわたしの答えを読者は知っているだろうか? 子供を生ませることだ。「女は子供を必要とする、男はつねにその手段にすぎぬ。」こうツァラトゥストラは語った。 ――「女性解放」―― それは、一人前になれなかった女、すなわち出産の能力を失った女が、できのよい女にたいしていだく本能的憎悪だーー「男性」に戦いをいどむ、と言っているのは、つねに手段、口実、戦術にすぎぬ。彼女らは、自分たちを「女そのもの」、「高級な女」、女の中の「理想主義者」に引き上げることによって、女の一般的な位階を引き下げようとしている存在だ。それをなしうる最も確実な手段は、高等教育、男まがいのズボン、やじ馬的参政権である。つまるところ、解放された女性とは、「永遠の女性」の世界における無政府主義者、復讐の本能を心の奥底にひめている出来そこないにほかならない。 ……最も悪質な「理想主義」はーーもっともこれは男性にも現われる、たとえば、ヘンリック・イプセン、あの典型的老嬢におけるようにーーこの理想主義は、性愛における明朗さ、自然さに毒を盛ることを目的としている ……そして、この問題に関する正直で、かつ厳正なわたしの信念について、誤解をまねくなんらの余地も残さぬために、わたしはなおわたしの道徳法典の中から、悪徳排撃の一条をお伝えしておこう。「悪徳」という語でわたしが攻撃するのは、あらゆる種類の反自然、もしくは、美しい言葉がご所望なら理想主義のことなどだ。その一条というのはこうだ。「純潔をすすめる説教は、自然に反せよという公然のそそのかしである。性生活の軽蔑、『不純』という概念による性生活の不純化は、すべて、生そのものに対する犯罪であり、 ――生の聖霊に対する真の罪悪である。」 ――(手塚富雄訳 岩波文庫p90~)

※参照:男と女をめぐって(ニーチェとラカン)




2013年6月1日土曜日

枕絵とフェティシズムーー春信と歌麿(加藤周一)


男女三歳にして席を同じくせず。これは西洋人のいわゆる「ヴィクトリア朝道徳」をさらに徹底させたタテマエである。タテマエはむろんそのまま実行できないから、徳川時代はウラの性風俗への関心を強めた。その制度化されたものが遊里である。その私的領域で栄えたものが枕絵である。遊里は、少なくとも徳川時代の後半には、歌舞伎の劇場と共に、町人社会の文芸・音楽・絵画の中心となった。枕絵は、同時代の高名な浮世絵版画家で、それを作らなかった者はほとんどいない。



しかしタテマエの非現実性だけが、枕絵の大量生産を説明するわけではないだろう。徳川時代の後半、殊に一八世紀後半から一九世紀初めにかけての町人社会は、物質的に繁栄していたと同時に、近い将来に体制の変革を期待していなかった。そこで人々の関心が私的領域に向かったのは、当然であり、私的領域におけるもっとも強い衝動の一つが、性的欲望であることは、いうまでもない。しかし性的なものへの強い関心は、必ずしも直ちに性的なものの豊富な表現を意味するとはかぎらない。表現は内面的衝動の外面化すなわち社会化であり、その形式は文化によって異る。性的なものが主として商品として表現される文化もあり、それが芸術として表現される文化もあるだろう。徳川時代の文化の特徴の一つは、性的表現の動機がしばしま芸術的表現のそれと結びついていた、ということである。

枕絵の多くは、絵としては稚拙である。しかしその多くは風俗史興味をひく。そこには、たとえば、二人の男女の組み合せばかりでなく、三人以上多人数の組み合せや女二人の組み合せもある。背景は屋内を主とするが、縁先、屋外、海中にまで及ぶ。当事者のうち女には、遊女が多いが、町屋や武家の女もあり、海女の例もある。日本の枕絵はほとんどすべて性器の大きさを著しく誇張する。おそらくそれは「フェティシズム」の直接の反映であるのかもしれない。しかしそういうこととは別に、絵として優れたものも少なくない。たとえば鈴木春信や喜多川歌麿の枕絵は、彼らのその他の作品、たとえば美人画とくらべて、緊密な構図、優美な線、微妙な色彩の、どの点から見ても、少しも劣らず、むしろしばしば勝ることがある。







春信は、相合傘の少年少女を描いたように、若い男女の情交を、室内の、――窓外の風景をも含めて、――細かく描きこんだ背景のなかに置き、情緒的な画面を作った。その人物が画面全体のなかに占める割合も大きくない。われわれは、人物と同時に、彼ら自身が見ていないだろう環境を、見るのであり、そのことがわれわれと人物との距離を大きくする。しかもそれだけではない。春信は、しばしば、情交の当事者の他に、彼らを観察する第三者を、画中に配する。その第三者の視線に、当事者が気づかぬ場合、たとえば柱のかげからもう一人の女が室内の様子を窺っているような場合には、われわれはその第三者の視線を通して、いわば間接に、当事者の行為を見ることになる。そのことがわれわれと対象との距離をさらに大きくするだろうことは、いうまでもない。当事者が意識している第三者は、たとえば遊女の行為を見ている禿〔かぶら〕である。その場合には、絵を見るわれわれではなくて、画中の当事者が第三者の視線を通して自分自身を見るということになろう。われわれはそういう当事者を、すなわち自己を対象化する主体を、対象化する。二重の対象化もまた、人物とわれわれとの距離を強化するにちがいない。







歌麿の方法は、春信のそれの正反対であった。大首絵の接近画法を美人画に用いた彼は、もつれ合う男女をも近いところから見た。その姿態は、画面の全体に拡がって、背景を描く余地をほとんど残さない。しかしそれは細部を観察するためではなかった。歌麿は対象に近づけば近づくほど、抽象化し、様式化し、二次元的な色面を駆使し、透視法――それはもちろん幾何学的であるとはかぎらないーーから遠ざかる。なぜなら当事者には背景が見えず(あるいは断片的にしか見えず)、相手と自分自身の着物や身体の一部だけが大きく視野のなかに入って来て、そこではどういう種類の透視法も成立し難いはずだからである。目的はあきらかに対象(当事者)と画家(したがって絵を見るわれわれ)との距離を大きくすることではなく、小さくすることにあった。あるいはむしろ愛の行為の当事者が見る世界を、絵を見るわれわれが見ることにあった、というべきだろう。そのために歌麿が駆使したのは、彼が知っていたあらゆる手法であり、そうすることで彼は、ほとんど浮世絵の枠を破り、表現主義的抽象絵画の領域にさえ近づくところまで行ったのである。 





ーー加藤周一の文はそもそもこの歌麿の「後家」をめぐる。他はわたくしが恣意的につけ加えたもの。

作品がワイセツであるかどうか、そんなことは私にとって何ら興味もない。私に興味があるのは、それが絵としてどれほど完成し、どれほど独創的であったか、ということである。歌麿のすべての版画のなかでも、これほど完成し、これほど独創的なものは、おそらく少い。(加藤周一「対象との距離」『絵のなかの女たち』所収) 

《作品がワイセツであるかどうか、そんなことは私にとって何ら興味もない。》とは、加藤周一だから言えるのであって、わたくしのような凡人には、興味がないでもない……




…………


加藤周一は、《日本の枕絵はほとんどすべて性器の大きさを著しく誇張する。おそらくそれは「フェティシズム」の直接の反映であるのかもしれない》としている。古来の男根崇拝(物神=フェティシズム)の聯想からだろう。ラテン語のfascinumは勃起したペニスを意味した。つまり、魅惑するものfascinating。これは精神分析的に使われるフェティッシュとは意味合いがいささか異なる。










精神分析的には、《「フェティシズム」とは何かというと、本来性器に向かう欲望が、直接性器ではなく性器の代替物によって置き換わっている状態》(藤田博史「人形愛の精神分析」)とされ、たとえば、フロイトの『呪物崇拝(フェティシズム)』によれば、フェティッシュとは、換喩による代替である。


だが「ペニス羨望」までを「フェティシズム」の視野にいれるのなら、どうだろう。

“The phallus is the organ inasmuch as it is, i.e., it is a matter of being, inasmuch as it is feminine jouissance.”(Lacan)

ときに「器官」は、突然フェティッシュなものとなる。"The organ suddenly takes on the value of the fetish……And there is also a tendency to appropriate a symbolic and imaginary mixture of the organ as a fetish" (On Women and the Phallus Pierre-Gilles Guéguen


だがこれは、女性の「ペニス羨望」をフェティシュとする議論だ。

そもそも枕絵の「巨根」に羨望を覚えるのが、女性であるとは限らないだろう。むしろ標準的な男性の「羨望」を促すことのほうが多いだろう。

以下はいささか議論の水準が異なるが、ジジェクは『LESS THAN NOTHING』で、ファルスのシニフィアンのパラドックスを指摘するなかで次のように書いている。

This brings us to the paradox of how sexual difference relates to the phallic signifier: the moment we conceive the phallus as signifier and not only as an image (“symbol”) of potency, fertility, or whatever, we should conceive it primarily as something that, due to the very fact that a woman lacks a penis, belongs to her (or, more precisely, to the mother). It is thus not that, in a first moment, man “has it” and woman does not, and, in a second moment, woman fantasizes about “having it.” As Lacan puts it on the very last page of his Écrits: “the lack of penis in the mother is ‘where the nature of the phallus is revealed.' We must give all its importance to this indication, which distinguishes precisely the function of the phallus and its nature.” And it is here that we should rehabilitate Freud's deceptively “naïve” notion of the fetish as the last thing the subject sees before it sees the lack of a penis in a woman: what a fetish covers up is not simply the absence of a penis in a woman (in contrast to its presence in a man), but the fact that this very structure of presence/absence is differential in the strict “structuralist” sense.

そしてこの文に注が附される。

Against the standard feminist critiques of Freud's “phallocentrism,” Boothby makes clear Lacan's radical reinterpretation of the notorious notion of “penis envy”: “Lacan enables us finally to understand that penis envy is most profoundly felt precisely by those who have a penis” (Richard Boothby, Freud as Philosopher, London: Routledge 2001, p. 292). 

もっともこの男性のペニス羨望をめぐっても、一筋縄ではいかない議論であり、象徴的ファルス、あるいは去勢とはなにかにかかわり、ジジェクは次のようにも書いている。

the phallus is an “organ without a body” which I put on, which gets attached to my body, without ever becoming its “organic part,” forever sticking out as an incoherent, excessive supplement. (……)

the phallus is the organ which men effectively possess (as a penis), but they do not feel it as such, always experiencing it as missing, cut off, separated.


《徳川時代の後半、殊に一八世紀後半から一九世紀初めにかけての町人社会は、物質的に繁栄していたと同時に、近い将来に体制の変革を期待していなかった》のであれば、彼らは「去勢」されていたとも言えるだろう。だが、そのとき「巨根」描写の春画の氾濫はなにを意味するのか、ーーなどと捏造された問いを発するつもりはない。