くらやみがひそひそささやく
ときどきくすっとわらったりする
こゆびがふわふわのなにかにさわる
おやゆびがひんやりかたいなにかにさわる
きもちがのびたりちぢんだりして
つばきあぶらのにおいがする
ぬかれたかたなのにおいがする
たいこのおととこどものうたごえ
ときどきくすっとわらったりする
こゆびがふわふわのなにかにさわる
おやゆびがひんやりかたいなにかにさわる
きもちがのびたりちぢんだりして
つばきあぶらのにおいがする
ぬかれたかたなのにおいがする
たいこのおととこどものうたごえ
きもちがのびたりちぢんだりする
ろうそくのほのおがちいさくなって
くらやみがだんだんうすれていくと
おはようとのんきにおひさまがやってくる
いちねん じゅうねん ひゃくねん せんねん
どこまでもまがりくねってみちはつづいて
ひとあしひとあしあるいてゆくと
からだのそこからたのしさがわく
…………
たぶん映画におけるステレオタイプのセックス後の煙草は、それにもかかわらず、ある享楽の欠如を指摘している。なにかがもっと欲望されている、口唇の快楽が満たされていないのだ。
Perhaps the stereotypical cigarette smoked after sex in movies nevertheless points to a recognized lack in that jouissance, there being something more to be desired: an oral pleasure that has gone unsatisfied.(Bruce Fink 「Knowledge and Jouissance 『READING SEMINAR XX Lacan's Major Work on Love,Knowledge, and Feminine Sexuality』)
笑いながら出来るなんて知らなかった
とあなたは言う
唇はともて忙しい
乳房と腿のあいだを行ったり来たり
その合間に言葉を発したりするものだから
煙草をすいながら出来るなんて知らなかった
やっぱり口唇欲動はなんとしても満足させなくちゃな
ドラに関して(……)。フロイトによるドラ分析の五十年後、Felix Deutschが出版した後書きによれば、もともとの症状――カタル、神経性の咳、失声症――は、原初の形態に戻ってしまった。明らかに、フロイトがドラになした限定された分析は、彼女の症候の象徴界的素材を取り除くのに充分だったが、主体と口唇欲動のあいだの関係には触れ得なかった。結果として、口唇欲動は、シニフィアンの鎖のなかに再挿入されたのである。(Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way.(Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq)
口唇的な女は、最終的な勝利者らしいぜ
マゾッホによる三人の女性は、母性的なるものの基本的イメージに符号している。すなわちまず原始的で、子宮としてあり古代ギリシャの娼妓を思わせる母親、不潔な下水溝や沼沢地を思わせる母親がある。―――それから、愛を与える女のイメージとしてのエディプス的な母親、つまりあるいは犠牲者として、あるいは共犯者としてサディストの父親と関係を結ぶことになろう女がある。―――だがその中間に、口唇的な母親がいる。ロシアの草原を思わせ、豊かな滋養をさずけ、死をもたらす母親である。(……)滋養をさずけ、しかも無言であることによって、彼女は他を圧する……。彼女は最終的な勝利者となる。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』蓮實重彦訳)
もちろん古代ギリシャの娼妓を思わせる母親、
不潔な下水溝や沼沢地を思わせる女を好む時期もあったさ
Tristis post Coitum(性交後の悲しみ)
原始的淋しさは存在という情念から来る。
Tristis post Coitumの類で原始的だ。
孤独、絶望、は根本的なパンセだ。
生命の根本的情念である。
またこれは美の情念でもある。
ーー西脇順三郎『梨の女「詩の幽玄」』より
もちろんだれもが口唇的であるわけではない
口唇的な人は、結構、ナマコ、クサヤ、ふなずし、ブタの耳のサシミ(琉球料理)、カエル(台湾、広東、フランス料理)などの味も一度知れば楽しむ可能性のある人が多い。私は、喫煙をやめるという人には、やめたからには何かいいこともなくては、と言い、まず、ものの味がわかるようになり、朝、革手袋の裏をなめているような口内の感じがなくなりますよと言い、せっかくだからおいしいものを食べ歩いてはどうですか、それとも家でつくられますか、と言う。配偶者によって(時には子供によって)家族のメニューが決まるから、そのことをにらみあわせて答えを考える。配偶者と食べ歩き計画を立てるのもよい。そのうちに味をぬすんで家庭料理に取り入れる可能性も生まれてくる。喫煙者は皆が皆口唇的な人ではないが、私の観察では、強迫的(肛門的)な人は、タバコの本数は多いかもしれないが、どうも深く吸い込まない人が多い印象がある。けがれたものを体内に入れることに抵抗があるからだろうか。そして強迫的な人は、結構趣味のある人が多い(室内装飾からプラモデル作りまで)。禁煙を機に今まで買いたくて買えなかったものを自分に買うのを許すことが報酬になる。金銭的禁欲とそのゆるめは共に、精神分析のことばを敢えて使えば肛門的な水準の事柄である。(中井久夫「禁煙の方法について」『「伝える」ことと「伝わる」こと』所収)
男と女で肛門欲動と口唇欲動をたがいに満足させあうという手もあるぜ
ラカンの四つの部分対象
口唇、肛門、眼差し、声だけでもないかもな
においとかね
オレは声とにおいがあやしいのだが
神経症では、ヒステリーの盲目と声の喪失を伴う。すなわち声と眼差しは無能化される。精神病では、逆に、眼差しと声の過剰がある。精神病者は眼差しを浴びる(パラノイア)、あるいは不在の声を聴く(幻聴)。倒錯者は、この二つの立場と異なり、声あるいは眼差しを道具化する。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』私訳)
欲動のタームでは、声と眼差しはエロスとタナトス、生の欲動と死の欲動に関係している。……《眼差しー恥ー自我理想》と《声ー罪ー超自我》。
In terms of the drives, the voice and the gaze are thus related as Eros and Thanatos, life drive and death drive……gaze–shame–Ego Ideal, and voice–guilt–superego.(ジジェク『LESS THAN NOTHING』)
タナトスではなく、エロスの人というわけか
ジジェクを信用するならばだが
◆ジャック=アラン・ミレール「愛について」より
Jacques-Alain Miller: On Love:We Love the One Who Responds to Our Question: “Who Am I?”
――ファンタジー(幻想)の役割はどうなのでしょう?
女性の場合、ファンタジーは、愛の対象の選択よりもジュイサンス(享楽)の立場のために決定的なものです。それは男性の場合と逆です。たとえば、こんなことさえ起りえます。女性は享楽――ここではたとえばオーガズムとしておきましょうーーその享楽に達するには、性交の最中に、打たれたり、レイプされたりすることを想像する限りにおいて、などということが。さらには、彼女は他の女だと想像したり、ほかの場所にいる、いまここにいないと想像することによってのみ、オーガズムが得られるなどということが起りえます。(私意訳)
いろんな女がいるからな
首をしめないとオーガズムに達しない女だっているさ
それに気づかない「やさしい」男たちが多いから、
女は自分で首をしめざるをえないじゃないか
……幻想の顕在内容はこうである。すなわち、殴られ、縛られ、撲たれ、痛い目に遭い、鞭を加えられ、何らかの形で虐待され、絶対服従を強いられ、けがされ、汚辱を与えられるということである。(……)もっとも手近な、容易に下される解釈は、マゾヒストは小さな、頼りない、依存した、ひとりでは生きてゆくことのできない子供として取り扱われることを欲しているということである。(フロイト『マゾヒスムの経済的問題』)
わかるのは千人斬りぐらいして熟練してからかもな
千人というと大袈裟かもしれないが
月に一人の女とヤッたら、三十年たてば三百六十人なんだから
そんな男はざらにいるぜ
女の多い職場にいたことがあって
(というかそれ目当てに会社を選んで)
入社して二年目にすこぶる色男の後輩が入ってきたのだな
京大出身の高校時代はサッカーのインターハイ出たヤツで
ーーねえ、Kさん、どっちがさきに百人ヤルか競争しましょうよ
どうやって証明するんだい?
ーー陰毛なんてどうですか?
などと言われたことを懐かしく思い出すが
アイツ会社の金ですぐに米国MBA留学して
さっさとやめちまったんだよな
9.11のあったあたりの高層マンションに住んで
ーーKさん、あっちの女はスゴイですよ
いまの女はダンサーなんですけど
Wait a minute!ていって
体位をころころ変えるんです、
軀がやたらに柔らかくって、なんてね
いまはどうしてんだろ
ところで、きみは軀のどの部分をもっとも熱心に使うだい?
オナニーしているときのことだけどさ
「耳だわ、もちろん」
オナニーしているときのことだけどさ
「耳だわ、もちろん」
'Which part of the body is most intensely used while masturbating? The ear.' (“THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE” Paul Verhaeghe)
無声の映像で声やそれにともなう音(シーツが掠れる音とか)
を想像するのが好みだな
ーーちょっと最近、郷愁モードだな
いま現役まっさかりならこんなことは書かないさ
ほしいままにエロスの中に浸りえ、その世界の光源氏であった男はそもそも詩を書かないのではないか。彼のエロス詩には対象との距離意識、ほとんどニーチェが「距離のパトス」と呼んだものがあって、それが彼のエロス詩の硬質な魅力を作っているのではないだろうか。(中井久夫「カヴァフィス論」)