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2010年12月28日火曜日

ラカンの「知を想定された主体」[subject supposed to know, sujet suppose savoir]

分析家の万能的能力を表すものとして誤解されがちな、ラカンの「知を想定された主体」の意味をまとめたものに当たったのでここに抜粋する。

知を想定された主体[sujet suppose savoir](よくS.s.Sと省略される)は英語に翻訳しがたい用語である。シェリダンは、この用語を「subject supposed to know(知っていると想定された主体)」と翻訳し、この訳語はラカンに関するほとんどの英語の著作において踏襲されている。しかし、シュナイダーマンは、それは主体であって知ではなく、想定されるものであるという理由から、別の訳語である「supposed subject of knowledge(知の想定主体)」を推奨している(Schneiderman, 1980:vii)
この語句は自己意識[Selbstbewuβtsein]が知るという行為それ自体において透明であるという幻影を指摘するために、ラカンが1961年に導入したものである(意識を見よ)。この幻影は、鏡像段階において生まれ、精神分析によって問題とされるようになった。精神分析は、知[savoir]はどのような特定の主体にも位置づけられることができず、実際は関主観的なものであることを明らかにした(Lacan, 1961-2:1961/11/15のセミネール)
1964年には、知がある主体に起因すると考えることとして転移を定義したが、その際にこの語句が取り上げられた。「知を想定された主体がどこかにいるや否や、そこに転移があります(S11,232)。この定義は、分析のプロセスを開始するのは、分析主体がある主体を知っている主体だと想定することであり、分析家が実際に所有している知ではない、ということを強調している。
「知を想定された主体」という用語は、分析家そのものを指示するのではなく、治療において分析家が体現するようになる機能を指示しているのである。転移が設立されたといいうるのは、分析主体によって分析家がこの機能を体現していると知覚されたときのみである(S11, 233)。ならば、分析家が所有しているとされる知とはどのようなものなのだろうか? 「それを言い表すや否や、そこから誰も逃れられないものを彼は知っていると想定されています――それは無条件に、意味作用[signification]です(S11, J342/Fr228邦訳を改変) 言い換えれば、分析家はしばしば患者の言葉の隠された意味、そして話し手が気づいてすらいない会話の意味作用を知っていると考えられている。この想定(分析家は知っているものだという想定)のみが、それなくしては意味を持たない細部(偶然の仕草、曖昧な発言)に、「想定する」患者にとっての特別な意味を遡及的にもたらす。
治療のまさに最初の瞬間から、あるいはそれ以前に、患者が分析家を知っている主体として想定することが起こるかもしれないが、ふつうは転移が成立するまでにはいくらかの時間を要する。後者の場合では、「主体が分析に入ったとき、彼は分析家にこの〔知を想定された主体の〕位置を与えることからはほど遠い」(S11,233) つまり、分析主体は最初、分析家を道化師とみなしているか、分析家の無視を維持するために情報を与えないでいることがある。しかし、「疑問視された当の分析家に対してすら何らかの無謬性の信用のようなものがどこかで与えられてしまいます」(S11,J316/Fr212) 遅かれ早かれ、分析家のなんらかの偶然の仕草が分析主体によって、なんらかの隠された意図、隠された知の徴候として扱わるのである。この点において分析家は知を想定された主体を体現する。すなわち、転移が成立するである。
分析の終わりは、分析主体が分析家の知を脱-想定したときにやってくる。そして分析かは知を想定された主体の位置から転落する。
「知を想定された主体」という用語はまた、分析家の独特の位置を構成するのが、知への特定の関係だという事実をも強調している。分析家は自らに帰せられた知と自分自身のあいだには分裂があることに気づいている。言い換えれば、分析家は(分析主体によって)知っていると推測された人物の位置を占めているだけであるということに気がついていなくてはならず、自分に属せられた知を本当に持っているのだと勘違いしてはいけないのだ。分析主体によって彼に属せられた知について、自分は何も知らないということに分析家は気づいておかなくてはならない(Lacan, 1967:20)。しかし、分析過程の頼みの綱が想定された知であるという事実は、分析家が実際に所有している知よりも、それゆえ分析家が何も知らないことに満足することが出来るということを意味しない。反対に、分析家はフロイトを真似て文化、文学、言語学的な事柄の専門家にならなくてはならないとラカンは言っている。
ラカンはまた、分析家にとって分析主体は知を想定された主体であるとも言っている。分析家が分析主体に自由連想の基本的ルールを説明するとき、分析家は実際に「さあ、なんでも言ってください。すべては素晴らしいものになるでしょう」というのだ(S17,59)。言い換えれば、分析家は分析主体にすべてを知っているかのように振舞うように言い、それが分析主体を知を想定された主体として成立させる。
An Introductory Dictionary of Lacanian Psychoanalysis, pp.197-198
a la lettreさんHPより、ディラン・エヴァンス紹介

2010年12月24日金曜日

デカルトの「我思う」と「私は嘘をつく」  (ラカン)

ラカンが「同一化」のセミネールで、デカルトの、「我思う。ゆえに我あり」におけるデカルトの袋小路をめぐって述べている箇所を、ここでは、コメント差し挟まずに、そのまま引用する。東京精神分析サークル 要約 J.ラカン、セミネールIX巻「同一化」第I講-第 X (向井雅明試訳)からの抜粋である。(太字強調は引用者)

デカルトの命題を扱うといっても、デカルトを乗り越えるということが重要なのではない。彼はひとつの袋小路に陥ったのであるが、それと同時にその基盤を示してくれた。この袋小路を利用して最大限の効果を得えることが重要なのだということは明らかである。今ここで私はテクストの注釈とは全く離れている批評をしているのであって、それについて来るには、私がそこから自分のディスクールのために何を引き出そうとしているのか思い起こす必要がある。
「我思う。ゆえに我あり」はこの凝縮された表現をもって一般的に使われるようになった。それはマラルメがどこかでほのめかしている、使い古されて表面が磨り減ってしまっている硬貨のようになっている記号のようである。それをちょっと取り上げ、その記号の機能に磨きをかけ、われわれが利用するためによみがえらせようとするために、次のことを指摘しておこう。

それは、この命題―繰り返すが、この凝縮された形は『方法序説』の中のいくつかの部分に見出されるのみで、通常はこのような濃厚な形では表現さない―、この「我思う。ゆえに我あり」は、「我思う」とはひとつの思考ではないという反論に突き当たるということである。これはまだ出されたことがない反論である。もちろん、デカルトは長い思考過程の果てにこれらの命題をわれわれに提供するのであって、それは確かにひとつの思想家の思想である。さらに言うと、思想家の思想というこの特性は、思想について語るには必要ではない。要するに、思考は思考について思考することを全く必要としないのである。とりわけ、われわれにとって思考は無意識から始まる。われわれが思考について何か言おうとするとき、思考は準備状態、縮小版の行為だとか,行為の経済的な小型モデルだとかいう心理学的命題に助けを求めるときの臆病さには驚くばかりである。フロイトのどこかにも同じようなものがあると言えるかもしれないが、もちろんそうである。だが、フロイトには何でもあるのだ。彼は何かの論文に心理学的定義を用いたかもしれない。しかしながら、思考は自慰的な満足の、完全に有効な、いわば自足した方法であるということもフロイトは主張しているということを否定するのは全く困難なことであろう。われわれがこう言うのは、思考の意味について、われわれはおそらく他の連中よりも少しばかり考えが広いということに他ならない。おそらく、この「我思う」は「我あり」という現前から最終的に探し出せるものを支持することにはまったく不十分なパロルなのであろう。
まさにそうである。明確にするために言うと、この単純な形で取り上げられた「我思う」というのは、論理的には幾人かの論理学者を困らした「私は嘘をつく」以上に確固としたものではない。この「私は嘘をつく」というのは論理的な動揺によってのみ支えられており、確かに空虚であるには違いないが支持することはでき、見せ掛けの意味を展開し、十分に形式論理学のうちに自分の地位を見出しているのである。「私は嘘をつく」、こう言えばそれは真実でありながら、私は確かにうそをつく。なぜなら「私は嘘をつく」と言いながら、逆を主張するのであるから。この論理的困難とされるものを分解して、それは、この判断は自らの言表に言及することはできない、それは異なった水準あるものの一方のもう一方への陥没現象であるということに基づいているということを示すのは非常に簡単である。「私は嘘をつく」ということ自体が強調され、そこから判断を分離せず、二つの平面の区別が欠如していることから、この疑似的困難が生まれるだ。これは、この区別が欠けていると、真の命題は成立しないということを意味する。論理学者達はこれらのパラドックスを重視して、それにふさわしい地位を与えているが、われわれにはこれらのパラドックスは意味のないものと映るかもしれない。

だがやはりそれはある重要性を持っている。それを取り上げることによって、先ほど話した有名な論理実証主義も含めたあらゆる形式論理学を位置することもできるのである。これに結びついた有名なエピメニデスのアポリアは十分に生かされてはいないようである。それは「わたしは嘘をつく」に関して上に述べたことを更に発展させたもので、「すべてのクレタ人はうそつきである、とクレタ人エピメニデスが言った」という場合、そこにはこまのように回転して止まることのない論理があることがわかるというものである。
このことは全称肯定命題というものの空虚さを証明するために十分に利用されていない。というのも、これについて指摘されるように、実際それは問題を解決するためのもっとも興味深い形式なのである。次のことを言うことは可能であるが、それを言うとどのようなことがおきるであろう。
「嘘をつくことができないクレタ人はいない」。これは有名な全称肯定命題を批判するために出されたもので、その実体は全称否定命題以外の何でもないと主張する者もいる。だがこう言った時にはもう問題は解消してしまうのである。エピメニデスはこのことを言える。というのは、このように表現されると、クレタ人でも良いのであるが、つねに嘘をつけることのできる誰かが存在するということを意味しないのである。とりわけ、嘘をつきとおすことは一貫した記憶を必要としており、最後にはその人は真理を告白するような方向にディスクールを向けてしまうゆえに、「すべてのクレタ人はうそつきである」が、嘘をつき続けようと思わないクレタ人は一人もいない、という意味なら、真理は最後にはまちがいなく何かの拍子で、また嘘をつこうという意思の強さに比例して、こぼれ出すのである。

すべてのクレタ人はうそつきであるという、クレタ人エピメニデスの告白は結局次の意味を持っている。すなわち1)彼は自慢している。2)彼は自分の方法を正しく使えることで相手の目をくらまそうとしている。これは、自分は礼儀正しくないが、まったく率直に物を言っているのだ、と言うときと同じ位成功するもので、はったりを通用させるときの典型にほかならない。
これは、カテゴリーの形式的な意味においてのすべての全称否定命題は同様な間接的目的を持っている、ということを表しているが、古典的な例においてこの目的がはっきりするのはすばらしいことである。ソクラテスについての三段論法で、ソクラテスが死すべきものであることをわざわざ明らかにするのがアリストテレスだというのは興味深いことである。つまり解釈の対象となるという意味である。ここで解釈とは、まさにアリストテレスの論理学の何巻かの標題としてある機能よりもおそらく多少深い意味を持っているであろう。というのも、アテネがソクラテスと呼ぶ者は、動物としての人間としては死を確約されていても、まさしくソクラテスと名づけられるかぎりで彼は死から逃れるのである。このことは単に、プラトンによってなされた有名な転移の作用が続くかぎり彼の名声は続くという理由だけでない。それはまた、より正確には言えば、社会的な身分を元に、固有の場を持たない存在となることに成功した者としてアテネでソクラテスという名で呼ばれている者である―それだからこそ彼は亡命できなかったのである。ソクラテスが己の死の欲望を自らの生のアクティング・アウトとなすまで自己を維持することができたということが彼の永遠の名を保証しているのでもあることは明らかである。したがって、アリストテレスの三段論法の例として挙げられたもののなかには、知の発展の障害になると彼が考えていた転移をまさに厄払いしようとする試みとして解釈できるものがあるのである。だが、それは彼の間違いであった。失敗することはは明らかであったのだ。彼がプラトンよりもうまく欲望の本性を変えることができたら事態は変わっていたであろう。現代科学は超プラトン主義から生まれたもので、結局、概念の規定に従った知の機能へのアリストテレス的回帰によるものではない。神々の第二の死とでも呼べるようなものが、実際必要だったのである。つまり、言葉が自らの真の真理を、科学の出生地である意味の闇を消し去る真理をわれわれに示すための、ルネッサンスの時代の亡霊としての神々の再退場である。であるから、われわれが言ったように、この「我思う」というフレーズは判断の意思的次元をわれわれに見せてくれるという最低限の利点を持っているのだ。だが、そのことを持ち出す必要はない。言表と言表行為の区別を曖昧にすることによって、「私は嘘をつく」の袋小路に至るあのパラドックスに遭遇するのに十分なのだ。というのは、私が嘘をつき、そして同時に「私は嘘をついている」と言うことは、これらの声を区別すればまったく可能なのである。私が「私は嘘をつくと彼が言う」ということは、私が「彼は嘘をつく」と言う以上に問題とはならない。また、「私は嘘をつくと言う」とさえ言えるのである。ただ、ここには注目すべきことがある。私が「私は嘘をつくと言う」と言うとき、それは分析家として興味深いこと、そしてまったく納得できることなのである。というのは、まさに分析家としてわれわれの介入の独創的で、生きた、そして感激的な点は、われわれはそれとは逆のかたちで厳密に相関している次元の中で動き、語るためにあるのだということを知っているからである。それは「そうではない、おまえは真理を言っているのを知らないのだ」と言うことである。これはそのまま発展し、さらに次のようにも言える。「おまえが真理をかくもよく言得るのは、おまえが嘘をついていると思っているかぎりであって、おまえが嘘をつきたくないというなら、それはこの真理からおまえを守るためなのだ。」この真理はこうした薄明かりの中でしか抱きしめることはできない。真理は乙女である。真理はすべての乙女のように本質的に迷えるものである。「我思う」にしても同様である。教授連中にとって「我思う」が簡単に通用するのは、彼らがそこにあまり詳しく立ち止まらないからにすぎない。
「我思う」に「私は嘘をつく」と同じだけの要求をするのなら次の二つに一つが考えられる。まず、それは「私は考えていると思っている」という意味。これは想像的な、もしくは見解上の「私は思う」、「彼女は私を愛していると私は思う」と言う場合に-つまり厄介なことが起こるというわけだが-言う「私は思う」以外の何でもない。デカルトの「省察」の中でさえ、「我思う」を、彼の言う根源的明証性はなにも保証することできない、まさに想像的次元でしかないものにする遇有的事柄の多さに驚かされる。もう一つの意味は「私は考える存在である」である。この場合はもちろん、「我思う」から自分の存在に対して思い上がりも偏見もない立場をまさに引き出そうとすることをそもそも台無しにすることになる。私が「私はひとつの存在です」と言うと、それは「私は存在にとって本質的な存在である」ということで、ただのおもいあがりである。このことはともかく、ここでわれわれは重要なことに出会う。「私は嘘をつく」に関して取り上げたあの次元、「私は自分が嘘をついていることを知っている」と言うことができるということに行き当たるのである。このことはわれわれにとって興味深いことである。実際、それこそある種の現象学的主体を支えるものなのだ。ひとつの定式を取り出しておこう。コギトというデカルト的探求から発展した哲学的系譜においては、唯一の主体しかなかった。それはこの最後に私が持ち出す知を想定された主体である。
この表現を現象学に、とりわけヘーゲルの現象学に参照してみると、この「知を想定された主体」の機能は、この問題において展開される共時的な機能に関して評価されるにあたいすることに注目すべきである。現象学の問いのはじめからずっとあるこの共時的なものの存在、構造のある結び目が、絶対知に導くはずの通時的展開から逃れることをわれわれに許すのである。後になってわかるだろうが、この絶対知は、この問いに照らし合わせてみると反駁可能な価値を持つ。しかしいまのところはつぎのことだけを言うにとどめておこう。すなわち、この想定された知を誰かに帰属させることも、知に対していかなる主体を想定することもやめて、不信任動議の提出にとどまるということである。知は間主体的なものである。このことは万人の知、大文字の他者の知であるという意味ではない。大文字の他者は主体ではなく、アリストテレスが言うように、それは主体の知を運ぼうとする場所なのである。もちろんこの努力によって、ヘーゲルが主体の歴史として展開したものは残る。しかしそれだからといっても主体がそこで問題になっていることについてわずかでも多く知ると言うことはまったくないのだ。主体が動揺するのは間違った想像から、つまり大文字の他者は知っている、絶対知は存在するという想像からくるものである。しかし大文字の他者は彼よりもまだ知らないのだ。なぜならまさにそれは主体ではないからである。大文字の他者はこの知の想定の表象の代理representants representatifsの貯蔵庫である。そして主体がこの知の想定の中に失われているかぎりでそれを無意識と呼ぶのである。主体は自分自身の無知のうちにこの想定をを引き起こす。それは「ものchose」の中で彼の現実がこうむったものから彼に戻る残骸、多かれ少なかれ形をとどめない残骸である。主体はそれが戻ってくるのを見て「確かにそれだ」とか「それとはまったく違う」とか言ったり、言わなかったりするのだが、それでもそれはまさにそれなのである。

2010年12月23日木曜日

現代の「病的ナルシスト」たち、あるいは「母なる超自我」と「内的な自由」

ジジェクは、looking awryのなかで次のように述べている。社会学的な三つの「主体」の形態、すでに社会心理学では常識の部類だが、と断った上でだが。


三つの形態とは、プロテスタント倫理の「自律的な」人間、他律的な「組織人間」、今日支配的になっている「病的ナルシスト」である。

ここでぜひとも強調しなければならない重要なことは、いわゆる「プロテスタント倫理の衰退」と「組織人間」の出現、つまり個人的責任という倫理が、他者のほうを向いた他律的人間の倫理に取って代わられても、そのそこにある自我理想の枠は無傷のままだということである。変わるのはその内容だけで、自我理想は、その個人が属する社会集団の期待として「外在化」される。道徳的満足をあたえてくれるのは。もはや、周囲の圧力に屈せず、自分自身に(つまり父性的自我理想に)忠実でありつづけたという感覚ではなく、集団への忠誠心である。主体は集団の眼を通して自分をみるようになり、集団から愛され評価されるような人間になろうと必死にある。

※「自律的な」あるいは「他律的な」人間については次の記述が参考になる。ポストモダンを考えるためのメモ

<人間>とは、王や<神>に従う臣下ではなく、自分で自分を監視し、自分で自分に命令するような、カント流の「先験的経験的二重体」としての主体。その変奏は、フーコーの、パノプティコンをはじめ、フロイトのエディプス化の結果として、父権的な審級を自分の中に内面化した主体であるとか、ウェーバー的な自己に責任をもつ主体など。つまりなんらかの「抑圧装置」を内面化した主体、あるいは「対象としての自己」をコントロールする主体、ということが<人間>ということ


※自我理想とは、一般的にはフロイトの「超自我」のことであるが、ジジェクは次のように語っている。「理想自我/自我理想/超自我」あるいはラカンの三幅対

<理想自我>は主体の理想化された自我のイメージを意味する(こうなりたいと思うような自分のイメージ、他人からこう見られたいと思うイメージ)。

<自我理想>は、私が自我イメージでその眼差しに印象づけたいと願うような媒体であり、私を監視し、私に最大限の努力をさせる<大文字の他者>であり、私が憧れ、現実化したいと願う理想である。

<超自我>はそれと同じ媒体の、復讐とサディズムと懲罰をともなう側面である。
この三つの術語の構造原理の背景にあるのは、明らかに、<想像界><象徴界><現実界>というラカンの三幅対である。理想自我は想像界的であり、ラカンのいう<小文字の他者>であり、自我の理想化された鏡像である。自我理想は象徴界的であり、私の象徴的同一化の点であり、<大文字の他者>の中にある視点である(私はその視点から私自身を観察し、判定する)。超自我は現実界的で、無理な要求を次々に私に突きつけ、なんとかその要求に応えようとする私の無様な姿を嘲笑する、残虐で強欲な審級であり、私が「罪深い」奮闘努力を抑圧してその要求に従おうとすればするほど、超自我の眼から見ると、私はますます罪深く見える。見世物的な裁判で自分の無実を訴える被告人についてのシニカルで古いスターリン主義のモットー(「彼らが無実であればあるほど、ますます銃殺に値する」)は、最も純粋な形の超自我である。

さて、looking awryの引用に戻る。(核心部分である

第三段階、すなわち「病的ナルシスト」の出現は、それ以前の二形態の根底に共通してあった自我理想の枠と絶縁する。象徴的法を自分の中に取り入れるのではなく、複数の規則、すなわち「いかに成功するか」を教えてくれる便利な規則がいろいろ与えられる。ナルシスト的な主体は、他者たちを操るための「(社会的)ゲームの規則」だけを知っている。社会的関係は、彼にとってはゲームのためのグラウンドである。彼はそこで、本来の象徴的任務ではなく、さまざまな「役割」を演じる。本来の象徴的同一化を含んでいる、自分を縛るような関わりはいっさい持とうとしない。彼は根源的に体制順応者でありながら、逆説的に、自分を無法者(アウトロー)として経験する。

※この第三の「病的ナルシスト」段階については、以下のものが参考になる。



(中井)確かに1970年代を契機に何かが変わった。では、何が変わったのか。簡単に言ってしまうと、自罰的から他罰的、葛藤の内省から行動化、良心(あるいは超自我)から自己コントロール、responsibility(自己責任)からaccountability〔説明責任〕への重点の移行ではないか。(……)


(浅田)再び社会学的に言うと、伝統志向や内面志向に対し他者志向こをがアメリカの大衆社会を特徴付けるのだというようなことは昔からリースマンなんかも言っていたわけですが、それでも、基調としては、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』じゃないけれど、自己が責任ある主体として行動するというディシプリンが支配的だった。それが原理としても承認されていたし、フーコーの言うような権力装置としても機能していた。

しかし、それがある時期から機能しなくなる。エディプス化によって父権的価値を内面化した自己責任の主体などというものがもはや成り立たなくなり、権力装置のほうから見ても、ディシプリンを叩き込んで主体化するなどということはもはや経済的でないのであきらめて、それこそ学校の門には金属探知機をつけるといった形で直接電子的にコントロールしてしまおうというように、フーコー/ドゥルーズの言葉でいえば「ディシプリンの社会」から「コントロールの社会」への移行が進む、それがおっしゃったような変化にもつながるのかもしれませんね。(批評空間2001Ⅲー1 「共同討議」トラウマと解離(斉藤/中井/浅田)

 2、ハイパーメディア社会における自己・視線・権力 2、コンピュータと超パノプティコン


(浅田)フーコーが言ったパノプティコンのポイントは,真ん中の監視塔から常に見られているということではなくて,実際は真ん中から見られていなくても,見られているかもしれないから,そういう視線を個々の主体が内面化して二重体になってしまうということだったんだけれど,いまもし電子メディアですべてが透明化して社会全体が超パノプティコンになるとしても,その場合に,超越的あるいは超越論的な視線というのがどこにもないから,それを内面化して,主体を二重体として形成するというモティーフもないということになるんじゃないか.

(大澤)権力が持続的なディシプリン(規律・訓練)の作用を持つかというと,そうはならない.これは,少なくとも教科書的なフーコー理解の中には入っていなかった事態だと思うわけです.つまり,パノプティコン的な事態が本当に起きているにもかかわらず,そこでは結果としては19世紀的な主体性というのは全然出てこない.われわれのパフォーマンスは常にチェックされているのに,それが持続的な主体のアイデンティティに結び付くということは全くないわけでしょう.つまり,持続的に管理されているのに,先験的な主体の視線なんてものは,全然内面化されてこない.これは,ちょっとアイロニカルな結果だと思うんですね.そういうことを,いまのデータ・ベースに関して考えたんだけれど,構造的によく似たような事態が電子メディアが関わるいろいろなところで起きているんじゃないかなという感じがしているんです.

浅田――だから,ドゥルーズがフーコーを踏まえつつさらに現状を展望して,ソヴリンティ(君主権)の時代があり,ディシプリンの時代があったけれども,いまはコントロールの時代だと言っているわけですね.しかし,そのコントロールの時代というのは,逆説的にも,ディシプリン以前の時代と通底するところがある.



このあたりから、現在の状況は、遠い昔への退行的な状況であり、一部の識者から、絶望的なつぶやきなどが生まれる所以である。


さて、ところがジジェクは、上記のような話は、社会心理学的にはすでに常識の部類に属する、といいつつ、さらに次のように述べている。


だが、たいてい見過ごされているのは、自我理想の崩壊は必然的に「母なる」超自我の出現を招くということである。母なる超自我は享楽を禁じない。それどころか、享楽を押しつけ、「社会的失敗」を、堪えがたい自己破壊的な不安によって、はるかに残酷で厳しい方法で罰する。「父親の権威の失墜」をめぐる騒々しい議論はすべて、それとは比べ物にならないくらい抑圧的なこの審級の復活を隠蔽するにすぎない。

今日の「寛容な」社会は、「組織人間」、つまり官僚制の強迫的な召使の時代よりも「抑圧」が少なくなったわけではけっしてない。唯一の違いは、「社会的交渉の規則への服従を要求しつつ、その規則を道徳的行動の掟に根づかせることを拒む社会」においては、つまり自我理想においては、社会的要求は非情で処罰的な超自我の形をとるということである。

Today's "permissive" society is certainly not less "repressive" than the epoch of the "organization man," that obsessive servant of the bureaucratic institution; the sole difference lies in the fact that in a "society that demands submission to the rules of social intercourse but refuses to ground those rules in a code of moral conduct,"15 i.e., in the ego-ideal, the social demand assumes the form of a harsh, punitive superego.

上記の内容は、ジジェクは後ほど「ラカンはこう読め!」のなかで、より具体的に、わかりやすく説明している。「ポストモダン」をめぐって、あるいは「猥雑なる超自我」



…抑圧的な権威の没落は、自由をもたらすどころか、より厳格な禁止を新たに生む。この逆説をどう説明するのか。誰もが子供の頃からよく知っている状況を思い出してみよう。ある子が、日曜の午後に、友だちと遊ぶのを許してもらえず、祖母の家に行かなくてはならないとする。古風で権威主義的な父親が子供にあたえるメッセージは、こうだろう。

「おまえがどう感じていようと、どうでもいい。黙って言われた通りにしなさい。おばあさんの家に行って、お行儀よくしていなさい」。

この場合、この子の置かれた状況は最悪ではない。したくないことをしなければならないわけだが、彼は内的な自由や、(後で)父親の権威に反抗する力をとっておくことができるのだから。「ポストモダン」の非権威的主義的な父親のメッセージのほうがずっと狡猾だ。

「おばあさんがどんなにおまえを愛しているか、知っているだろう? でも無理に行けとはいわないよ。本当にいきたいのでなければ、行かなくていいぞ」。

馬鹿でない子どもならば(つまりほとんどの子供は)、この寛容な態度に潜む罠にすぐ気づくだろう。自由選択という見かけの下に潜んでいるのは、伝統的・権威主義的な父親の要求よりもずっと抑圧的な要求、すなわち、たんに祖母を訪ねるだけでなく、それを自発的に、自分の意志にもとづいて実行しろという暗黙の命令である。このような偽りの自由選択は、猥雑な超自我の命令である。それは子供から内的な自由をも奪い、何をなすべきかだけでなく、何を欲するべきかも指示する。
          

ここで言われる「猥雑なる超自我」が「母なる超自我」であり、すなわちラカンの「現実界」である。
上記の文脈からいえば、「病的ナルシスト」である現代の主体は、「何を欲するか」まで、「母なる超自我」によって命令されていることになる。再度引用するなら、この箇所である。

象徴的法を自分の中に取り入れるのではなく、複数の規則、すなわち「いかに成功するか」を教えてくれる便利な規則がいろいろ与えられる。ナルシスト的な主体は、他者たちを操るための「(社会的)ゲームの規則」だけを知っている。社会的関係は、彼にとってはゲームのためのグラウンドである。彼はそこで、本来の象徴的任務ではなく、さまざまな「役割」を演じる。

こういったジジェク=ラカンの理論から、大澤氏の次のような発言もある。ラカン=ジジェク派としての大澤真幸――『<自由>の条件』より


(…)現代社会においては、伝統的な規範の枷がその効力を徐々に失い、原理的には、他者危害要件(他人に危害を及ぼさないという留保条件)さえみたしていれば、すべてが許されているように感じられるのである。つまり、少なくとも規範との関係でいえば、ほぼ完全な(消極的)自由が保証されているように見えるのだ。

だが、これと連動して、まったく逆方向の傾向も見出すことができる。すなわち、個人の幸福や厚生の水準の向上の名のもとに――つまり他者危害要件によって――、従来ではありえなかったような規範が急速に増大しつつあるのだ。(…)喫煙を限定する規制、望ましい食事を規定する規範、家庭内での暴力を禁止する規範、あるいはセクシュアル・ハラスメントやストーカー行為を禁止する規範などが、そうした規範に含まれる。



どうだろうか。「情報」「コミュニケーション」などを新しく錦の旗にした「新しい言説」を旧来派が徹底的に批判する根拠のひとつがここにある。ジジェクの主張によれば、内的な自由さえ奪われている、ということだ。再度引用すれば、そこにあるのは、

自発的に、自分の意志にもとづいて実行しろという暗黙の命令である。このような偽りの自由選択は、猥雑な超自我の命令である。それは子供から内的な自由をも奪い、何をなすべきかだけでなく、何を欲するべきかも指示する。

では、どうすればいいのか。ラカン=ジジェクの解答は、

ラカンにとって、唯一の正しい審級は、三つからなるフロイトのリストにはない第四の審級、すなわちラカンが時おり「欲望の法」と呼ぶ、欲望に従って行動せよとあなたに命令する審級である。ここで重要なのは、「欲望の法」と自我理想(主体が教育を通じて内在化する社会的・象徴的規範と理想のネットワーク)との差異である。ラカンにとって、道徳的成長と成熟へと導く、自我理想という一見善意にみちた審級は、現存する社会的・象徴的秩序の「理に叶った」要求を採用することによって、「欲望の法」を裏切るよう強いる。過剰な罪悪感をともなう超自我はたんに自我理想の必然的な裏返しであり、われわれに「欲望の法」を裏切らせるために、耐えがたい圧力をかけるのだ。超自我の圧力の下でわれわれが経験する罪悪感は幻想的なものではなく実際の罪悪感である。「ひとが罪悪感を持ちうる唯一のことは、自分の欲望に関して譲歩したこと」であり、超自我の圧力はわれわれが自分の欲望を裏切ったことについて実際に罪があるのだということを示している。。「理想自我/自我理想/超自我」あるいはラカンの三幅対

このあたりを、「欲望」だけでなく、「欲動」、あるいは、ラカンの最晩年の「サントーム」概念を考慮して、もう一度捉えなおそうというのが、ラカン理論主流派の立場である。資料:欲望と欲動(ミレールのセミネールより)



果たしてラカン=ジジェクは古くなったのだろうか。