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2013年11月3日日曜日

一瞬よりはいくらか長く続く間

昨日から大気の肌触り爽やかになり漸く乾季の訪れか。光の風合まで翻然と異なる。

昨年の日記(ウェブ上からは削除してしまったが)を探しだせば、十一月二十三日に同じようなことを書いており、もしこのままぶり返しがなければ、今年は昨年より早く乾季が訪れたことになる。そう、さきほども中原中也の「さらさらと」を想い起こしたところだ。

小林秀雄が、中原中也の「最も美しい遺品」と書いた「一つのメルヘン」、すなわち「さらさらと」ーー、《陽といっても、まるで珪石か何かのようで、/非常な個体の粉末のようで、/さればこそ、さらさらと/かすかな音を立ててもいるのでした》--は、中也の友人吉田秀和が次のように書いているのを想い起こしもする。《ある時刻における小さな宇宙が自分の中にも目覚めてくる》(吉田秀和「中也のことを書くのは、もうよさなければ……」(『ユリイカ』1970.9)。

時間が別の次元に変貌する瞬間がある。時間が濃密な密林の液体のようにゆるやかに、淀みながら流れていくのではなく、微粒子の粒がひとつひとつ際立ってすべての要素がそれぞれに異なった自分をわれがちに主張しあって流れてゆく刻限。

それは盛夏の光の波ではなく、光の粒子の季節でもある。
私が思うに、男を光の波とすれば、女性は光の粒子の集まりなのです。少女のフィルムをスローモーションで見てみると、互いに異なった百個の世界が見えてきます。少女が笑ったと思っていると、その十二コマ先では完全な悲劇が展開されるのです。(“ゴダール全てを語る”―宇野邦一『風のアポカリプス』より)

…………

2012年11月23日

ようやく乾季の訪れか。台所のテーブルに坐って珈琲を啜りつつ開け放たれた窓のむこうの前庭をぼんやり見やれば、花崗岩で組まれた塀のでこぼこした表に、細かく拡がった梢の末の翳を柔らかく描くのは、少し前とは違っておだやかで懐かしい陽射しだ。かすかな風にゆらぐその梢の模様とこがね色の陽光は粘つかず、さらさらと、……《小石ばかりの、河原があって、/それに陽は、さらさらと/さらさらと射しているのでありました》(中也)

傍らの古びていかめしい樹幹をもつプルメリアは湿気と寒さに弱く、雨季のおわりから乾季の始まり一、二ケ月のもっとも涼しくなるこの時節には、葉も落ちほとんどまる裸になって、いまだ花があるわけではないが(この樹は乾季終りの暑さのさかり、三月から四月にかけて薫り高い白い花をおびただしく咲かせてから新しい葉が出る)、庭隅のジャスミンやら日本名は知らないが当地ではクエと呼ぶーーこのクエの名が今年わかった、月橘というーー、これも白い小さな花の甘酸っぱい香りがかすかに漂っている。なにはともあれ、当地のこの乾季の始まりは、日本のいくつかの季節の感覚をもっともしばしば呼び醒ます時期であって、たとえば「かすかな」「ゆらぐ」としたことから、こんな文を引っ張り出してみよう。

京都の花便りは何と云っても最も気にかかるので、毎年四月の七、八日になると電話で聞き糺すのであった。平安神宮のお花見のことは「細雪」で余りにも知られ近年は雑踏のために花見らしい情趣も酌めなくなってしまったが、「細雪」を執筆しはじめたころは、内苑の池の汀に床几をもうけ緋毛氈を敷いて、蒔絵のお重に塗盃でお酒を酌み交し、微醺を帯びて枝垂を見上げ、そよともふく風のないのに梢の末(うれ)が幽かにゆらぐのが此の世のものとも覚えぬ風情で、私たちは花の精が集うていると云い合った。全く花に酔い痴れて花の下で何を語り何を考えたかそれも思い出せない。

夫と世を隔てて翌年の春、平安神宮の桜を思い起こさないではなかったが、あの花を独りで見る悲しさに堪えきれるものではなく、花に誘われて遠い遠い雲の彼方へ魂は連れ去られ、此の身だけが嫋々としだれる花にそと触れられながら横たわっている。そんな空想をしながら家に籠っていた。(谷崎松子『倚松庵の夢』)

あるいは「梢の模様」としたことから、次の文を。 

一年を通じて、この店の間がもっともあかるいのは、十一月の中、下旬、陰暦十月の小春と呼ばれている時期、および冬至をなかにして、これと対応する二月の中、下旬である。そのころ、京格子は上から下までいっぱいに、陽ざしを浴びている。格子の内側の障子をあけ放つと、たたみの上には規則正しい縞柄の日陰が横たわる。障子をしめていると、表の軒近くをとおる人影が、あらかじめ障子にえがき出された格子の縞のなかを通過する。そういう影のたわむれが、ふと目をうばうようなとき、ヴァレリーの一節が、私には思い出される。

木立の枝にとらわれた  かりそめの虜囚
並行する この細い鉄柵を ゆらめかせる入海……

「かりそめの虜囚」である人影は、たやすくこの格子の影、質量をもたないこの牢獄の柵からすり抜ける。「細い鉄柵」は、ヴァレリーにとっては睫毛の隠喩であった。それなら、京格子のつくる影は、カメラの暗箱にとりつけられた美しい人工の睫毛というべきかもしれない。そして南面に格子をもっている店の間こそあかるいが、間仕切りの襖のむこう、さらにもう一枚の襖をあけると奥座敷に通じる中の間は、四季を通じて暗箱のように暗いのが、京都の町のなかの住居の特色である。(杉本秀太郎『洛中生息』)

こうしてかつて十年ほど住んだふたつの「京都」の描写を抜き出したからといって、ことさらノスタルジーに囚われているのではなく、《一瞬よりいくらか長く続く間》(大江健三郎)の感覚、その過去と現在の印象が唐突に重なるのが尊いのであって、《まさに、ごくわずかなこと。ごくかすかなこと、ごく軽やかなこと、ちょろりと走るとかげ。一つの息、一つの疾駆、一つのまばたきーーまさに、わずかこそが、最善のたぐいの幸福をつくるのだ。静かに。》(ニーチェ)

豌豆のさや  (谷川俊太郎)


寝床の中で目を覚ますと
まずしなければいけないことが心に浮かぶ
しなければいけないことはしたいこととは違うが
自分が本当に何をしたいのかはよく分らない
そう思いながら手紙を書き
自転車で銀行へ行って金を振り込む

何もせずに一日を過ごしたことがないのを
恥じる必要はないかもしれないが
自慢することも出来ないような気がする

夕刻
屑籠の中に散らばった豌豆のさやが美しい
どうしてそんな些細なことに気をとられるのか
今日も人は死んでいるのに殺されているのに

この世にはあらゆる種類の事実しかない
その連鎖にはどんな法則もないように見えるが
多分そこに詩と呼ばれるものが隠されている


―――といいつつ、京都町中の季節のいい折の散策途上のお決まりの休憩場所であったイノダコーヒー三条店のカウンターに坐ってあのミルクコーヒーを(あれはけっしてカフェ・オーレと呼ぶにふさわしくない)啜ってみたいということはあるな


…………

などと昨年は書いている。このあとイノダ珈琲三条店やら本店のことをぐだぐだ書いているが、それはいまはどうでもよろしい。

いまは、大江健三郎の《一瞬よりいくらか長く続く間》をメモしたものがあり、投稿せずにいるので、それをここに抜き出す。


――……この一瞬よりはいくらか長く続く間、という言葉に私が出会ったのはね、ハイスクールの前でバスを降りて、大きい舗道を渡って山側へ行く、その信号を待つ間で…… 向こう側のバス・ストップの脇にシュガー・メイプルの大きい木が一本あったんだよ。その時、バークレイはいろんな種類のメイプルが紅葉してくる季節でさ。シュガー・メイプルの木には、紅葉時期のちがう三種類ほどの葉が混在するものなんだ。真紅といいたいほどの赤いのと、黄色のと、そしてまが明るい緑の葉と…… それらが混り合って、海から吹きあげて来る風にヒラヒラしているのを私は見ていた。そして信号は青になったのに、高校生の私が、はっきり言葉にして、それも日本語で、こう自分にいったんだよ。もう一度、赤から青になるまで待とう、その一瞬よりはいくらか長く続く間、このシュガー・メイプルの茂りを見ていることが大切だと。生まれて初めて感じるような、深ぶかとした気持で、全身に決意をみなぎらせるようにしてそう思ったんだ……

それからは、自分を訓練するようにして、人生のある時々にさ、その一瞬よりはいくらか長く続く間をね、じっくりあじわうようにしてきたと思う。それでも人生を誤まつことはあったけれど、それはまた別の問題でね。このように自分を訓練していると、たびたびではないけれどもね、この一瞬よりはいくらか長く続く間にさ、自分が永遠に近く生きるとして、それをつうじて感じえるだけのことは受けとめた、と思うことがあった。カジね、そしてそれはただそう思う、というだけのことじゃないと私は信じる。

それはこういうことが考えられるからだよ。もう一度、ほとんど永遠に近いくらい永く生きた人間を想像してみよう。それこそ大変な老人になって、皺だらけで縮こまっているだろうけれどもさ。その老人が、とうとう永い生涯を終えることになるんだ。そしてこう回想する。自分がこれだけ生きてきた人生で、本当に生きたしるしとしてなにがきざまれているか? そうやって一所懸命思い出そうとするならば、かれに思い浮ぶのはね、幾つかの、一瞬よりはいくらか長く続く間の光景なのじゃないか? そうすればね、カジ、きみがたとえ十四年間しか生きないとしても、そのような人生と、永遠マイナスn年の人生とは、本質的には違わないのじゃないだろうか?   

――僕としてもね、永遠マイナスn年とまではいいませんよ。しかし、やはり八十年間生きる方が、十四年よりは望ましいと思いますねえ、とカジは伸びのびといった。

――私もカジがそれだけ生きることを望むよ、というギー兄さんの方では、苦痛そのもののような遺憾の情を表していたが。……しかしそうゆかないとすれば、もし十四年間といくらかしか生きられないとすれば、カジね、私としてはきみにこういうことをすすめたいんだよ。これからはできるだけしばしば、一瞬よりはいくらか長く続く間の眺めに集中するようにつとめてはどうだろうか? 自分が死んでしまった後の、この世界の永遠に近いほどの永さの時、というようなことを思い煩うのはやめにしてさ。(大江健三郎『燃え上がる緑の木 第一部』p148-150)

――私は、総領事の最初の結婚を破棄して、自分と再婚させたわけだけど、それまでの後悔を引っくり返すほどの喜びをあたえたとは思わない、と弓子さんはいって、もう一度嗚咽され、鼻をかんだハンカチをまるめて握った手をまたK伯父さんの手の上に戻された。

――総領事と弓子さんをブリュセルに訪ねて、泊めてもらった時ね。翌朝、食堂に降りて行くと、きみたちは中庭のorme pleureurをじっと眺めていた。そこへ声をかけると、ふたりが共通の夢からさめたようにこちらを振り返ってね。ああいう時、総領事は、隆君の言葉を使えばさ、一瞬よりはいくらか長く続く間、弓子さんと喜び〔ジョイ〕を共有していたんじゃないの? しかも、そういうことは、しばしばあったんじゃないか?

イェーツの、ふたつの極の間の生というのはね、僕の解釈だと、……総領事のそれとはくいちがうかも知れないけれどもさ、なにより両極が共存しているということが大切なんだよ。愛と憎しみという両極であれ、善と悪という両極であれ…… それを時間についていえば、一瞬と永遠とが共存しているということでしょう? ある一瞬、永遠をとらえたという確信が、つまり喜び〔じょい〕なんだね。

じつはいまさっき、総領事の身の周りのものがまとめてあるなかに、イェーツの詩集があって、開いて見たんだけど、第四節はこういうふうなんだよ。《店先で街路を見わたしていた時/突然おれの身体が燃えさかった、/二十分間の余も/おれは感じていたのだ、あまりに倖せが大きいので、/祝福されておりみずから祝福もなしえるほどだと。》五十歳のイェーツの感慨なんだ、総領事が到達した年齢や、僕がいま生きている年齢より若い折の詩人の……

結婚したてのきみたちは、やはりロンドンから、この二十分間の余を現に体験していると、そういっている絵葉書をくれたじゃないか? きみたちは喜び〔ジョイ〕を共有していたぜ、あの時。それは一瞬のうちに永遠へ入り込んでいたことでね、失われようがない。……弓子さんがこれから休暇をとって、メリー・ウィドウの気分で、ロンドンの喫茶店を再訪でもすればさ、も一度その一瞬にめぐりあって永遠に戻ることになるよ!

――それがあったとしてもね、新しい一瞬を、このように死んでしまっている総領事と一緒に経験できるとは思えない……

弓子さんは老成した不機嫌さの躱し方だったが、その底に稚いような素直さの響きもあったからだろう、めずらしくK伯父さんはヘコタレなかった。

――バラバラの個ならば、そう。それにあわせて、全体のなかにふくまれる個ということも考えられるんじゃないの? とくにわれわれが一瞬の永遠を感じとるというような時、それは全体のなかの個としての経験だと思うよ。この場合、全体には死んで行った人の個もふくまれているはずね、実感としても…… それがあるからこそ、自分が祝福されるばかりじゃなく、他人を祝福することもできそうだというんだと思うよ。(同『燃え上がる緑の木 第二部』 P227-229)




※附記:大江健三郎「「涙を流す人」の楡」より(『僕が本当に若かった頃』所収)

――朝食の間、沈みこんでいるものだから、気がかりだったわ、と妻が声をかけていたのである。中庭の奥の大きい木を見ないように、身体を斜めにしているのも不自然だったし…… あなたが木が好きだということで、奥様はあの不思議な木を特別な御馳走のおつもりだったはずなのに。

――そこで話題が樹木の方向に進むようにとマロニエの花へ誘導してくれたのか…… しかし、沈みがちだったのはNさんじゃなかったかい? それでもホストとしてしっかりつきあってくれていて…… むしろそれをむりに笑わせるのもと、冗談をいわないようにしていただけだよ。……中庭の大きい木はチラリと見たように思うけど、つまりはNさんの鬱屈と思いこんだものに気をとられていたから。

――あなたが、あれだけめずらしい樹木をチラリとなり見て、そのままにしてしまうというのは、自然じゃないでしょう? いつもなら、すぐさま中庭へ廻らせていただいて、幹にさわってみるなりしたはずよ。そうやってあなたが楽しむのを、大使たちは期待されていたと思うわ。

――そういわれればね。昔きみには話したけれども、ある特別なかたちの大きい樹木で、それを見たり思い出したりすると、近年は鬱屈というほどでもなくなったけれど、気の滅入るやつがあるわけだ…… 
 (……)朝食を始めた頃にはただ真青だった空に急速に雲がひろがって、しだれにしだれた枝のこまかな葉の茂りが凶々しいほどに翳ってゆく。僕はつい溜め息をついて、整えられたベッドのカヴァーの上へ横になり、これからすくなくとも一日二日は沈んだ気分においてつきまとうはずの、幼年時の記憶に面とむかった。海外にいることもあり、いくらかは進んでこちらからそれをかきよせるようだったと思う。そのうち僕は当の記憶の光景が、今朝早くからの気分を裏側でコントロールしていたことを認めるほかなかったのである。昨夜、月明りのなかの広大な前庭を大使の車で廻り込んだ時か、今朝の起きがけの散歩で、、僕はねじ曲げられた梢をチラリと見かけ、すぐ眼をそむけて見なかったふりをし、意識の表面ではそれに成功していたのだったろう……
(……)幼年時のひとつの光景の記憶という主題は、やはり夢のように淡い不定形なものなのだった。大使がその公的生活にはまぎれこむことがないにちがいない、こうした小説家の個人的な話に寛大な、またとない聴き手であったことをしみじみ思う。沈黙してこちらを穏やかに見まもっている沈着かつ機敏なかれの眼を、すでに現世ではもう再び見ることができぬことになったいま、さらに色濃く…… そしてあの最後の話合いはなにか自分らを越えたもののはからいではなかったかとすら疑うのだ。

われわれの座っている居間の大きいガラス仕切りの向こうには、全体に総毛立つふうなorme-pleureurが、斜め下方の谷あいから夕陽を受けて濃いワインカラーに燃えあがりもした。あの梢を押しひしいでいた見えない力と、つながっているところのものが、どこかでとりはからってくれていたのではなかったかと……

――確か五、六歳の頃の記憶なんですが、背景の樹木をふくめて画像としてくっきり頭にきざまれているのに、その光景を構成している人びとがすべてあいまいな、そういう記憶にね、永年とりつかれているんです。さらにこの光景につづいての出来事に、ぼんやりした罪障感があるんですね、自分自身と父親とに関わって…… しかし自分や父親が実際になにをしたか、ということは霧に包まれています。そういうわけで小説にも書くこともできない記憶なんです。ところが、きっかけがあってその記憶が表層の方へ浮びあがってくると、いつでも気持が沈んでしまう。それが一、二日は続く。とくに学生の頃、罪障感として意識するようになって、ずっとそうなんです。

(……)しかし、困るなあ、あはは! あなたにそんなベソをかいたような顔をされては! ……あのしだれた楡は、家内もいったとおりorme-pleureurで、pleureurというのは、枝がしだれにしだれているということですね、しかし、言葉の表面の意味としては「涙を流す人」の楡であるわけで、あの木の確かにベソをかいているような雰囲気が、あなたのみならずね、われわれみなを影響づけているかも知れないけれど……
この夏の終り、N大使は癌にもとづく肝不全で急逝された。自分の弔辞で、この樹木を思出についてのべたところを引用したい。

《ブリュッセルの朝から東京の夕暮に向けて、かつて聞いたことのない夫人の悲しみの声が大使の死をつたえる国際電話を受けてから、私はこの夏の終り、暗く茂っているはずのorme-pleureurの影に覆われるようにして時を過してきました。

あの秀れた異分野の友人は去った、かれと共にあることでのみ開かれたこの世界の独自の側面は自分から捥ぎとられた。そのことを私は繰りかえし思っています。現実と、あるいはその外部との関わりにおいて、こちらとは比較にならぬ経験をかさねた人物に、しばしば私は自分の自閉的な思い込みを越える展望を開いてもらいました。それが自分にとってかならずしもすべて受け入れやすかったのではない。しかしある時がたつと、私はその展望を介してはじめて可能な、積極的なものをかちえていることにつねに気づいたのです。

そのあれこれを思い出していると、いま自分がいくらかなりとタフな成熟をなしえているとすれば、しばしば対立しながら豊かな談論を楽しむことのできた、大使との交遊の日々にそれがもたらされていることをさとらずにはいられません。

N大使、私はいまもなおあなたがまさにそのようにタフな成熟と純粋さをあわせもつ眼で、微笑しつつ、わずかなイロニーも漂わせて、私を見おろしていられることを感じます。残された生の時、それを感じつづけもすることでしょう。》









2013年11月2日土曜日

「行間にはなにも書かれていません」(蓮實重彦)

◆「あるがままに観る」ということ

 『AERA』の連載「小林麻耶のワクワク対談」(周防正行 『AERA』2011.1.25号より

麻耶 周防さんは小さいときから映画監督になりたかったんですか。

周防 いえいえ、とんでもないです。僕は映画監督というのは、優れた人がなるものだと思っていたから、でも大学1年生のときに蓮見重彦さんの映画評言論という授業を受けたら、考えが変わった。

麻耶 どんな授業だったんですか。

周防 例えば、国語の授業で僕らは子どものころから「行間を読め」って言われるでしょ。

麻耶 はい。

周防 蓮實さんの仏文の授業では、「行間には何も書かれていません」と言われました。で、映画の授業では「何が映ってましたか」って聞かれるんですけど、例えば映画「未知との遭遇」だったら、「特撮がすばらしかった」と言うと「特撮だとどうしてわかるんですか? 本物の円盤ではないのですか」と切り返され、「パンフレットに書いてあります」なんて言ったら、そこでもうアウトなんです。「あなたは映画を見てるんじゃなくて、パンフレットを読んでます」と

麻耶 ああ、確かに。

周防 そうやって僕らは、「映ってないものを見てるんだ」っていうことを思い知らされる。そうしたら僕、映画が難しいなと思わなくなったんです。だって、映っているものを見るだけだから。——

周防 ——「本当の自分」って何なんでしょうね? 実は、存在するということは、他人から見たその他人の数だけの僕がいるだけで、この「あるがまま」が人にどうとられるかだけだと思うんです。そう考えると、しょうがないんです。開き直るしかないんです。

いかにも蓮實重彦らしい挑発的反語だ、としておこう。
ーー「行間にはなにも書かれていません」

ところで、
作品が作家をつくるとヴァレリーはいったが、私はやはり作家というものを切り離して作品を論ずる気にはなれない。ただし私のいう「作家」とは、作品がつくり出す作家ではなく、作品をつくり出す作家、すなわち作品を書くという過程を通してあらわれる精神の働きというようなものである。——柄谷行人

という文をツイッター上から拾ったが、柄谷行人がどこでいっているのかは窺いしれない。

柄谷行人には『隠喩としての建築』(1979)にヴァレリー論があり、すくなくともそこでは上のようなことは言っていない。あるいは『マルクスその可能性の中心』(1978)では、マルクスの価値形態論にむすびつけて(ヴァレリーは仏国においてマルクスの最初期の熱心な読者だったらしい)ヴァレリーの『芸術についての考察』を長々と引用している。

要するに、芸術作品とは一個の対象物(オブジェ)であり、ある個人たちにある種の働きかけを行おうとしてつくられた、人間による制作物であります。個々の作品とは、あるい言葉の物質的な意味における物体(オブジェ)であり、あるいは、舞踊や演劇のように行為の連鎖であり、あるいは―――音楽がそうなのですが―――同じく行為によって産出される継起的印象の合計であります。こうした対象物を起点とする分析によって、私たちは、私たちの芸術概念を明確にしようと試みることができます。こうした対象物こそ、私たちの探求の確実な要素にほかならぬと見なしうるものなのです。こうした対象物を考察することによって、そしてまた、一方ではそれらの作者へと遡行し、他方ではそれらが感動作用を及ぼす人間へと遡行することによって、私たちは、<芸術>という現象がふたつのそれぞれ完全に区別されて変形されうるということを見出すのです(それは経済学において生産と消費のあいだに存在する関係と同じ関係であります)。

きわめて重要なのは、これらふたつの変形作用―――作者からはじまって製造された物体における変形作用と、その物体つまり作品が消費者に変化をもたらすという意味での変形作用―――が、相互に完全に独立しているということです。その結果として、このふたつの変形作用は、それぞれべつべつに考えられるべきである、ということになります。

みなさま方は、作者、作品、観客あるいは聴き手という三つの項を登場させて命題をお立てになる。しかし、この三つの項を統合するような観察の機会は、けっしてみなさま方のまえにあらわれないだろうという意味で、そういう命題はすべて無意味な命題なのです。(……)

……私の辿りつく点というのはこうです。―――芸術という価値は(この言葉を使うのは、結局のところ私たちが価値の問題を研究しつつあるからですが)この価値は本質的に、いま申したふたつの領域(作者と作品、作品と観察者)の同一視不能、生産者と消費者のあいだに介在項を置かねばならぬというあの必然性に従属しているということです。重要なのは、生産者と消費者とのあいだに精神に還元できぬなにものかがあって、直接的交渉が存在しないということ、そして作品というこの介在体は、作者の人柄や思想についてのある概念に還元できるようななにごとも、その作品に感動する人間にもたらさぬということなのです。(……)

芸術家と他者(読者)このふたりの内部にそれぞれなにが起こったか、それを厳密に比較するための方法など、絶対にいつになっても存在しないでありましょう。そればかりではありません。もし、一方の内部で起こったことが他方に直接的に伝達されるのだとすれば、芸術全体が崩壊するでありましょう。芸術のもつ力のすべてが消失するでありましょう。他者の存在に働きかける新しい不浸透性の要素の介在がせひとも必要なのです。(ヴァレリー『芸術についての考察』 清水徹訳)

この文は、読者ー作者という読み方を諌める文として、「テクスト」批評の起源のひとつとしてよいだろうし(《生産者と消費者とのあいだに精神に還元できぬなにものかがあって、直接的交渉が存在しないということ》)、柄谷行人の先に掲げた文は、いやそれにもかかわらず、「作家の精神の動き」が重要であると主張しており、ことによったらテクスト批評や蓮實重彦への批判としても捉えられるかもしれない。

実際、80年代から90年代前半の蓮實重彦と柄谷行人の蜜月期をへて、90年代後半のどこかでふたりは離反した印象を受ける。


次の文は柄谷行人が鮮明に蓮實重彦を批判している対談録からである。

柄谷 台湾の侯考賢の「非情城市」を見たときに、この人ははっきり主題を持っていて、この映画で台湾の運命を描いている。天皇が敗戦の演説をしているときにオギャーと産まれる私生児が台湾です。監督自身は本土から来た外省人だけど、ネーションとしての台湾の形成を描こうとしたわけです。例えば、台湾の左翼らが蒋介石によって弾圧されるんですけれども、彼らは台北の帝国大学を出た左翼であって、たとえ毛沢東が来たって弾圧されたでしょう。左翼そのものが「日本文化」なんですね。とにかく、彼の主題は明白です。僕がその映画を見に行ったときに、パンフレットみたいなのを見たら、蓮實重彦が、ここのアングルは小津の引用だとか、そういうことしか書いてないんですよ。

村上 本当ですか。

柄谷 監督は明らかに、そのような主題なしにこの映画を作らなかっただろう。技術的な問題は映画監督なら当たり前のことですよ。しかし、蓮實重彦は主題など見るのは素人だ、おれはそんなバカではないという感じで書いていた。しかし、アングルがどうのこうのなんて、そんなもの映画をつくっている人間から見たらカスみたいな話ですよ。素人が映画を見まくって覚えた技術論なんか関係ない。みんな苦労しているから、それぞれ技術をもっていますよ。批評家がそんなことを得意そうにいう筋合いはない。小説でも同じことですが。日本の映画がなぜだめかというと、主題がないからだ、あんなカスみたいな趣味的評価は全部否定しろ、主題をもつ以外に日本の映画は復活できない、と僕はいいました。小説も同じですよ。(……)

村上 主題を否定することで、何かそこに価値があるという倒錯は至るところにありますね。(「時代閉塞の突破口」柄谷行人ー村上龍対談2000.10『NAM生成』所収)


他方、ふたりの蜜月時代、蓮實重彦は柄谷行人の対談集(1988)で、《僕が表層批評ということを、あえて誤解を覚悟でいったのは……》と語っている。

……かりに自分が自分の批評家であったとすれば、蓮實重彦のこれまでの仕事は、一貫して、魂の唯物論的な擁護であるということになるでしょう。魂の唯物論的な擁護ということが、僕自身にとっての批評の意味でもあるわけです。魂というのは、きわめて具体的な言葉なら言葉の魂ということです。記号でも作品でもいい。文章でもかまわない、それを、ものとして、物質として、それが語られているその場で、みずから輝かせることが批評ではないか。そして、自分自身の言葉が、他人によって輝いたという経験も記憶もないのです。それは、蓮實重彦を語る人の多くが、イメージを介してしか論じていないもどかしさを与えるのですが、もっと困るのは、そのイメージが、僕と適当に似ていることです。そしてその相似によって、魂の唯物論的擁護がいたるところで流産されていると感じる。ということは、批評の魂がものとして輝いていないという意味でもあるわけですが、僕のもどかしさは、むしろ、ひどよい類似にたどりつくしなないイメージの貧弱さです、そしてそのことは、ほとんどの批評について言える弱点となっている。

魂の唯物論的な露呈をさまたげているもの、それはイメージです。観念といってもよい。つまり、表象可能なものによってしか批評が支えられていない。ここで魂というのは、いささかも宗教的な意味はないし、また、プラトニズム的な色彩も含んではいないものです。むしろ、ドゥルーズのいうアンタンシテ(強度)に触れて具体的に他となる部分が魂であって、唯物論的というのは、たんなる物質というのではなく、肉体的な運動、つまりアクションを必然化するものなのです。宗教やプラトニズムの残滓が、魂の唯物論的な露呈をさまたげているというべきなのです。その意味で、現代の批評は。宗教的でプラトニズム的だとさえ言えると思う。

僕が表層批評ということを、あえて誤解を覚悟でいったのは、そうした現状にいらだってのことです(……)。(『闘争のエチカ』)

ここで語られているのは、作品を鑑賞するときに、ひとびとはイメージ(作家の、あるいは周防正行の対談の発話でいえば、パンフレット)を介して、それに接してしまい、作品の「魂」に触れることが流産してしまう、ということだ。

以下の文も同じことが語られている。


ギュスターヴ・フローベールと口にするがはやいか、(……)誰もが意味なくすべてを納得した気分になってしまう(……)。この寛大な容認だけは何としても避けなければならなかった。(……)誰もがフローベールを知っている。そして、知っているという事実をたがいに確認しまうために、人は、フローベールをめぐって誰もが知っている物語を語りあう。(……)誰にでも妥当性を持つことで、誰もがそれを口にするのが自然だと思われる物語。それが知の広汎な共有を保証し、その保証が同じ物語を反復させる。かくして知は、説話論的な装置の内部に閉じこもる。(蓮實重彦『物語批判序説』p18-19)

この文章の「物語」という語彙を「イメージ」に置き換えても、そのまま読めることに注目しておこう。


さて、では蓮實重彦は70年代の仕事『表層批判宣言』でなにを書いたのか。たとえばそこに収められている「健康という名の幻想」には次のような文がある。

現在=「生」=「作品」

現在の反義語は過去でもなく未来でもない。問題の一語がそれなのだ。また、「生」の反義語も「死」ではない。やはり問題の一語がそれなのである。つまり問題の一語は、現在=「生」の反義語にほかならない。では、現在=「生」の同義語としては何があるか。それが最後の問題である。しかし、これもまた問題の名に値しないであろうことは、誰もが具体的な体験として生きつつあるはずだ。

いうまでもなく、現在=「生」の同義語として特権的なものは「作品」の一語である。そしてその一語は、文学をあらゆる体験のうちで最も貴重なものに仕立てあげるだろう。もちろん、われわれが文学の一語で想像する体験は、どこかいかがわしくひとりよがりなところがあるし、ある種の頽廃や衰退の概念をいつも引きずっているように思う。そして、文学がそのようなものとして想像されがちであるというには、それなりの理由がそなわっていないでもない。文学にたずさわるものの多くが、書きそして読むという体験を世界の頽廃した湿地に咲き乱れる無償の美しさとしてあることをむしろ誇りい思い、欠落を埋め間隙を充たし距離を越える試みをかえって実践的な行動として軽蔑してきたふしがあるからである。しかし、いまとなってはそんな理由はさして重大なものとはいえなくなってきている。というのも、文学と呼ばれる領域に、世界の残りの部分に起っていたこととはまったく異質の体験が生きられていたとはとうてい思えないからである。そして、実際、文学的体験とこれまで見てきた思考一般の体験の同質性に気づくのに、人はさほどの努力を必要とはしないだろう。というのも、ほとんどの場合、「作品」は現在として生きられることなく問題として抽象化され、意味といういまここにはない隠されたものをいささかの困難を伴いつつさぐりあてる試みが読むことだとされているからである。それは、思考の善意が煽りたてるかりそめの葛藤劇の構造とあらかた同じものが、文学的体験を支えているという何よりの証拠である。いったい小説家の大江健三郎は、どうして『ピンチランナー調書』という「作品」を書いたのか。作家たる大江氏はどんな思想をそこにこめようとしたのか。いかなる意味をそこに読みとればいいのか。われわれ読者をどこへ引きずって行こうとしているのか。「作品」と向かいあった思考がだどるのは、おおむねそうした謎解きの運動だ。つまり「作品」とは、読むことによって埋められる空白、あるいは越えられる距離としてそこに姿をみせているのだ。この運動は奇妙なことに、いまここにあるはずの「作品」をいったん虚構化してなかったことにして、逆にいまここにはない不在の作者の思想を問題化し、隠された意味をさぐるべく距離の彼方へ視線をなげかけるという仕草をともなうが故に、すぐれて抽象的な運動だということになろう。つまり、読むことは、「作品」に接することによって作者の思想と「作品」の意味とが自分の内部に欠落していると実感することで始まる、局部的で過渡的な不均衡を解消せんとする試みなのだ。「作品」の意味ではなくそこにこめられた個人的体験の切実さに触れんとする運動も、それと同じ身振りを演ずることになるだろう。いずれにせよ、意味にしても切実な体験にしても、それが「作品」の表層にあからさまに露出していたのでは、読むことの善意を保証するあの程よい困難が失われてしまうと気遣ってか、人はきまって背後に隠されたもの、距離をへだてて隠されたもの、つまりはあからさまな現存ではなくもっともらしい不在と戯れることを好んでうけいれてしまう。いずれにせよ読むことは、思考がそうであったように喪失の体験からはじまり、自分は感知しえないところで起こっているその喪失を回復したところで動きをとめる健康への歩みなのだ。作者の思想がわかった、「作品」の意味が読めたという時点で完成させる過渡的な運動としての読むことと想像される文学的体験が、何ら特殊なものでない点はそれで明らかであろう。そうした視点からすれば、「作品」を読むとは、思考の退屈な日常にほかなるまい。思考がそうであったように、読むこともまた決って勝利するのだ。もちろん、どうしても理解できないという無力感に苛立つこともないではないが、それは過渡的な不快さであるにすぎず、そのことに執着して遂に完璧な頽廃に行きついてしまったものなど誰ひとりいはしない。要するに、「作品」の現存ぶりに心底から脅えるものはないということだ。それは、「作品」を数ある問題の一つにすぎないとして高を括る抽象的な安心が広く行きわたっていて、その現在をたやすく抽象化する仕草が具体性だととり違えられてしまうからである。

作者にそれなりの思想があり、「作品」にそれなりの意味がそなわっているのは当然のはなしだ。だが、思想は作者ではないし、意味もまた「作品」ではない。それは、読者が作者の「生」と「作品」の現在とは、抽象化することではじめて視界に浮上する問題であるにすぎない。それを理解する試みは決して無駄ではあるまいが、そのとき読者が無意識に身を譲りわたすものが、「生」と現在とをことが終れば廃棄しうる二義的な媒介に還元してしまう嘆かわしい頽廃にほかならぬという事実だけは、そうたやすく忘れられてはなるまい。抽象と具体性とをとり違えることの不幸は、不倫という罪を背負って行き続けることの不幸などとは比較にならぬ絶対的な頽廃へと人を導くものなのだ。そしてその絶対的な頽廃とは、「生」の現在をいともたやすく虚構化したように「作品」の現存に脅える資質をおしげもなく放棄させる。そのとき「作品」は、その意味や作家の思想に従属し、あきらかに一人に作家がある目的を持って書いたものでありながらも、思想や意味をはるかに超えた豊かな混沌として存在に迫ってくることをやめてしまう。読者は「作品」が作者に素直に従属すると思い、作者もまたその所属を当然と感じ、みずからの「作品」に脅える資質を放棄する。恐ろしいのは、この両者による脅える資質の均等なる放棄ぶりだ。というのも、作者=読者という対立が偽の葛藤にほかならなかった事実が、そこにあられもなく露呈されてしまうからである。何のことはない、彼らはともに「生」=現在が自分に所属し、思いのなりにそれを操作し統禦しうるものと錯覚しているのだ。恐ろしいことではないか。しかもそう錯覚することの恐ろしさがいとも簡単に忘れられ、真に恐れるにたるものが抽象化されうる環境を、思考の「制度」と呼ぶのである。そして、「制度」化された思考が脅える資質を放棄した対象として、「生」=現在と「作品」との同義語的な関係がひとまず明らかにされたと思う。


上の文は、《だが、その関係はより積極的に明らかにされねばならない。それにはどうするか。》と引き続く。そして《野火という「記号」》という小題が新たに立てられ、大岡昇平の『野火』をめぐって書き継がれてゆくが今は割愛せざるをえない。

この文には、《作者にそれなりの思想があり、「作品」にそれなりの意味がそなわっているのは当然のはなしだ》とある。だが、ひとびとの一般的な読み方、物語やイメージに従属した読み方、あるいは《「作品」は、その意味や作家の思想に従属》したものとする読み方は、《一人に作家がある目的を持って書いたものでありながらも、思想や意味をはるかに超えた豊かな混沌として存在に迫ってくることをやめてしまう》と書かれている。

蓮實重彦の「行間に何も書かれてしません」は、このように読むべきなのだ、つまり行間に何かが書かれているのは当たり前だ、だがそれに囚われると、《そのとき読者が無意識に身を譲りわたすものが、「生」と現在とをことが終れば廃棄しうる二義的な媒介に還元してしまう嘆かわしい頽廃にほかならぬという事実だけは、そうたやすく忘れられてはなるまい》。ーーこのように読まねばならない。


他方、柄谷行人の「作品がつくり出す作家ではなく、作品をつくり出す作家、すなわち作品を書くという過程を通してあらわれる精神の働き」とは、ことによったら次のような読み方でもありうる。


◆《精神科医なら、文書、聞き書きのたぐいを文字通りに読むことは少ない。極端に言えば、「こう書いてあるから多分こうではないだろう」と読むほどである》(中井久夫『治療文化論』)

◆《誰かが何かを言うときには、文章あるいは主張が議論に載せられますが、言っていることに対して主体がとっている位置に注目することもできま す。いいかえれば、彼のメタ-言語学的位置に注意を向けるのです。彼は自分の言っていることをどうみているだろうか?》(ミレール「ラカンの臨床的観点への序論」)

◆《すべての発話はなんらかの内容を伝達するだけでなく、同時に、主体がその内容にどう関わっているかをも伝達する》(ジジェク『ラカンはこう読め』)


「行間にはなにも書かれていません」を真に受けてしまったら、精神分析的な読み方など全く否定されてしまう。いやなにも「精神分析的」でなくてもよい。たとえばテクスト生成研究は、草稿研究により、最終テクストの行間を読むことーー作品を書くという過程を通してあらわれる精神の働きを読む事ーーがその中心的な手法であるといってよいだろう。

テクスト生成の研究者は、もちろん草稿なしには語らない。その点では私たちよりも歴史家に似ているだろう。しかい、厖大な草稿の中で次第にテクストが選ばれてゆく過程を読むと、私には近しさが感じられる。それはそもの書く時に、語る時に、私たちの中に起こっていることだ。患者の中にもおそらく起こっていよう。……(中井久夫「吉田城先生の『失われた時を求めて草稿研究』をめぐって」)

もちろん蓮實重彦だってフローベール研究で似たようなことをやっているに違いない。「行間にはなにも書かれていません」--それはイメージに囚われて作品を鑑賞してはならない、という意味に過ぎない。

いやそれではあまりに単簡すぎるというのなら、《肝腎なのは、生なましく触知しえない現在に苛立つ者たちが、思考すべき切実な課題とやらを文学に導入し、何とか欠如を埋めようと善意の努力を傾けようとする点だ。思考とは、この欠如を充塡すべく演じられる身振りにほかならない、そしてその身振りは、いくつもの解決すべき問題を捏造する。》(『凡庸な芸術家の肖像』p243)

「イメージ」や「物語」、「問題」を捏造して、この生なましい今=現在と触れるのを等閑にしてはならぬ。それが「行間を読むな」ということの意味合いであると、敢えて断言しておこう。


逆に、精神科医が、患者の発話の「行間を読む」だけではないことは瞭然としている。むしろ、上に蓮實重彦が書くように、《思想や意味をはるかに超えた豊かな混沌》や、《「生」=現在》に耳をすますのが、その肝腎な仕事だろう。

精神科医として、私は精神分裂病における言語危機、特に最初期の言語意識の危機に多少立ち会ってきた。それが詩を生み出す生理・心理的状態と同一であるというつもりはないが、多くの共通点がある。人間の脳がとりうる様態は多様ではあるが、ある幅の中に収まり、その幅は予想よりも狭いものであって、それが人間同士の相互理解を可能にしていると思われるが、中でも言語に関与し、言語を用いる意識は、比較的新しく登場しただけあって、自由度はそれほど大きいものではないと私は思う。

言語危機としての両者の共通点は、言語が単なる意味の担い手でなくなっているということである。語の意味ひとつを取り上げてみても、その辺縁的な意味、個人的記憶と結びついた意味、状況を離れては理解しにくい意味、語が喚起する表象の群れとさらにそれらが喚起する意味、ふだんは通用の意味の背後に収まり返っている、そおういったものが雲のように語を取り囲む。

この変化が、語を単なる意味の運搬体でなくする要因であろう。語の物質的側面が尖鋭に意識される。音調が無視できない要素となる。発語における口腔あるいは喉頭の感覚あるいはその記憶あるいはその表象が喚起される。舌が口蓋に触れる感覚、呼気が歯の間から洩れる感覚など主に触覚的な感覚もあれば、舌や喉頭の発声筋の運動感覚もある。

これらは、全体として医学が共通感覚と呼ぶ、星雲のような感覚に統合され、またそこから発散する。音やその組み合わせに結びついた色彩感覚もその中から出てくる。

さらにこのような状態は、意味による連想ばかりでなく、音による連想はもとより、口腔感覚による連想、色彩感覚による連想すら喚起する。その結果、通用の散文的意味だけではまったく理解できない語の連なりが生じうる。精神分裂病患者の発語は、このような観点を併せれば理解の度合いが大きく進むものであって、外国の教科書に「支離滅裂」の例として掲載されているものさえ、相当程度に翻訳が可能であった。しばしば、注釈を多量に必要とするけれども。

このような言語の例外状態は、語の「徴候」的あるいは「余韻」的な面を意識の前面に出し、ついに語は自らの徴候性あるいは余韻性によってほとんど覆われるに至る。実際には、意味の連想的喚起も、表象の連想的喚起も、感覚の連想的喚起も、空間的・同時的ではなく、現在に遅れあるいは先立つものとして現れる。それらの連想が語より遅れて出現することはもとより少なくないが、それだけとするのは余りに言語を図式化したものである。連想はしばしば言語に先行する。

当然、発語というものは、同時には一つの語しかできない。文字言語でも同じである。それは、感覚から意味が一体となった、さだかならぬ雲のようなものから競争に勝ち抜いて、明確な言語意識の座を当面獲得したものである。(中井久夫 「詩の基底にあるもの」『家族の深淵』)



2013年11月1日金曜日

断腸亭日乗 昭和十二年及十六年

昭和十二年丁丑  荷風散人年五十九

二月三日。快晴の天気立春の近きを知らしむ。午後銀座に往き食料品を購ひて帰る。霊南坂を登るに坂上の空地より晩霞の間に富士の山影を望む。余麻布に卜居してより二十年いまだかつて富士を望み得ることを知らざりき。家に至るに名塩君来りカメラ撮影の方法を教へらる。夜八時W生その情婦を携来る。奇事百出。筆にすること能はざるを惜しむ。この日より当分自炊をなす事とす。一昨日下女去りて後新しきものを雇入るるには新聞に募集の広告をなすなど煩累に堪へざるを以てなり。W生帰りて後台処の女中部屋を掃除し、夜具敷きのべて臥す。畳の上に寝るも久振りなれば何ともなく旅に出でたるが如き心地なり。

こう引用したからといって、五十九歳百戦錬磨のはずの荷風にとっての「奇事百出」とはなんぞやなどと推測してみようなどという魂胆はない。もちろん「筆にすること能はざるを惜しむ」とあり、カメラ撮影の方法などとあれば、それなりに気になりはするが。




唐突に現代版「メドゥーサの頭」を挿入したが、当時の荷風にカラヴァッジョの腕前があったはずもなかろう。


It was Schopenhauer who claimed that music brings us into contact with the Ding an sich: it renders directly the drive of the life substance that words can only signify. For that reason, music “seizes” the subject in the Real of his or her being, by‐passing the detour of meaning: in music, we hear what we cannot see, the vibrating life force beneath the flow of Vorstellungen. But what happens when this flux of life substance is itself suspended, discontinued? At this point, an image emerges, an image that stands for absolute death, for death beyond the cycle of death and rebirth, corruption and generation. Far more horrifying than to see with our ears—to hear the vibrating life substance beyond visual representation, this blind spot in the field of the visible—is to hear with our eyes, to see the absolute silence that marks the suspension of life, as in Caravaggio's Testa di Medusa: is not the scream of the Medusa by definition silent, “stuck in the throat,” and does not this painting provide an image of the moment at which the voice fails?(ZIZEK"LESS THAN NOTHING")





ところで敬愛すべき性の巨匠代々木忠にとっても《今まで潮吹きというのは何度か見てきた》程度らしい。そして彼が命名する《真性潮吹》なるものは一度だけのようで、ことさら珍しいもののようだ。この三十年間延べ千人近くの女性を撮って来たと語る代々木氏だが。また、《これまで見てきた経験で言うと、感じやすいのだがイケない子に、実は潮吹きが多いように僕には思える。つまり、女の子たちの言う「潮吹き=イク」ではなく、逆に「イケないからこそ潮を吹く」のではないか》と性の巨匠はおっしゃる……(週刊代々木忠第4回 潮吹きについて考える)

オレニハ一度シカナイ、などと書けば反語的表現にもかかわらず自慢話と受け取られかねないので、知性溢れるきみたちは決してそんなことは語るべきではないゼ…いずれにせよ男と女との関係は厄介なものである…

during the 'flower power' period, the orgasms of both the man and the woman had to take place at the same time if possible, with the result that the post-Masters and Johnson couple eventually turned into a couple where the man was desperately trying not to reach a climax, while, at the same time, the woman was equally desperately trying to reach a climax. It had been complete-ly forgotten that the woman—despite her potential for having multiple orgasms—has a very different attitude to climaxing compared to the man. The male preoccupation with the actual phallus is in stark contrast with the lack of importance attributed to this work of art by the average woman. This was noted by Oscar Wilde, who said that the obligatory honeymoon trip of those times to the Niagara Falls was the bride's second great disappointment. The elliptical formulation he used is perfect because it effort-lessly evokes a truth that is almost inexpressible. (Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE  Paul Verhaeghe)


さてここでの話は台処の女中部屋の畳の上に寝ることである。当時、荷風の住んでいた麻布兵衛町「偏奇館」は西洋風の屋敷で、荷風は寝台で寝ていた。家政婦を募ったり探したりはしてはいるようだが、上の記述より少し前から戦渦で館が焼失するまで女中のいる気配は窺われない(わたくしの老化した記憶と散漫な読み方の範囲内では)。

もっとも昭和十三年にはこんな女中志願もあったようだ。

三月廿二日。細雨烟の如し。この頃名古屋よりしばしば艶書を送来る女あり。現代婦人の心ほど測りがたきはなし。手紙の文言次の如し。

第一信
未来の御主人様
お顔も御存じ申上げていませぬのにお手紙差上げたりして御免なさい。
貴方様はきっと静かないい毎日をお暮らしの事と存じ上げます。でも私は困っているのです、世の中がつまらなくって。ですから私を貴方様のお家へ女中に押込む事を思案しましたの。女中には困らないなどとおっしゃっては嫌でございます。(……)いい話がなかったわけは第一御面相が御面相ですし、私自身母さんみたいに九人も産まされたり育てたりする勇気がございません。保存すべきほどの種でもございますまい。
貴方様はそんな風な女人――ちょっと自分には過ぎた言葉ですがーー大嫌いでしょうか。だと私は困る。どうしても貴方様のお家へ寄せて戴きたいのですから。(……)

貴方様のおっしゃる事を聞いたりまたよく守って朝に夕にお心のそばにいたいと思います。そしてちょっとお仕事の邪魔をして上げたい。こわい顔にいつもお会いしたい。ではまた。光江拝

名古屋市熱田区沢下町十五  岸田光江





冒頭の日記から四年後の記述、独居老人の自炊生活の感慨味わい深し。

昭和十六年辛巳 荷風散人六拾三

正月一日。風なく晴れてあたたかなり。炭もガスも乏しければ湯婆子を抱き寝床の中に一日をおくりぬ。昼は昨夜金兵衛の主人より貰ひたる餅を焼き夕は麺麭と林檎とに飢をしのぐ。思へば四畳半の女中部屋に自炊のくらしをなしてより早くも四年の歳月を過ごしたり。始は物好きにてなせし事なれど去年の秋ごろより軍人政府の専横一層甚しく世の中遂に一変せし今日になりて見れば、むさくるしくまた不便なる自炊の生活その折々の感慨に適応し今はなかなか改めがたきまで嬉しき心地のせらるる事多くなり行けり。時雨ふる夕、古下駄のゆるみし鼻緒切れはせぬかと気遣ひならが崖道づたひ谷町の横町に行き葱醤油など買うて還る折など、何とも言へぬ思のすることあり。哀愁の美感に酔ふことあり。かくのごとき心の自由空想の自由のみはいかに暴悪なる政府の権力とてもこれを束縛すること能はず。人の命のあるかぎり自由は滅びざるなり。


古井由吉が《孤立者は死ぬまで老年になるわけにはいかない》と書いているのはすこし前みた。

昭和五十七年の八月に私は東京駅を出た新幹線の中でたまたま開いた週刊誌のグラビアに、昭和三十四年四月末の荷風終焉の姿を見て吃驚させられた。取り散らした独り暮しの部屋の、万年床らしい上から、スボンをおろしかけた恰好のまま、前のめりに倒れこんで畳に頬を捺しつけていた。ちょうど外食から帰宅したところで、吐血だったという。墜落だ、これは、と私はつぶやいたものだ。八十一歳の老人というよりも、むしろ壮年の死だ。孤立者は死ぬまで老年になるわけにはいかない。いまや文豪の死というよりも、一般市民の覚悟しなくてはならない最後の姿だ、と。(古井由吉『東京物語考』)

…………

蓮實重彦を真似て、変質者・変人だけが傑作をつくり出すことができる、としておこう。

エリック・ロメールまたは優雅な卑猥さの誘惑(蓮實重彦)

・エリック・ロメールの『緑の光線』は「必見の傑作」といった言葉を、恥も外聞もなく使ってみたい誘惑にかられる、驚くべき映画だ
・映画では変質者だけが傑作を撮ることができる
・エリック・ロメールまたは偶然であることの必然

…………

昭和十五年 五月初一

……余が下女を雇はず単独自炊の生活を営み初めしは一昨ゝ年昭和十二年立春の日よりならば満三年をすごせしなり。