このブログを検索

2012年6月6日水曜日

「芸術」「詩」の役割をめぐって(浅田彰、谷川俊太郎)



 吉田秀和は昨年の六月のこう語った追悼をめぐって)。

あの事故をなかったように、朝日(新聞)の読者に向け、気楽に音楽の話をすることなんて、ぼくにはできない。かといって、この現実に立ち向かう力は、ぼくにはもうない。

――もっとも、吉田氏の追悼番組の収録のなかには、こういう言葉もあるらしい。《それでも、いつまでか知らないが、私は書き続けるだろう。 人間は生きている限り、自分の信じ愛するものを力をつくして大切にするほかないのだから。》

 中井久夫は今年の三月にこう語った頭のなかの重し)。
私はどこか日本の学者を信頼して、それが体験の基礎になっていた。官僚も、政界も、はてなと思うことはあっても、終戦の時と同じく、列車が走り、郵便が着くという初歩的なことで基盤にゆえなき信頼感があったのであろうか。私が20余年続けたこのコラムを休むのは、その代わりに考えきれない重しのようなものが頭の中にあるからである。


――こうやって年輩のすぐれた書き手たちの何人かは、絶望感に苛まれて擱筆する。



…………



ところで、浅田彰は今年の入学式式辞でつぎのように語っている(2012年度 京都造形芸術大学 入学式)。



※0.13,30辺りから浅田彰の出番。



ーーー以下は、正確な書き起こしではないことを断っておく。
昨年の事件以来、日本が、近代の物質文明が大きな反省を迫られている、アートが何ができるか、何もできないんじゃないかという絶望を感じた人もいた、だが一年たった今こそアートやデザインの出番なのではないか、(……)事件後、大量生産、大量消費、大量廃棄型の物質文明を今までどおりまたやろうという動きが出てきている、こういう間違った復興ではなくて、こういう大きな事故を反省とした文明全体の組み換えをしようと思えば、これは単に、アートやデザインというものが新しい想像力をもって人々のライフスタイル、あるいは美意識を変えてゆくことが必要だと思う……。


  「間違った復興をしようとする勢力、もとに戻そうとする勢力」、それに抵抗しなければならない。その抵抗の仕方は、アートの方法でなく別の仕方もあるだろうが、ここではそれには触れない。



今は素直に浅田彰の若いアーティストの卵への激励の言葉を聴いておこう、―――「芸術」の大きな役割、それは、文明全体の組み換えをし、新しい想像力をもって人々のライフスタイル、あるいは美意識を変えてゆくこと、と。



ここで谷川俊太郎を思い出しておこう(震災後 詩を信じる、疑う 吉増剛造と谷川俊太郎)。


震災後の世界で、詩がそれほど役に立つとは思っていない。詩は無駄なもの、役立たずの言葉。書き始めた頃から言語を疑い、詩を疑ってきた。震災後、みんなが言葉を求めていると聞いて意外。僕の作品を読んだ人が力づけられたと聞くと、うれしいですが。


詩という言語のエネルギーは素粒子のそれのように微細。政治の力や経済の力と比べようがない。でも、素粒子がなければ、世界は成り立たない。詩を読んで人が心動かされるのは、言葉の持つ微少な力が繊細に働いているから。古典は長い年月をかけ、その微少な力で人間を変えてきた。



初期から谷川俊太郎は「何かどんでもないおとし物」をめぐって歌ったきた。

あの青い空の波の音が聞えるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい
透明な過去の駅で
遺失物係の前に立ったら
僕は余計に悲しくなってしまった

「かなしみ」谷川俊太郎詩集 20億光年の孤独より



――今は、大量生産、大量消費、大量廃棄型の物質文明による「何かとんでもないおとし物」、そこから生じる「かなしみ」と読んでみたい。



……



古井由吉は、震災後の文学にはどんな表現が可能なのだろう、と問われて次のように語っている(長い安泰で浮いてしまった言葉)。

例えば、(津波がきたとき)最後まで避難を呼びかけて命を失った人がいたが、それらはこの国の人のどんな美徳から来ているのか。失われたものを考えるだけでなく、逆に何が失われていなかったのかを考えるのも一つの方法でしょう。

2012年6月5日火曜日

一つの幸福の最初の典型として、永久にはこびさりながら(須賀敦子、プルースト)



文芸別冊の須賀敦子追悼特集(1998)に四方田犬彦の「須賀敦子、文体とその背景」というエッセイがある。

翻訳というものは怖いもので、文体の裏に、訳者がこれまで体験してきた知的遍歴の数々が透けてみえるということがままある。とりわけ詩的言語を相手にしたときにそれは顕著となる。》

また、《文体と語彙の豊かさのみならず、より根源的なところで詩的言語の凝縮性をめぐって、彼なり彼女なりはこれまでのテクストの記憶に、意識的・無意識的に動かされることになる。わたしは須賀敦子に、その典型的な例を見るような気がする。》と、ある。

そうしてダブッキの『ビム港の女』(邦題『島とクジラと女をめぐる断片』)の一節を、まず彼は自ら逐語訳してみて、須賀敦子の文体と比べてみる試みを読者に提示する。
彼女はあんな暮らしのわけなど自分でわかるでしょという感じで笑うと、私にいった。もうちょっと待ってから、いっしょに出ましょ、私を信じてくれなくちゃ、いえるのはそれだけ。それから窓のところで裸になると、月を見て私にいった。誘惑の唄をやってよ、でも声はたてないでね。そこで私が歌を歌ってみせると、抱いてよと頼んできた。それで私は立ったまま、窓のところに凭れかかっている女を抱いたのだが、その間ずっと彼女は何かを待っているかのように夜を眺めているばかりだった。(四方田犬彦 試訳)
須賀訳ではこうだ。
女は笑って、どうしてそんな暮らしをしているのかを話してくれなかった。もうすこし待って。そうしたら、ふたりでどこかに行ってしまいましょう。あたしのことを信じて。これ以上話せないんだから。それから窓ぎわですっぽりはだかになって、月を見ながら、言った。あんたの呼び唄、歌ってよ。でも、そっと、よ。おれが歌ってやると、女はたずねた。あたしのことを愛している? 突っ立ったまま、なにかを待っているみたいに夜を眺めている女を、おれは窓際に押しつけて、抱いた。(須賀敦子訳)

―――《平仮名が多用されているせいで、全体に柔らかい印象がする。「裸になる」は「すっぽりはだかになる」であり、「出る」は「どこかへ行く」となっている。……行動を示す言葉に、原文よりも派手な身振りが添えられていて、原文の持つ素気なさを越えて、強い官能性が伺える》、四方田犬彦はそう指摘する。

《あるいは付けられた句読点の多さ……。須賀敦子の訳文を眺めていると、イタリア語が本来的にもっている単語の凝縮性を簡潔性を、どのように日本語に置き換えていけばよいのかという問いをめぐって、彼女の長らく思索していたことが、ありありとわかる》。

―――この文を読めば「すっぽり」という語に敏感にならざるを得ない。たとえばオノマトペの大家宮沢賢治ならこう使っている、
そのうちにたうたう、一人はバアと音がして肩から胸から腰へかけてすっぽりと斬られて、からだがまっ二つに分れ、バランチャンと床に倒れてしまひました。(『ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記』)
金子光晴ならこうだ、
すこし厚い敷蒲団ぐらいの高さしかないフランスのベッドに、からだすっぽりと埋もれて眠っているわれら同様のエトランジェたちに、僕としては、ただ眠れと言うより他のことばがない。パリは、よい夢をみるところではない。パリよ、眠れ、で、その眠りのなかに丸くなって犬ころのようにまたねむっていれば、それでいいのだ。(「ねむれ巴里」

…………

ところで、このエッセイは冒頭次のように始まる。

わたしが月島で長屋住まいをしていたことのことだが、須賀敦子さんがわが家に突然いらっしゃったことがあった。四〇歳にもなって夏休みにフィレンツェのお料理学校に通うとという酔狂な男のことを、どこかで聞き止められたのだろう。それは感心というわけでお越しになった

韓国料理でもてなすことになるのだが、《とても機嫌がよく、何をこちらが出しても悦んでくださった。ただ天井をドタドタと鼠が走り出したときだけは、あれはチュウチュウ?! といわれ、さすがに驚かれたようだった。》、と。

話はおのずからイタリアのことになる、やがて須賀敦子の口から出たのは、《現在日本のイタリア文学者の誰彼をめぐる呵責ない批判だった。歯に衣を着せないという表現は、まさにこのときの彼女のために表現であるかもしれない。それほどまでに激烈な調子だった》。

―――須賀敦子のエピソードが語られた最も印象的な文のひとつ。

…………

実は上記は失われた時;翻訳比較を読んで思い起こすようにして引用された。こういう試みは有り難い。

A:井上究一郎訳
私は彼女を愛していた、あのとき彼女の感情を害するか、彼女を不快にして、むりにも私のことを彼女に思いださせようとするそんな余裕も妙案もなかったことが残念に思われた。彼女はいかにも美しく見えたので、あともどりして、両肩をそびやかしながら、こういってやればよかったのだ、「なんてきみはみにくくて、グロテスクなんだ、ぞっとするぜ!」そう思いながらも私は遠ざかっていった、――シャベルを手に、ずるそうな、何をあらわそうとしているかわからない視線を、長く私の上に走らせながら笑っていた、皮膚にそばかすがちらばっている、赤茶けた髪の少女の映像を、犯しがたい自然の法則によって、私のような種類の子供には近づくことの不可能な一つの幸福の最初の典型として、永久にはこびさりながら。

B:鈴木道彦訳
私は彼女を愛していた。彼女を侮辱し、いためつけ、こうしてむりやり自分のことを記憶にとどめさせたかったが、それをする時間の余裕もなく、またうまい方法も浮かばないのが残念だった。彼女はとても美しく見えたので、私は引き返して肩をそびやかしながらこう叫んでやりたかった、「なんて醜い、グロテスクな女だろう。きみを見るとぞっとするよ!」しかし私はその場から遠ざかった。赤褐色の髪の毛をしてバラ色のそばかすが皮膚に点々とついていた少女。シャベルを手に持ち、陰険で無表情な視線をずっと私の上に走らせながら笑っていた少女の面影を、背くことのできない自然の法則の名において、私のような子供には近づけない幸福の最初の典型として、永久に胸にたたんで持ち去りながら。


C:高遠弘美
私はジルベルトに恋していた。彼女を侮辱し、痛めつけ、むりやり私のことを記憶に刻みつけさせる余裕も、それにそもそもその発想もなかったことが残念でならなかった。ジルベルトはなんてきれいなんだ。そう感じていただけに、すぐに取って返し、肩をすくめて大きな声で、どれだけ叫びたいと思ったことだろうか。「なんてあなたは不細工なんでしょうね。笑ってしまいますよ。まったく厭になるほどです!」。しかし、実際は私はその場所から離れて行った。犯しがたい自然界の掟によって私ごとき子どもには近づくことが許されぬ幸福の最初の現れとして、薔薇色の雀斑をあちこちにこしらえた赤みがかったブロンドの少女、スコップをもち、笑いながら、陰険で何を訴えているかわからない眼差しを長い間私に注いでいた少女の面影を永遠に胸にしまいながら。


D:吉川一義
私はジルベルトを愛しており、相手を侮辱し、辛い想いをさせ、無理やり私のことを覚えているように仕向ける暇も発想もなかったことが悔やまれた。なんてきれいな娘だと思ったからこそ、できることなら引き返して肩をそびやかし、「なんて不細工で、滑稽な女だ。お前にはぞっとする」と叫んでやりたい気持ちだった。こうして遠ざかりながら私が永遠に心に刻みつけたのは、背けない自然の掟から私のような子供には近づけない幸福の原型として、赤毛で、バラ色のそばかすの肌をした少女が、スコップを手に笑いながら、陰険な表情のないまなざしで私をじっと見つめているイメージである。


大著のわずかの部分の比較だけで、好悪のコメントを付すつもりはない、ただ井上究一郎訳にながく、そして鈴木道彦訳にすこし親しんできたものにとって、ある種の感慨は抱く(もちろん後二者の最近の翻訳は、プルースト草稿研究などの成果による要請もあったのだろうし、かつて鈴木道彦氏は井上究一郎訳のいくつかの誤訳を指摘していたことも思い出される)。

つまりは、《翻訳というものは怖いもので、文体の裏に、訳者がこれまで体験してきた知的遍歴の数々が透けてみえる》とは、この短い個所の比較だけにしろ感じることはある。

…………

堀辰雄がプルーストのアスパラガスの描写を語る部分を抜き出しておこう。
……御覽のとほり、アスパラガスの描寫は唯二箇のセンテンスで了つてゐまして、それは豌豆のことを書いた比較的に短いセンテンスに先立たれてゐます。いきなりアスパラガスの描寫を始めずに、先づ田舍家の臺所に這入りこんだ少年の「私」が、テエブルの上に轉がつてゐる豌豆を見ようと思つて立ち止りながら、それからふとその傍にあつたアスパラガスに目を止め、思はずそれにうつとりと見入る風に運ばれてゐます。さういふ不意打ちによつて、その少年のみならず、読者にもそのアスパラガスの美しさを一層生き生きと感じさせる。――かう云ふところにも、プルウストの常套的な手法の一つがあります。……で、そのアスパラガスを描かんとするや、先づその全體の色調を述べます。それから、徐々にその穗先の細かなニュアンスに移つて行きます。と同時に、その獨得なニュアンスが一齊に喚び起すさまざまな記憶(曙の色合、虹の色合、夕暮れの色合)、そしてその一方では又、それを食べた晩のシェクスピアの夢幻劇のやうな記憶(匂ひの)までが其處に展開されてゐる。――かういふ工合に、プルウストは、一瞬間の感覺の喚び超すあらゆるものを殘らず、手荒いくらゐに、一つのセンテンスの中に一緒くたに縛りつけてしまひます。(プルウストの文體について』



ひとつの幸福をただ一回の息吹きによって(ヴェーベルン=シェーンベルク)



2012年6月3日日曜日

追悼をめぐって


あの事故をなかったように、朝日(新聞)の読者に向け、気楽に音楽の話をすることなんて、ぼくにはできない。かといって、この現実に立ち向かう力は、ぼくにはもうない。

――これが最後の寄稿となっているが(昨年の6月)詳しいことは分らない。

吉田秀和逝く、そして最後に残した言葉より)


合掌

…………

直木三十五氏が逝くなって、新聞雑誌に、氏の生前の思い出や逸話の類が充満した。氏の人間的魅力のしからしむる処だろう。氏が大変魅力ある人物であったという世の定評を僕も信じているが、ああいう類の文章をいくつも読んでいると、お葬式の延長みた様な気がして来て、なんとなく愉快でない。なんだい、これでは直木という男、まるで人間的魅力を広告する為に刻苦精励して来た様にみえるじゃないか、そういう臍の曲がった感さえ覚える。逝くなって作品の他なんにも残っていない今こそ、直木氏の真価が問われはじめる時であり、作家は仕事の他、結局救われる道はないものだ、という動かし難い事実に想いをいたすべき時だ。ときっぱり言いたいが、こういう微妙な問題にはいろいろと疑いが湧き上がって来ていけない。(小林秀雄「林房雄の「青年」」『作家の顔』所収)

少し前上記の小林文を使って蓮實重彦の文体模写練習をしてそのままうっちゃっておいた文を今この機会に若干の手直してをして掲載し自らの恥としよう。

いまさら語るべき人が語っていないなどと嘆いてみせるほど新聞社の弔文執筆者の選別眼にあらぬ期待を寄せていたわけでもないし、そもそも語るべき心ある人物は追悼の合唱隊に加わらないように依頼を固辞するのが最低限の礼儀と心得ているのかもしれず、他にいつでもすげ替えのできる便利な人材として選ばれた故人とは何一つ貴重な過去を共有したこともないらしいどこかの文学者だか評論家だかの類がここぞとばかりに自らの内的感性の鋭敏さを誇示するかの如き意気込みで思い出話に耽りかえって、逆にその鋭敏さの確信こそが自らの凡庸さの叙事詩をかたちづくっていることに不感症であるという二重の凡庸さに犯された弔文に呆れかえるほどウブでもないつもりだが、そこではあいかわらず故人にふさわしく弔辞が綴られるのでなくただひたすら読者の期待にふさわしい思い出や逸話の類を充満させたもっぱら大衆の趣味に阿るばかりの文が綴られており、しかもそのメロドラマを読んで感激してしまったらしい輩、生前の彼の文章をほんの一行さえまともに受けとめたことのなさそうな連中までが、ただ名前を知っているということのみでかけがえのない喪失などと声高にさけびつつ大合唱をくり拡げのを眺めていると慇懃無礼なお葬式の延長のような気がしてきて毎度のことながらあまり愉快でないのはたしかだ。まあこういった感慨を抱くのを臍曲がりというわけであるが、逝くなって作品の他はなんにも残っていない今こそ彼の真価が問われるときだなどと紋切型を呟いてみせるつもりもなく、あれはひたすら大往生なのであって長いあいだ有難うございましたといっておけば済むことだ。それにもかかわらずあたかもマルセル・プルーストの小説の主人公の親友サン・ルー侯爵が部下の退却を掩護していた最中に戦死した、その知らせをうけた主人公の傍らの家政婦フランソワーズが「お鼻がまっ二つに割れて、お顔がまるつぶれだったそうでございますからねえ」と大袈裟に嘆きながら目に涙でいっぱいにして「その涙を通して、百姓女の残酷な好奇心」をのぞかせる態様を模倣するかの如き囀りがそこら辺りに氾濫しているのを目の当たりにすると相も変わらず溜息が出てしまう。もちろんその嘆息をこうやって批判的に書き綴ろうとする当書き手の魂胆には彼らを嘲笑してみせることで自分の立場を相対的に高めようとする彼らと似たような凡庸な精神が作用しているのに違いなく、要するにほとんどそっくり彼らの精神と共鳴しているらしき自らの凡庸さが改めて痛ましく思われる。

…………

ところで昨年10月号の「水牛だより」に高橋悠治のこんな文が掲載されていたのを思い出す。いま冒頭だけ貼り付けておこう。

ひさしぶりに鎌倉の吉田秀和さんを訪ねて、自伝を書かないのかと訊かれた。いまは日本の外で日本の音楽家たちについて知りたい人たちも 出てきた、日本語を読める研究者たちもいる。でも武満のほかにあまり資料がない。そうかもしれない。これから書こうとしているのは、でも そのためではない。 いままでは個人的なことを書かないようにしてきた。記録もとっておかなかった。いま薄れていく記憶が失われないうちに、いくつか書き留 めておいてもいいかもしれない、音楽について語り合った人たちのことを、いまはもうない場所のことを。そこであったことと、いま思い出される姿のあいだには、時間が「反省」の薄膜をかけている。くりかえし書いたこともある。それでも思い出すたびに、ちがうかたちで現れる。( だれ、どこ  高橋悠治 


2012年4月27日金曜日


4月から5月(当地では一番暑い時節だ)、毎年といっていいほど体調を崩す。今年もだ。直接の原因はおとといの午後の停電。あとできくと電信柱に雷が落ちたらしい。天上扇もエアコンもなしで仕方なく二階の書斎の床にバスタオルをひいて寝転がっていたのだが、運悪く風がまったくない午後で、多量の発汗、厚手のタオルの下の床板もびっしょり。背中形に白く滲んだ楕円型の汗痕、その拡がりが残るのではないかと思ったほどだが二日経ってなんとか消えた。でもこっちの体調不良は消えていなくて頭も軀も気だるく何もする気がない気分が続く。

ということで本を読むわけでもなし日記を書いてみようと思ったが、まあこの程度しか書けない。

2012年3月2日金曜日

ひとつの幸福をただ一回の息吹きによって(ヴェーベルン)、あるいは断章の美学



 比較的若い演奏家たちによるヴェーベルンの初期の作品を聴いた。




あまりの豊潤なリリシズム! 書庫から吉田秀和を取り出してみる。

彼の音楽は、精神的なものと同じくらい、抒情的なものを根元としている。それが、ヴェーベルンの成熟後の作品そのものから汲みとれることはいうまでもないのだが、(……)彼の極めて若いころの作品――ほぼ一九〇五年ごろまでのーー(……)、そこには、まるでブラームスの手になったものか、マーラーの心から歌われてきたものかと思いかねないほどの濃厚な情緒を背負わされた旋律美と抒情精神のあることが見出される。(吉田秀和『私の好きな曲』より)

上にあげた作品は1905年のもの。

しかし、彼がシェーンベルクの門下に入って以後の作品では、抒情精神は依然根幹にあっても、ロマンティックな現われ方は姿を消す。同時に、音楽を豊麗に求めるゆき方も、みられなくなる。 ヴェーベルンの音楽は、厳しさを加え、凝縮性、集約性の点で、前例をみないところまでゆく。表現の濃度はますが、演繹によってではなく、無駄をきりつめ、一言をもって多くを語ることを通じて、そうなるのである。当然、それに応じて、作品も極度に短くなる。  この点では、師のシェーンベルクは、わずかだが、先鞭をつけていた。しかしヴェーベルンは、作品五ですでに追いつき、作品六の管弦楽のための《六つの小曲》、それから作品九の弦楽四重奏のための《六つのバカテル》などを通じて、先にゆく。




シェーンベルクは、さすがに、これを即座に見ぬいた。作品九のスコアが出版された時、それにつけたシェーンベルクの序文は、この間の消息を、記念碑的な的確さで、言いあてている。『これらの小曲の短かさが、すでに彼らの弁疏として充分に説得的なのだが、反面、この短さがかかる弁護を必要としてもいる。 かくも簡潔に自己表現するためには、どれほどの抑制が必要かを考えてみたまえ。ひとつひとつの眼差しが一篇の詩として、ひとつひとつの溜息が一篇の小説〔ロマン〕としてくりひろげられるにたりるのである。一篇の小説をただひとつの身振りによって、ひとつの幸福をただ一回の息吹きによって表わす。かかる凝集は、それにふさわしい自己憐憫(ぐちっぽさ)をたちきったところにしか、見出されない。 これらの小曲は、音によっては、ただ音を通じてのみ言い表わしうるものんだけが表現できるのだという信念を保持しているひとだけが理解できるのである……』





◆ロラン・バルト『彼自身によるバルト』から。

断章は(俳句と同様に)《頓理》である。それは無媒介的な享楽を内含する。言述の幻想、欲望の裂け目である。文としての思考、という形をとって、断章の胚種は、場所を選ばず、あなたの念頭に現れる。それはキャフェでかもしれず、列車の中かもしれず、友だちとしゃべっているときかもしれない(それは、その友だちが話していることがらの側面から突然出現するのだ)。そういうときには、手帳を取り出す。が、その場合書きとめようとしているものは、ある一個の「思考」ではなく、何やら刻印のようなもの、昔だったら一行の「詩句」と呼んだであろうようなものである。 何だって? それでは、いくつもの断章を順に配列するときも、そこには組織化がまったくありえないとでも? いや、そうではない、断章とは、音楽でいう連環形式のような考えかたによるものなのだ(『やさしき歌』、『詩人の恋』)。個々の小品は、それだけで充足したものでありながら、しかも、隣接する小品群を連結するものでしかない。作品はテクストの外にしか成立しない。断章の美学を(ウェーベルン以前に)もっともよく理解し実践した人、それはだぶんシューマンである。彼は断片を「間奏曲」と呼んでいた。彼は自分の作品の中に、間奏曲の数をふやした。彼がつくり出したすべては、けっきょく、《挿入された》ものであった。しかし、何と何の間に挿入されていたと言えばいいのか。頻繁にくりかえされる中断の系列以外の何ものでもないもの、それはいったい何を意味しているのか。  断章にもその理想がある。それは高度の濃縮性だ。ただし、(“マクシム〔箴言、格言〕”の場合のように)思想や、知恵や、真理のではなく、音楽の濃縮性である。すなわち、「展開」に対して、「主調」が、つまり、分節され歌われる何か、一種の語法が、対立していることになるだろう。そこでは《音色》が支配するはずである。ウェーベルンの《小品》群。終止形はない。至上の権威をもって彼は《突然切り上げる》のだ!