2014年6月30日月曜日

「強い視差 parallax」、あるいは「超越論的」

前投稿にて、柄谷行人の『探求Ⅱ』からつぎの文を引用した。

他の人間が夢をみているだけだから眼ざめさせねばならぬと考える者、つまり自らを”超越的”な立場にあるとみなす者こそ、夢をみているだけなのだ。デカルトは、そのような人々の間にまじって「真理」を説くことを回避したが、というのも、彼の懐疑は、どのような共同体(システム)にを属さない空=間においてしか根拠がなかったからである。それは、さまざまな真理を幻想とみなすメタレベルではありえない。

夢のなかで夢をみていることを自覚しても、なおひとが夢をみていることには変わりない。デカルトは、ひとが完全にめざめる(夢の外部に出る)ことができるなどとは考えない。つまり、彼は超越的立場を斥ける。彼の方法は、カントやフッサールの用語でいえば、超越論的なのである。超越論的な方法によってしか、幻想を幻想とみなす、逆にいえば真理を基礎づけることはできない。が、超越論的とは、上方や下方に向かうことではない。それはいわば横に出ることだ。(柄谷行人『探求Ⅱ』P90)

《他の人間が夢をみているだけだから眼ざめさせねばならぬと考える者、つまり自らを超越的な立場にあるとみなす者こそ、夢をみているだけなのだ》とあるが、これはわれわれは日夜やっている(たとえばインターネット上で)のであり、かなりの割合の言説は「メタレベル=超越的」であるということになる。では上のように書いている柄谷行人の言説はどうか。ここだけ読めば、やはり「超越的」のようにみえてしまうのではないか。それについても前投稿(「超越的/超越論的」と「イロニー/ユーモア」)に叙した。

さて柄谷行人の立場とは次のようであった。

思想は実生活を越えた何かであるという考えは、合理論である。思想は実生活に由来するという考えは、経験論である。その場合、カントは、 合理論がドミナントであるとき経験論からそれを批判し、経験論がドミナントであるとき合理論からそれを批判した。つまり、彼は合理論と経験論というアンチノミーを揚棄する第三の立場に立ったのではない。もしそうすれば、カントではなく、ヘーゲルになってしまうだろう。 この意味で、カントの批判は機敏なフットワークに存するのである。ゆえに、私はこれをトランスクリティークと呼ぶ。(柄谷行人「丸山真男とアソシエーショニズム (2006)」ーー
象牙の塔(メタレベル)不在の「美しい日本の私」

柄谷行人は、冒頭の文にかんしても、日本的環境、《経験論がドミナントである》環境において、《合理論からそれを批判した》ということになるのだろうか。

ここで柄谷行人が好んで引用するデカルトの『方法序説』のなかから代表的な一文のひとつを抜粋してみよう。

私は、すでに学校時代に、どんな奇妙で信じがたいことでも哲学者の誰かが既に言っているものだ、ということを知った。またその後旅に出て、 我々の考えとは全く反対の考えを持つ人々も、だからといって、みな野蛮で粗野なのではなく、それらの人々の多くは、我々と同じくらいにあるいは我々以上 に、理性を用いているのだ、ということを認めた。

そして同じ精神を持つ同じ人間が、幼時からフランス人またはドイツ人の間で育てられるとき、仮にずっとシナ人や人食い人種の間で生活してきた場合 とは、いかに異なったものになるかを考え、また我々の着物の流行においてさえ、十年前には我々の気に入り、また十年経たぬうちにもう一度我々の気に入ると 思われる同じものが、今は奇妙だ滑稽だと思われることを考えた。

そして結局のところ、我々に確信を与えているものは、確かな認識であるよりもむしろはるかにより多く習慣であり先例であること、しかもそれにもか かわらず少し発見しにくい真理については、それらの発見者が一国民の全体であるよりもただ一人の人であることの方がはるかに真実らしく思われるのだから、 そういう真理にとっては賛成者の数の多いことは何ら有効な証明ではないのだ、ということを知った。

こういう次第で私は、他を置いてこの人の意見をこそ取るべきだと思われる人を選ぶことができず、自分で自分を導くということを、いわば強いられたのである。(デカルト『方法序説』)

ジジェクはこのデカルトの一文を『パララックス・ヴュー』の冒頭近くでそのまま引用している。

I had been taught, even in my College days, that there is nothing imaginable so strange or so little credible that it has not been maintained by one philosopher or other, and I further recognized in the course of my travels that all those whose sentiments are very contrary to ours are yet not necessarily barbarians or savages, but may be possessed of reason in as great or even a greater degree than ourselves. I also considered how very different the self-same man, identical in mind and spirit, may become, according as he is brought up from childhood amongst the French or Germans,or has passed his whole life amongst Chinese or cannibals. I likewise noticed how even in the fashions of one's clothing the same thing that pleased us ten years ago, and which will perhaps please us once again before ten years are passed,seems at the present time extravagant and ridicu-lous. I thus concluded that it is much more custom and example that persuade us than any certain knowledge, and yet in spite of this the voice of the majority does not afford a proof of any value in truths a little difficult to discover, because such truths are much more likely to have been discovered by one man than by a nation. I could not, however, put my finger on a single person whose opinions seemed preferable to those of others, and I found that I was, so to speak, constrained myself to undertake the direction of my procedure.

『パララックス・ヴュー』の前半は、柄谷行人の『トランスクリティーク』の吟味のような箇所が多い。そもそも『パララックス・ヴュー』という題名は、柄谷行人がこの書で記述する「強い視差 parallax」から借りたものであるから当然といえば当然であるが。

『視霊者の夢』から『純粋理性批判』への移行はこのように明白である。にもかかわらず、後者を読みためには、前者を参照しなければならない。カントの独特の「反省」の仕方が『視霊者の夢』にあらわれているからだ。《以前に私は一般的人間悟性を単に私の悟性の立場から考察した、今私は自分を自分のでない外的な理性の位置において、自分の判断をその最もいそかなる動機もろとも、他人の視点から考察する。両方の考察の比較はたしかに強い視差を生じはするが、それは光学的欺瞞を避けて、諸概念を、それらが人間性の認識能力に関して立っている真の位置におくための、唯一の手段でもある》(『視霊者の夢』)。ここでカントがいっているのは、自分の視点から見るだけでなく、「他人の視点」からも見よ、ということではない。そのようなことならありふれている。なぜなら、「反省」とは他人の視点で自分を見ることであり、哲学の歴史はそのような反省の歴史なのだから。しかし、ここでカントがいう「他人の視点」はそのようなものではない。それは「強い視差 parallax」においてしかあらわれない。(『トランスクリティーク』P77-78)
ハイデガーは、カントの超越論的( transcendental)な批判を、深みに向かう垂直的な方向において理解する。しかし、それは同時に、いわば横断的( tramsversal)な方向において見られねばならない。そして、私はそれを〈 transcritique〉と呼ぶのである。 P150

柄谷行人にとっては「トランスクリティーク」とは、すなわち「超越論的批評」を意味する。

ジジェクは、『パララックス・ヴュー』にて、上記の柄谷行人の文の一部を引用して次のようなコメントをつけている。

Kant's stance is thus “to see things neither from his own viewpoint, nor from the viewpoint of others, but to face the reality that is exposed through difference (parallax).” (Is this not Karatani's way of asserting the Lacanian Real as a pure antagonism, as an impossible difference which precedes its terms?)

ところで、ジジェクは上に掲げたデカルトの『方法序説』の文の引用のあと、このデカルト文の柄谷行人解釈をめぐって次のように記している。

Thus Karatani is justified in emphasizing the insubstantial character of the cogito: “It cannot be spoken of positively; no sooner than it is, its function is lost.” The cogito is not a substantial entity but a pure structural function, an empty place (Lacan's $)— as such,it can emerge only in the interstices of substantial communal systems. The link between the emergence of the cogito and the disintegration and loss of substantial communal identities is therefore inherent, and this holds even more for Spinoza than for Descartes: although Spinoza criticized the Cartesian cogito, he criticized it as a positive ontological entity—but he implicitly fully endorsed it as the “position of the enunciated,” the one which speaks from radical self-doubting, since, even more than Descartes, Spinoza spoke from the interstices of the social space(s), neither a Jew nor a Christian.(ZIZEK” The Parallax View”)

ここに”an empty place (Lacan's $)”という表現があることに注目しておこう。すなわちデカルトのコギトは、ラカンの斜線を引かれた主体のことである、というジジェクの見解である。ところで柄谷行人の『トランスクリティーク』には次のような文がある。

デカルトは、「思う」をあらゆる行為の基底に見出す。《それでは私は何であるのか。思惟するものである。思惟するものとは何か。むろん、疑い、理解し、肯定し、否定し、欲し、欲しない、また想像し、そして感覚するものである》(『省察』)。このような思考主体は、カントによれば、「思考作用の超越論的主観すなわち統覚X」である。私はこのような言い方を好まないが、カントのいう「超越論的主観X」とは、いわば「超越論的主観〔「主観」に×印を上書きする〕」である。それはけっして表象されない統覚であって、それが「在る」というデカルトの考えは誤謬である。しかし、デカルトのコギトには、「私は疑う」と「私は思う」という両義性がつきまとっており、しかもそれらは超越論的自我について語るかぎり避け難いものである。(『トランスクリティーク』p132)


さて、次に『トランスクリティーク』より、カントに「超越論的な態度」が生じた経緯が書かれる箇所をあげる。

『視霊者の夢』に書かれているのは、端的にいえば、それまでライプニッツ・ヴォルフの合理論的哲学に立っていたカントが自身いうように、ヒュームの経験論的な懐疑を受けいれざるをえず、なお、それにも満足しえなかった状態である。それから『純粋理性批判』にいたるまで、彼は十年ほど社交界からもジャーナリズムからも離れて沈黙した。カントが「超越論的」と呼ぶ態度は、その間に生じたのである。『純粋理性批判』は、主観的な内省とは異質であるだけでなく、「客観的な」考察とも異質である。超越論的な反省は、あくまで自己吟味であるが、同時に、そこに「他人の視点」がはいっている。逆にいえば、それはインパーソナル(非人称的)な考察であるにもかかわらず、徹頭徹尾、自己吟味なのだ。

人々は、この超越論的態度をたんなる方法として受けとめてしまう。そして、カントが見いだした無意識の構造を、まるで所与のもののように論じる。だが、超越論的な態度は「強い視差」なしにありえなかった。カントの方法は主観的であり、独我論的であると非難される。しかし、それはつねに「他人の視点」につきまとわれているのだ。『純粋理性批判』は『視霊者の夢』のように自己批評的に書かれていない。しかし、「強い視差」は消えてはいない。それはアンチノミー(二律背反)というかたちであらわれたのである。それは、テーゼとアンチテーゼのいずれもが「光学的欺瞞」にすぎないことを露出するものだ。しかし、それはたんに論理的な記述として受けとられてしまう。

『純粋理性批判』を出版した後、カントは、同書における記述の順序に関して、現象と物自体という区分について語るのは、弁証論におけるアンチノミーについて書いてからにすべきだったと述べている。実際、現象と物自体の区別から始めたことは、彼のいわんとすることを、現象と本質、表層と深層というような、伝統的な思考の枠組みに引き戻す結果を招いてしまった。カント以後に物自体を否定した者は、そのようなレベルで考えているのである。また、ハイデガーのように物自体を擁護した者はそれを存在論的な「深層」として見いだしている。しかし、物自体はアンチノミーにおいて見い出されるものであって、そこに何ら神秘的な意味合いはない。それは自分の顔のようなものだ。それは疑いもなく存在するが、どうしても像(現象)としてしか見ることができないのである。したがって重要なのは、「強い視差」としてのアンチノミーである。それのみが像(現象)でない何かがあることを開示するのだ。カントがアンチノミーを提示するのは、必ずしもそう明示したところだけではない。たとえば、彼はデカルトのように「同一的自己」と考えることを、「純粋理性の誤謬真理」と呼んでいる。しかし、実際には、デカルトの「同一的自己はある」というテーゼと、ヒュームの「同一的自己はない」というアンチテーゼがアンチノミーをなすのであり、カントはその解決として「超越論的主観X」をもちだしたのである。(『トランスクリティーク』P80-81)


ジジェクは柄谷行人の見解に同調するように、次のように書いている。

Far from designating a “synthesis” of the two dimensions, the Kantian “transcendental” stands, rather, for their irreducible gap “as such”: the “transcendental” points to something in this gap, a new dimension which cannot be reduced to either of the two positive terms between which the gap is gaping. And Kant does the same with regard to the antinomy between the Cartesian cogito as res cogitans, the “thinking substance,” a self-identical positive entity, and Hume’s dissolution of the subject in the multitude of fleeting impressions: against both positions, he asserts the subject of transcendental apperception which, while displaying a self-reflective unity irreducible to the empirical multitude, nonetheless lacks any substantial positive being—that is to say, it is in no way a res cogitans.(ZIZEK” The Parallax View”)

しかし、この後、柄谷行人の「超越論的仮象ranscendental illusion」の解釈に異議をとなえる。

Here, however,we should be more precise than Karatani, who directly identifies the transcendental subject with transcendental illusion:

yes, an ego is just an illusion, but functioning there is the transcendental apperception X. But what one knows as metaphysics is that which considers the X as something substantial.Nevertheless, one cannot really escape from the drive [Trieb] to take it as an empirical substance in various contexts. If so, it is possible to say that an ego is just an illusion, but a transcendental illusion.(KARATANI)

※柄谷行人原文
(カントはそれに対して、)自己は仮象であるが、超越論的統覚Xがあるといった。このXを何らかの実体にしてしまうのが、形而上学である。とはいえ、われわれは、そのようなXを経験的な実体としてとらえようとする欲動から逃れることはできない。したがって、自己とは、たんなる仮象ではなく、超越論的な仮象である。(『トランククリティーク』)

The precise status of the transcendental subject, however, is not that of what Kant calls a transcendental illusion or what Marx calls the objectively necessary form of thought. First, the transcendental I, its pure apperception, is a purely formal function which is neither noumenal nor phenomenal—it is empty, no phenomenal intuition corresponds to it, since, if it were to appear to itself, its self-appearance would be the “thing itself,” that is, the direct self-transparency of a noumenon. The parallel between the void of the transcendental subject ($) and the void of the transcendental object, the inaccessible X that causes our perceptions, is misleading here: the transcendental object is the void beyond phenomenal appearances, while the transcendental subject already appears as a void.(ZIZEK” The Parallax View”)

このあたりは、両者のカント解釈の相違、そしてジジェクのヘーゲル(あるいはラカン)への傾斜にかかわるのだろうが、おそらくそれだけではない(というか、わたくしにはいまだ判然としない)。たとえばジジェクはこの『パララックス・ヴュー』の後に書かれたもうひとつの主著『LESS THAN NOTHING』で自己とはフェティッシュな仮象(イリュージョン)と書いている。

《the Self is the fetishized illusion of a substantial core of subjectivity where, in reality, there is nothing.(ZIZEK"LESS THAN NOTHING")》

私がカントのパララックス的把握を重視したのは、それによってヘーゲルによる弁証法的総合を批判するためであった。しかし、ジジェクは、ヘーゲルにおける総合(具体的普遍)にこそ、真にパララックス的な見方がある、したがって、私のヘーゲル観は的外れだ、というのである。それに対して、私は特に、反対しない。私のカントが通常のカントと異なるのと同様に、ジジェクのヘーゲルも通常のヘーゲルではないからだ。(パララックス・ヴュー 書評

ジジェクが同調する柄谷行人の《デカルトの「同一的自己はある」というテーゼと、ヒュームの「同一的自己はない」というアンチテーゼがアンチノミーをなすのであり、カントはその解決として「超越論的主観X」をもちだした》も、いまでは別の観点(たとえば新たなヒューム解釈)があるのだろう。

柄谷行人は『トランスクリティーク』の註44で、次のように書いている。

……彼(ドゥルーズ)は、ヒュームやベルクソンを一方で称えながら、他方で、スピノザ、さらにライプニッツをも称えている。つまり、そのいずれをも肯定することによって、それらを暗に批判しているのである。その意味で、彼がやっているのは、カント=マルクス的なトランスクリティークであるといってよい。実際、彼は『ニーチェと哲学』において、ニーチェの仕事をカントの三批判の続編と見なし、『アンチ・オイディプス』において、マルクスやフロイトの仕事を「超越論的批判」と見なしている。しかし、一般に、ドゥルーズは、美学的なアナーキストたちの愛玩物となっている。彼らは、ドゥルーズが死ぬ二年前のインタビューで「私は完全にマルクス主義者だ」と語ってことなど、まったく無視している。そしてドゥルージアンの多くは、ベルクソニズムにまで退行してしまう。

2001年に行われた共同討議『トラウマと解離』(斉藤環・中井久夫・浅田彰)における浅田彰の発言は、あきらかに『トランスクリティーク』の変奏である。

メディア環境がどんどん解離的な状況を作り出す方向に向かっているのは、よく言われるとおりで、かなりの程度まで事実だろうと思います。メディアに接続することで、ここにいる自分とメディア空間の中の自分が多数多様なペルソナーー場合によっては性を年齢も異なったーーを演じ分けることができる、云々。

また逆に、そこから人間自身の捉え方も変わってくるんですね。統一性のもった心身で手ごたえのある世界を体験する、それこそがリアリティだと言うけれど、哲学的に反省してみれば、実はそれもヴァーチュアル・リアリティのひとつに過ぎない、と。

そもそも、人工知能のパイオニアのミンスキーが『心の社会』という表現を使っているように、心というのは多数のモジュールないしエージェントが統一的なプログラムなしに並列して走っているようなもので、その中には意識としてドミナントになるものもあるけれど、それとは別のリズムで意識には上らないまま動いているものもある、その総体が心なんだ、と。(……)人口知能で複数のモジュールを並列的に走らせる実験から逆に類推して、人間だって同じようなものだと考えるわけです。

こうした流れが、フロイトからジャネへの退行にもつながるわけでしょうし、柄谷行人流に言えばカントからヒュームへの退行につながるわけでしょう。ヒュームは、自己というのは多数の知覚の束だ、いわば蚊柱のようなものだ、と考えている。自己の一貫性と言ったって、選挙で内閣が替わっても外国との約束は引き継ぐという程度のものだ、と。ヒュームによるそういう徹底的な解体の後に、カントが、超越論的統覚Xという、いわばどこにもないものを持ってきて、新たな統合を図るわけですね。(……)

まあ、ヒュームからプラグマティズムに至るアングロ=サクソン的な伝統が再び優位になっているということでしょう。およそ、ファウンデーショナリズム(基礎付け主義)というのは、いわば神学の世俗化に過ぎず、有害でしかない。そのようなファウンデーションを自己言及的なパラドクスに追い込んで脱構築するなどと言っても、いわば否定神学的な観念の遊戯を出ない。そもそも、ファウンデーションなしに、複数の独立したゲームを並列的にプレイしてみて、それぞれがそこそこうまくいけばいいではないか、と。そういうローティ流のプラグマティズムが、いまもっとも支配的な哲学――というか反哲学でしょう。それが人工知能論などから見た「心の社会」論などともフィットするわけですね。

しかし、多少とも哲学的な立場からすると、それですべてが片付くとはとても思えません。もちろん、いまさら超越論的なものを天下り式に持ってくることはできない。けれども、カントの言った超越論的統覚だって、予定調和的に与えられているのではなく、あくまでXとしてあるわけですからね。あるいは、時代は下るけれど、ジャネが水平の解離を強調したのに対して、フロイトは強引に垂直も抑圧によって無意識まで含めた統合を図ろうとし、ラカンはそれをされに徹底して体系化しようとした、それを思弁的に過ぎると言って批判するのは簡単だけれど、逆にそれなしではものすごく単純な経験論とプラグマティズムに戻ってしまうという危惧があるわけです。

現在、「超越論的」な態度が論じられるとき、このあたりを視野においていないようにみえる言説にめぐりあうことがあるのだがーーたとえば極めつけは、カントの態度を「超越論的主体」(フッサール的な「超越論的自我」? といえばフッサールにも失礼に当たる:【参照】「人間的主観性のパラドックス」覚書)などとだけし、しかもそれを「自分語り」だなどと決めつけるだけの、《解釈さえ放棄する無邪気な「無神論者」》、そのファストフード的消費者風の驚くべき寝言(超越論的「主体」と超越論的「領野」の言葉だけに捉われているとしか思えない)ーー、どの見解をとるにしろ、これら柄谷行人やジジェクの観点をやりすごして(おそらくほかにも種々の見解があるのだろうが)、素朴に語るのは、いささか厚顔無恥という気味があるのではないか。上にも書いたが、柄谷行人の『トランスクリティーク』は「超越論的批評」を意味する書名なのであり、またジジェクの『パララックス・ヴュー』とは「超越論的見方」を意味する書名なのだから(そして彼らが二十世紀後半から今世紀かけてカントの「超越論的」のまわりをめぐって考えている「代表的な」思想家の二人であるはずであるから)。

もちろん、先行研究うんぬんで既存の記憶に押しつぶされるより、ちょっとは蛮勇を奮ったほうがいい。でも、逆に言えば、蛮勇は過去の蓄積を突き破るように生まれるわけですよ。哲学の理論体系はだいたいヘーゲルで完成されており、それと現実とのずれの中でヘーゲル的な円環を突き破るようにしてマルクスの意味での批判=批評というのが始まり、我々もその前提の上でやってきた。(浅田彰

上に「驚くべき寝言」としたが、《私はこう思うとのみ宣言して解釈さえ放棄する》のは、ツイッターなどのSNSだけではなく、ブログなども似たりよったりなのだろう。わたくしも気づかぬままに、似たような寝言を書いていないとは決して断言しがたい。

「《思想》とか《内的構想》が書物に先立って、書物は単にそれを書き表すだけだ、と考える単純な先行論」の一般化された形式を、「イデアリズムと呼ばれる伝統批評」にほかならぬと彼(デリダ)は断じている(……)。だが、「神学」的たることをまぬがれぬこの「伝統批評」の観念論――そこには、私はこう思うとのみ宣言して解釈さえ放棄する無邪気な「無神論者」も含まれようーーは、彼にとって文学の批評の名に値するものとはいいがたい。なぜなら、それは「神学」的な解釈手段を無自覚に文学に適用したものでしかなく、そこには批評など成立しようもないからである。(蓮實重彦「「本質」、「宿命」、「起源」」)

だが、なぜこのようなことが起ってしまうのか。

今人々は、『内部』の閉域での符牒のやったり取ったりだけでコミュニケーションの用は足りると信じ、言語というこの怪異な化け物への畏れをすっかり失ってしまっているようです。(松浦寿輝 古井由吉との対談『色と空のあわいで』2007)

本来は、いまのような複雑な世では、一つの考えや状態を人に伝えるのに、どうしてもワンセンテンスの呼吸が長くなるはずなんです。切れ切れの話でやったららちがあかない。もちろん、複雑な事態を複雑なまま、できるだけ正確に伝えるのは難しいが。まずは、一つ呼吸を長くする、というようなことでしょうか。(古井由吉さん 衰えゆく言葉を鍛えよ

「符牒」の時代であり、「呼吸の短さ」の時代、それはツイッターやブログに「スローガン」的短文を書いて事足れりとする病気の時代でもある。

……もろもろのオピニオン誌の凋落は、「あたしなんかより頭の悪い人たちが書いているんだから、あんなもん読む気がしない」といういささか性急ではあるがその現実性を否定しがたい社会的な力学と無縁でない。そんな状況下で、人がなお他人のブログをあれこれ読んだりするのは、それが「あたしなんかより頭の悪い人たちが書いている」という安心感を無責任に享受しうる数少ない媒体だからにほかならず、「羞恥心」のお馬鹿さんトリオのときならぬ隆盛とオピニオン誌の凋落とはまったく矛盾しない現象なのだ。〔蓮實重彦「時限装置と無限連鎖」)

…………

※附記:ドゥルーズの超越論的経験論の浅田彰解釈(『批評空間』1996Ⅱー9 共同討議「ドゥルーズと哲学」(財津理/蓮實重彦/前田英樹/浅田彰・柄谷行人)より)。

ドゥルーズは「超越論的経験論」という一見逆説的なことを言っている。ただちに経験論につく前に、いちど徹底的に超越論的であれねばならない、というわけです。

その立場から見たときに、カントはたしかに超越論的領野を発見したけれども、それを経験的領野の引き写しにしてしまうことで、超越論的な探求を中途半端に終えてしまった、ということになる。

つまり、「私とは一個の他者である」というランボーの言葉を先取りするような形で、超越論的な自己と経験的な自己の分裂、見方を変えれば自己の諸能力の分裂を発見しながらも、経験的領野において前提されていたデカルトの「良識(ボン・サンス)」につながるような「共通感官(コモン・サンス)」における諸能力の調和を密輸入することで、そのような分裂をあまりに性急に縫い合わせてしまった、ということになるわけです。

ただし、カント自身、晩年の『判断力批判』において、「美」の共通感官を論じたあと、「崇高」を論じたところで、それを超える方向を示している。その方向を徹底的に突き進めなければならない。

諸能力を、超越論的というより、超越的に使用すること、つまり、それぞれの能力がそれぞれの原理に従って行くところまで行くようにに仕向けてやることで、「ボン・サンス」や「コモン・サンス」の閉域を突き破り、やはりランボーが「あらゆる感覚の錯乱」と呼んだような非人称的な高次の経験へと突き抜けていかなければならない。そのような経験に定位するのが、高次の経験論、つまり超越論的経験論だということになるわけです。

そういう超越論的経験論の次元での超越論的領野は、さらに存在論の次元では「成立平面(プラン・ド・コンシスタンス)」あるいは「内在的平面(プラン・デイマナンス)」と呼ばれるんですね。ドゥンス・スコトゥスが「一義的な存在」を提示し、スピノザがそれを「神即自然」として肯定し、ニーチェがさらにそれを動態化して「永遠回帰」と呼んだ。

この動態化のキーになるのは、「回帰とは生成の存在である」という規定で、それが示すのは、アナーキックな生成が行き着くところまで行けば自ずと堅固さ=一貫性(コンシスタンス)を持つ―――カオスー彷徨(カオエランス)とひとつであるような一貫性(コエランス)を内在的に獲得するということです。

もはやそれを超越する外部の点をもたないこのような領野が、「成立平面(プラン・ド・コンシスタンス)」あるいは「内在的平面(プラン・デイマナンス)」と呼ばれるわけですね。

さらに、ベルグソン哲学との関連では、そのような領野は「潜在的<潜勢的>なもの(ヴィルチユエル)」の場として規定されます。そこでは、差異的=微分的differentielな諸関係とそれに対応する諸特異点から成る潜在的な多様体があって、それが分化differenciarionの過程を通じて顕在化<現働化>(アクチュアリゼ)されることで、現象が構成されることになるんですね。

このように呼び方はさまざまですが、ともあれ、カオス的な領野があって、そこでは私も世界も多数多様な粒子と流束の群れになっているというわけです。したがって、それは独我論の対極に見える。

しかし、すべてがひとつの「内在平面」の内にあって、私も複数、他者も複数なのだから、そこに他者性はない。その意味で、ドゥルーズの哲学は、過激な独我論―――自我さえ必要としないほど過激な独我論だと言ってもいいのではないかと思うんです。

『意味の論理学』(69年)の付録でクロソウスキーとトゥルニエを論じているところを比較してみると、それがよくわかるでしょう。クロソウスキー論で描かれているのはまさに多数多様性の世界であって、カントにおいてまだ保たれていた自我と世界と神の統一性が解体し、すべてが多数多様な変容へと解き放たれる―――小説に描かれたアレゴリーで言うと、一個の身体の中に複数の霊が入ったり出たりして、狂気のような永遠回帰のロンドを踊るということになるわけですね。

ところが、トゥルニエ論の方では、そのような世界は実は孤島のロビンソンに対して現れるのだと言っているんです。ロビンソンが一人で島に流れ着く。それは他者のない世界なんですね。ドゥルーズは、他者というのは「可能世界の表現」だと言う。私の知覚野は狭いけれども、他者は私に見えないものが見えているかもしれないし、私に感じられないものが感じられているかもしれないし、そもそも、そのような他者がいるからこそ知覚野が共同主観的構造として整然と秩序化されているのだ、と。しかし、それは現象のレヴェルの問題にすぎない。たしかに、そういう他者がいなくなると、最初、世界の秩序が崩壊して、ロビンソンは非常な苦しみを体験する。しかし、それを突き抜けていくと、ロビンソン自身も島全体がエレマン(諸元素)の群れとなって立ち上がり、コスミックなロンドを踊り始める。フライデーが出てきても、他者としてではなく、すでにエレマンテールなものとして出てくるにすぎない。それがトゥルニエの偉大な独我論的ファンタスムなのだ、というわけです。

それと併せて見れば、ドゥルーズは、ニーチェからクロソフスキーに至る多数多様性のヴィジョンを、むしろトゥルニエ的な独我論の相で見ていると言えるのではないか。

もしそう言えるとしたら。それを具体的な「外」と接合していくきっかけになったのが、交通の人としてのガタリとの遭遇だ、というのが、最初に言った仮説の後半なのですけどね。

―――浅田彰は、この引用の冒頭に、次の仮説を提出している。

ドゥルーズは、最も正統的な哲学史家であり、最も正統的な哲学者であって、まさにそのことによって哲学史や哲学を突き抜けた。ただし、それは、独我論者―――もはや自我も必要としないほど過激な独我論者としての突き抜け方だった。それに対し、ガタリは最も過激な交通の人として現れてくる。そして、極端な独我論者と極端な交通の人の遭遇から、『千のプラトー』を頂点とする奇跡的な果実が生み出される。しかし、ドゥルーズ自身は、それ以前も、その以後も、良くも悪くも非常に正統的な哲学者だった。

※附記:カオスとは?(同じく浅田彰の発言による)
丸山圭三郎派の幼稚なカオス概念、つまり言語的に分節化されない一様な混沌がカオスだと言うなら、もちろんそのようなカオスはドゥルーズにはない。むしろ、カオス―――少なくとも内在平面においてとられられたカオスは、それ自体、とことん差異化=微分化されていて、さまざまな特異点がひしめいている。そのようなものをカオスと呼ぶなら、それは潜在的多様体として存在する。