2014年8月6日水曜日

キッチュの華

古義人は小林秀雄訳『別れ』をまだ松山に転校して行く前、愛読していたのだ。(……)吾良がそこに書き写してある前半の結びの、
《だが、友の手などあらう筈はない、救ひを何処に求めよう。》
という詩句にこだわるとしたら、と考えもしたのだった。

(……)
――あの翻訳は、自分勝手な感情移入をしているようではあるが、やはりいいねえ!
――そうだね、と古義人は声に喜びが滲み出るのを押さえず答えたのだ。

二年前、この詩を書き写しながら、古義人は、その最初の行が、俺達はきよらかな光の発見に志ざす身ではないのか、という、その俺達と呼びかける友達がいない、と感じたものなのだ。

いま、ここに俺達の片割れがいて、同じ詩に感動している、と古義人は思った。もっとも当の詩は、さきのような前半の結びに到るものだったけれども。

大江健三郎の『取り替え子 チェンジリング』からだが、古義人は大江自身、吾良は伊丹十三がモデルである。

いまここにあるのは小林秀雄訳じゃなくて、この間、きみの推選されたちくま文庫版だがな、あらためてそれで『別れ』を読んでみると、おれのいったことは、その後のおれたちの生涯によって実証されている。まったくね、痛ましいほどのものだよ。

あの書きだしのフレーズを、きみが好きだったことは知っているよ。おれも同じことを口に出した。しかしあの時すでに、おれはあまり立派な未来像を思い描いていたのじゃなかった。そしてそれも、ランボオの書いていることに導かれて、というわけなんだから、思えば可憐じゃないか? それはこういうふうだったのさ。

<秋だ。澱んだ霧のなかで育まれてきた私たちの小舟は、悲惨の港へ、炎と泥によごれた空はひろがる巨大な都会へと、舳先を向ける。>というんだね。

それに続けて、都会での<また、こんな自分の姿も思い浮かぶ。>というだろう? <泥とペストに皮膚を蝕まれ、頭髪と腋の下には蛆虫がたかり、心臓にはもっと肥った蛆虫がむらがっていて、年齢もわからなければ感情もないひとびとの間に、長ながと横たわっている…… 私はそこで死んでしまったのかも知れないのだ……>

これはじつに正確かつ具体的な、未来の予想だと、おれは保証するよ。きみのことは知らないが、とまあここではそういっておこう! おれ自身の近未来像を思えば、まったくドンピシャリだ。(……)

のみならず、次のフレーズにいたるとね、おれはやはり自分の作った映画のことを思うんだだよ。<私はあらゆる祝祭と、あらゆる勝利と、あらゆる劇とを創造した。新しい花、新しい星、新しい肉体、新しい言語を、編み出そうと試みた。超自然の力を手に入れたとも信じた。>
 
古義人のことをね、定まり文句で嘲弄するやつがいるね。サブカルチュアに対して差別的な、時代遅れの純文学、純粋芸術指向のバカだとさ。しかし、おれはそうは思わないんだ。きみの書いているものをふくんで、あらゆる文学が、むしろあらゆる芸術が、根本のところでキッチュだ、と長らく小説を書いてきたきみが承知していないはずはないからね。そうしてみれば、おれの作った、お客の入りのすこぶるいい映画をね、おれ自身、もとよりキッチュな光暈をまといつかせてやってきた。おれはあらゆる祝祭と、あらゆる勝利と、あらゆる劇とを創造した、とホラを吹いたとして、きみは笑わないのじゃないか?
(……)さて、それからランボオはこういうんだ。<仕様がない! 私は自分の想像力と思い出とを、葬らねばならない! 芸術家の、そしてまた物語作者のすばらしい栄光が、持ち去られるのだ。>
<とにもかくにも、嘘を糧にしてわが身を養って来たことには、許しを乞おう。そして出発だ。>
いま、このくだりがおれにはじつに身にしみるよ。古義人、きみもそうじゃないか? おれたちのような職業の人間にしてみれば……キッチュの新しい花、キッチュの新しい星を切り売りしてきた人間にしてみればさ、年の残りも少なくなって、こういう覚悟に到るほかはないじゃないか!篁さんはどうだったろう? 

きみはそうしたことを、あの人が癌で入った病室で聞いてみなかったか? 篁さんの音楽こそは純粋芸術で、キッチュなどとは無縁だなどというのじゃあるまいね? 篁さんに最後の愛想をつかされることがあったとしたら、古義人がついにセンチメンタルになって、そう言い張ろうとする時だったぜ!

十六歳の古義人に会った時から、おれはきみに嘘をいうな、といってきた。人を楽しませるため、人を慰めるためにしても嘘をいうな、と言い続けてきた。ついこの前もそういったところじゃないか? しかし、夫子自身が嘘を糧にしてわが身を養って来たことは、それはその通りだった。ふたりともどもにさ、なにものかに許しを乞うことにしようじゃないか、そして出発だ。

伊丹十三の妹は、大江健三郎の妻であることは、あらためて言うまでもないが、やはり言っておこう。




――あなたがまだ若くて、おもに翻訳を読んでいた頃、早口で発音不明瞭というところもあったけれど、話の内容は本当に面白かったのね。輝くような、風変わりなほど新しい表現があって……

それが永いメキシコシティー滞在の後、翻訳じゃなく外国語で本を読むようになってから、あなたの使う言葉の感じが変わったと思う。新しい深さが言葉に反映している、とは思うことがあるのよ。けれども、なにか突拍子もないおかしさ、面白さの言葉には出会わなくなった。小説に使われている言葉もそうじゃないかしら? 成熟ということかも知れないけれど、以前のようにキラキラした言葉はなくなった。そう考えているうちに、私はあなたの小説を読まなくなってしまったのね。それで、この十五年ほどの小説のことはなにもいえないけれど、そうした変化と、翻訳より原語で読む方が多くなったということと、関係があるかも知れないと思って……原書を読む人こそ、日本語にない面白さを持ち込む、と考えるのが普通かも知れないけれど……

――それは本当にそうかも知れないね。僕の本の売れ行きが下降線を示しはじめたのは、四十代後半からだからね。あまり翻訳を読まなくなった時期と一致するよ。きみのいうとおり、キラキラする面白さが薄れたのかも知れない。翻訳されたものを読む面白さには、原語から読みとるのとは別の、いうならば露骨なものがあるんだよ。あれをこう訳すか、これだけやっていいものか、と驚きながら、自分にはこの日本語は生み出せない、と感服することがよくあるものね。とくに若い有能な翻訳者には、異能といっていいほどの力を示す人がいるよ。(……)

――フランス語の新しい作品を翻訳する、若い人の文章には、突飛な面白さがあるねえ、といった。

――まあ、そうだね、アメリカ西海岸の大学の、直接フーコーの影響下にいる連中などは別として、英語の文章はそれ自体地道だものね。とくにイギリスの学者が書くものは…… 僕の文章がキラキラしなくなったというのは、ブレイクからダンテ研究まで、おもにケンブリッジ大学出版局のモノグラフを読んできたことと関係があるかも知れない……P64-65


ーーというわけで、キッチュをキニスンナよ、そこのきみ! 

きみのは《純粋芸術で、キッチュなどとは無縁だなどというのじゃあるまいね? 
篁さんに最後の愛想をつかされることがあったとしたら、
古義人がついにセンチメンタルになって、
そう言い張ろうとする時だったぜ!》

というわけで、きみがセンチメンタルになったとき、オレは貶すだけさ
篁さんだって、キッチュに決ってんだ。





ただキッチュどんぴしゃなのに
自分は「芸術的」だと思ってる手合いがいるんだよな

女性の困った性質として、芸術が自分を高めてくれる、という考えに熱中するあまり、すっかり自分が高まっちゃった、と思い込むことであります。(三島由紀夫「反貞女大学」)

最近は女性だけじゃないからな
それだけはやめとけ!



《キッチュな人間のキッチュな欲求。それは、あばたをえくぼと化する虚偽の鏡の覗きこみ、そこに映る自分の姿を見てうっとりと満足感にひたりたいという欲求である。》(クンデラ「七十三語」)

キッチュという言葉は、どんなことをしてでも、大多数の人びとに気に入ってもらいたいと望む者の態度をあらわしています。気に入ってもらうためには、あらゆる人びとが理解したいと望んでいることを確認し、紋切り型の考えに仕えなければなりません。キッチュとは、紋切り型の考えの愚かしさを美しさと情緒の言葉に翻訳することなのです。キッチュは、私たち自身にたいする感動の涙を、私たちが考えたり感じたりする平凡なことにたいする 涙を私たちに流させます。

どうしても気に入られ、そうすることによって大多数の人びとの関心を得なければならないという必要を考えてみれば、マス・メディアの美学はキッチュの美学にならざるをえません。マス・メディアが私たちの生活のすべてを包囲し、そこに浸透するにつれて、キッチュは私たちの美学にそして私たちの日常の道徳になっていきます。最近まで、モダニズムは紋切り型の考えとキッチュにたいする非順応的抵抗を意味していました。今日では、モダニティはマス・メディアの途方もない活力と一体になっていますし、モダンであるということは、時代に乗り遅れないようにするためのすさまじい努力、このうえなく型どおりであるよりもさらに型どおりであろうとするためのすさまじい努力を意味しています。モダニティはキッチュというドレスを身にまとったのです。(クンデラ「エルサレム講演」『小説の精神』所収)
キッチュが呼びおこす感情は、もちろんそれを非常に多数の人が分け合えるようなものでなければならない。従ってキッチュは滅多になり状況に基づいてはならず、人びとが記憶に刻み込んだ基本的な姿に基づいていなければならない。恩知らずの娘、問題にされない父親、芝生を駆けていく子供、裏切られた祖国、初恋への思い出。

キッチュなものは続けざまに二つの感涙を呼びおこす。第一の涙はいう。芝生を駆けていく子供は何と美しいんだ! 

第二の涙はいう。芝生を駆けていく子供に全人類を感激を共有できるんは何と素晴らしいんだろう!

この第二の涙こそ、キッチュをキッチュたらしめるものである。

世界のすべての人びとの兄弟愛はただキッチュなものの上にのみ形成できるのである。

世の中に政治家よりこのことをよく理解している人はいない。政治家は身近にカメラがあると、すぐ一番近くの子供に駆け寄り、その子を高く持ち上げて、頬にキスする。キッチュなものはあらゆる政治家、あらゆる政党や運動の美的な理想なのである。(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』P290-291)

ところで、きみ!
《言葉が他者の凝視に対峙したとき、そのときエクリチュールは真の産声をあげ》
などと書くのは、かなりヤバイぜ
上に挙げた偏屈ものの小説家や批評家たちだったら
鼻を抓むぜ!
とくに《エクリチュールは真の産声をあげ》というのは
いままでどれだけ繰り返されてきた台詞だろうか?
《昔からひそかにくりかえし暗記していた台詞が、
ふと口から漏れてしまったような印象》(蓮實重彦)
「既成の言葉の中から自動的に選ばれる」ような
三文小説家をめざすならまだしも

→ 大江健三郎と三島由紀夫の文体をめぐるメモ


すこしまえ、デモーニッシュの嘲笑という表題で書いたんだが、
投稿を思い留まったんだよ
だがここに附録のようにしてつけ加えておくことにする
やっぱりこれだけはやめといたほうがいいんじゃないかい?

…………

「デーモニッシュなシューベルト...
どうしてこんなにも惹かれるのかしら」

などとどこかのオジョウサンが呟いておられる
のを垣間眺めて寒いぼが立ってしまう
これはどういうわけだろうか?
とは捏造された疑問符であり
オレが偏屈もののせいにきまっている

そうはいってもなぜなのか
そもそもシューベルトといえば
デモーニッシュというに相場が決っている
手垢にまみれた形容詞デモーニッシュ
デーモニッシュなシューベルトなんて
「銭湯の壁画みたい」(丹生谷貴志)

《安堵と納得の風土の中に凡庸さが繁殖する。
そこに語られる言葉が紋切型というやつだ》(蓮實重彦)

金井美恵子あたりなら、その毒舌の真っ先の矛先
いや矛先どころか絶句してただちに背を向けるだろう

《おしなべて他者への媚びと「つるつる生きる」ことの鈍重な自足
に改めて愕然とさせられる》

ああ恥ずかしい! でも安心しろ
ダイジョウブだ、もはや金井美恵子の
凶暴な繊細さと大胆さは通用しない時代だ

あたしなんかよりニブイひとたちが書いているという
安心感を無責任に享受しうる媒体の猖獗
《「羞恥心」のお馬鹿さんトリオのときならぬ隆盛》(蓮實重彦)
の時代なんだから
「はしたなさは進歩する!」
とはフローベールは言っていない
「愚かさは進歩する!」だけだ
だが似たようなもんだぜ、
フローベールの愚かさは凡庸なんだから

凡庸な資質しか所有していないものが、その凡庸さにもかかわらず、なお自分が他の凡庸さから識別されうるものと信じてしまう薄められた独創性の錯覚こそが、今日における文学の基盤ともいうべきものだからである。文学と文学ならざるものとは異質のいとなみだという正当な理由もない確信、しかもその文学的な環境にあって、自分は他人とは同じように読まず、かつまた同じように書きもしないとする確信、この二重の確信が希薄に共有された領域が存在しなければ、文学は自分を支えることなどできないはずだ。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

まともな感性があれば決して書きえない言葉
ーーなどとはオレはケッシテイワナイ
そらこの通り、お馬鹿さんトリオの媒体のひとつに書き綴っている
オレにもまともな感性はないさ

はしたない感性しか所有していないものが
そのはしたなさにもかかわらず
なお自分がそのはしたなさから識別されうるものと信じてしまう
薄められた上品さの錯覚ってヤツだぜオレのはな
それに手垢にまみれた形容詞でも活きることはあるのだから

《形容語句に生き生きとした魅力を与えるのは、
しばしばそれが置かれている位置であり、
隣接する言葉がそれに投げかける反映なのである》(ナボコフ)

ああでもそれにもまして
「どうしてこんなにも惹かれるのかしら」だって?
これだけはやめとけ!
なんというホモセンチメンタリスぶり!

ホモ・センチメンタリスは、さまざまな感情を感じる人格としてではなく(なぜなら、われわれは誰しもさまざまな感情を感じる能力があるのだから)、それを価値に仕立てた人格として定義されなければならない。感情が価値とみなされるようになると、誰もが皆それをつよく感じたいと思うことになる。そしてわれわれは誰しも自分の価値を誇らしく思うものであるからして、感情をひけらかそうとする誘惑は大きい。 (クンデラ『不滅』)

感傷にひたる俗物を批判するのが文学のつとめだ
というのはナボコフだ
《俗物は文学や芸術のことは何一つ知らないし、
知ろうともしないが
──俗物は本質的に反芸術的である──
情報は求めているし、
雑誌を読む習慣は身につけている》(ナボコフ)

それにまだあるんだな
「デーモニッシュなシューベルト...」の三点リーダー
《わたくしが耐えがたかったのは、
このような点を平気で書くことや、
それが印刷されたものを眺めて
恥ずかしさを感じない連中が
少なからずいたことでした。
そんなややつは馬鹿だ、と》(蓮實重彦)
――《あれが許されるのは歌謡曲の世界でしょう。
あとは丹生谷貴志さんくらい》

ゴメンアソバセ!
偏屈者の書き手の文ばかりあげてしまった
でも「はしたなさ」の権化のような囀りだぜ
いやオレだって「…」の曖昧な情緒に溺れて
いい気持ちになることあるさ
他人の囀りのはしたなさを俎上に上げるなんて
厚顔無恥だわ…
もう、いけずやわあ。うちそんなん、よう言わん
粗暴とさえいえる

《おわかりだろうが、わたしは、
粗暴ということをあまり見下げてもらいたくないと思っている。
粗暴は、きわだって”人間的な”抗議形式であり、
現代的な柔弱が支配するなかにあって、
われわれの第一級の徳目の一つである。
--われわれが豊かさを十分にそなえているなら、
不穏当な行動をするのは一つの幸福でさえある》(ニーチェ)

デモーニッシュとは由緒正しい言葉だ
ゲーテの著作に頻出する
「デーモンのdämonisch嘲笑」(『詩と真実』)
いまやってるのはデモーニッシュな嘲笑さ

ソクラテスのダイモーン起源でもあるらしいな
アドルノやトーマス・マンにも頻出するさ
ニーチェのディオニソスと並べてね
だが《ディオニソス的なニーチェとは異なる
プラトン的なニーチェというものを想定せねばならない》(ドゥルーズ)

「どうしてこんなにも惹かれるのかしら」
などという自己耽溺の破廉恥な囀りを
破廉恥とさえ感じない連中があまた
棲息するのがインターネットというものだ
《それを崩れと観るという感受性それ自体が、
こんなに萎えてしまっているのではねえ》(松浦寿輝)

《女性の困った性質として、芸術が自分を高めてくれる、
という考えに熱中するあまり、
すっかり自分が高まっちゃった、
と思い込むことであります》(三島由紀夫)

エスにたいする自我の弱さ、われわれのうちにあるデモーニッシュなものにたいする合理性の弱さについて、無数の声がこれを強調し、この言葉を、精神分析学の「世界観」の支柱とみなそうとしている。だが、分析家がこれほど極端な党派にかたよらぬようにするものこそ、抑圧の効能についての知恵ではなかろうか。(フロイト『制止、症状、不安』)

さてなんの話だったか
ああ「デーモニッシュなシューベルト...
どうしてこんなにも惹かれるのかしら」
おそらく物を書くとは、こう内面でひそかに呟いて
それを表に出さずに、「翻訳」することなのだ
《書くことは語らないこと》(デュラス)

「批評」は、本質的に言い換えの作業にほかならない。翻訳とも呼べるその作業は、言い換えるべき対象としての他者の言説の中でまどろんでいるしかるべき記号に触れ、それを目覚めさせることから始まる。数ある記号のどれに触れて目覚めさせるかで、読む主体の「動体視力」が問われることにもなろうが、それは、読むことで、潜在的なものを顕在化させる作業だといってよい。その覚醒によって、他者の言説は、誰のものでもない言説へと変容する。その変容は、 “できごと” として生起し、「批評」の主体をもいくぶんか変容させずにはおくまい。言い換えれば、その二重の変容を通して、とりあえずの翻訳におさまるのだが、「批評」は、それがあくまでとりあえずのものでしかないことを知っている。また、それを知らねば、たんなる「厚顔無恥」に陥るほかはない。

決定的な翻訳にたどりつくことなく、「厚顔無恥」に陥ることも避けながら、とりあえずの翻訳にとどまるしかない「批評」は、あるとき、その宿命として、「表象の奈落」を目にする。そこには、もはや、他者の言説など存在せず、覚醒すべき記号さえ見あたらない。その視界ゼロの世界で、とりあえずのものでしかないにせよ、主体にこの不断の翻訳をうながすものは何か、どんな力に導かれて「批評」は記号の覚醒を目ざしたりするのか、それが物として生みだされるのではなく、事件として起こることを許すものは何か、等々、いくつもの声として響かぬ疑問を前にして、人は言葉を失う。「批評」が「批評」を超えた何かに触れることで陥る失語に言葉を与えるものは、もはや「批評」ではない。だかれといって、それが「哲学」かといえば、それは大いに疑わしい。(蓮實重彦『表象の奈落』「あとがき」より)

わかってるさ
これももはや通用しないのは。
今の日本ではもうイロニーさえない。
《たんに夜郎自大の肯定があるだけです。
はっきりいって、現在の日本には何も無い。
そして回復の余地も無い》(柄谷行人)
ーーなどと言う旧世代の死にかけたオッサンたちは
ほうておけばよろしい
厚顔無恥の夜郎自大の彼岸にある
来るべき「批評」!
美しき羞恥心の魂の果物

これは、志賀直哉の小説で読んだと覚えているが、父親が病気の子供をかかえて、夜の闇の中を医者のもとに走るーーあるいは、子供をおいて医者を呼びに走るーーその時、彼は、シューベルトの歌《エリケーニヒ(魔王)》を思い出し、何といやな歌だろう、こんな歌を書いたシューベルトとは何といやな男だろうと呪う。志賀直哉という人も、少なくともここでは、自分の感情をむき出しにぶつけて書いているという印象を与えずにはおかないけれども、しかし、その中には真実な直観がある。シューベルトという男は、疑いもなく、人間の心の奥底にある何かにじかにぶつかり、そこに眠っている深い恐怖をひきずり出してくることのできた芸術家である。

《エルケーニヒ》には、馬のはしるところの描写だとかいう三連符のリズムの持続音型があるわけだが、それはそう思ってきけばというだけの話だけであり、まして《死と乙女》には、そういうモチーフはまるでない。ここでの三連符が死神の象徴ということにはならない。しかし、彼はどんな標題楽作曲家もやれないような形で、音楽を通じて、特定の感情をきくひとからひきだす。そうしないではいられなかった男である。

だが、シューベルトにできたのは、こういう鬼気迫る、凄みだけではない。《ぼだい樹》の三連符――風にそよぐ大樹の葉ずれの音といわれている、あのモチーフ。それと組みあわされた旋律。あれは、きくものをどんな子守唄よりも、もっと深い、私たちの生命の根源にあるところまでつれていって、その眠りの中に誘い入れる魔力をもっている。トーマス・マンが《魔の山》の終りで、戦死した主人公の最後の意識の中で浮びあがらせるのが、この旋律であるのは、この音楽のもつ真実と完全に一致する。ここでは、死は解放であり、安息なわけだが、音楽が生まれてきたのは、その死からだといいたくなるほどである。



シューベルトには、音楽にしかない道を通って、こういう生死の根源的な源泉にじかにぶつかるという経験を、きき手に味わせずにはおかない能力がある。それは、きき手の深い陶酔の中で行われるのだが、その時、きき手は何も、いつも、志賀直哉の小説の主人公のように、闇夜の苦悩の中にいる必要はない。いや、正反対である。それは、あの《ます》の歌の澄んだ、平明な三連符の躍動の中にもあるのだし、《水車小屋》の若者といっしょに、小川の流れのモチーフを口笛で、何回もくりかえしていたってかまわない。

シューベルトの音楽には、日常生活の次元での意識にそって、そのまま動いていながら、同時に、もうひとつ下の層の意識を呼びさます力がある。その時、私たちは、音楽に魅せられて眠りに入るといってもよいし、逆に、日常の世界から、もうひとつの深い世界への意識に目ざめるといってもよい。どちらにせよ、同じことなのだ。それを、私は、シューベルトの音楽のデモーニッシュな性格と呼ぶ。(吉田秀和『私の好きな曲』)


音楽について書くのは実にむずかしい
吉田秀和や小林秀雄の文だって
鼻をつまみたくなるときがある

モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない.涙の裡に玩弄するには美しすぎる.空の青さや海の匂いにように、万葉の歌人がその使用法をよく知っていた「かなし」という言葉のようにかなしい。こんなアレグロを書いた音楽家はモオツァルトの後にも先にもない。(小林秀雄「モオツァルト」)

「かなしさは疾走する」なんていま誰かが囀っていたら
やっぱりデモーニッシュな嘲笑の対象だ
当時「皺のない言葉」(ブルトン)であったにしろ
いまでは手垢まみれの陳腐化だからな
ーーというのは育った環境と時代、
そして教養によって異なるのだろうな

というわけでひとによるんだろ
シツレイしたな